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台本/0:0:2/セレクトシーリングコート

心機一転、ロンドンにやってきて人生の選択をしにやってきた『私』と会話している子供。そんな中、駅の向かいのホームで見かけた親子の行動を見て、子供が提案してきたことは……。

A:十月、ロンドン。おやつどきを過ぎた頃には日が暮れる。
B:三時のおやつは……どこの習慣だったかな?
A:ここに私がきたのは、一人の人間として暮らすためだ。周囲の人間関係、仲が悪いわけではないが親からの将来に対する催促、どんな仕事をしていたかという履歴、肩書きと現実ばかりの会話、そんなものが全てない環境で、選択をするためにきた。
B:そう、人生を変えようとまずは形から、身一つでこの寒空のロンドンにやってきたわけだ。
A:そう、選択をしにきたのだ。
B:人生は選択だらけ。その選択には必ず今までの、生きてきた軌跡が角度を変えようとしてくる。
A:少しでも、私自身の内から湧き出てきた純粋な選択をするためには、今まで生まれ育ち暮らしてきた全てを投げ捨てて、異邦の地にやってくるのが一番だと思った。ここには私という一人の人間だけが存在し、いかに行動するか、いかに人と接するかだけが自分の肩にかかっていて、それ以上のことはまだ積み重なっていないまっさらの状態なのだ。
B:まっさらだといいんだけどねえ。君は英会話はどうだい?
A:会話が成り立たないということはないが、ヨーロッパ各国から来ている生徒は明らかに耳がいい、というのが事実だった。暮らしてきた環境が十年以上違うのだ、こんなことは愕然とするに値しない。勉強をしてきていた私は、ヨーロッパ圏以外の人たちとは驚くほど早くコミュニケーションが取れるようになれた。
B:しかしコミュニケーションクラスでは成績が一番下、つっかえては講師にため息をつかれるのはいつものこと。苦い顔が網膜に焼きついちゃっているほどだ。
A:私はただ楽しむためにきたわけではない。悔しくてたまらなかった私は、友人たちとの遊びに出かけた日にも、必ず同じ時間机に向かい、壁に向かってシャドウイングをして暮らしていた。そのうち、日本語で考える前に、英語でものを考えるようになっていた。むしろ、日本語であれなんだったっけ、と思い出すのに時間がかかることが増えた。
B:と、そんな風に努力が実ってきたんだ、ちょっとした冒険をしようと思ったんだね。
A:その日、私はパークロイヤルにいた。駅から少し離れた所に、ロイヤル・メイルという郵便局があるのだ。
B:荷物を受け取った時にはもうおやつ時はとっくに過ぎて真っ暗、ちょっと不安になっていた君はきょろきょろとあたりを見回していた。そんなつもりはないだろうけどバレバレだよ。
A:荷物が急に届かなければ、本当はレスタースクエアに行って買い物をしたり食べ物を食べたりした後、ウエストエンドで劇場に行こうと思っていた。ちょうど、私の英語の力も何とか努力の結果か滞在期間のおかげかものになり始めていて、普段の本当の雑談に困らなくなってきていたので、芸術に触れてみるのにも悪くないとおもっていたところだったのだ。
B:芸術の都とは言わないけれど、美術に触れるには最高の場所の一つだといえるねえ。
A:駅ホームで電車を待っていると、若い夫婦が子供を連れているのが見えた。懐からまだ青いリンゴを出すと、子供が齧り、母が齧り、父が齧った。よくみると三人の身なりはお世辞にも良くなく、それでもその、リンゴを齧った。その幸せそうな表情は素晴らしく美しく感じた。どんな芸術にも勝るのではないかと感じてしまった。
B:そこで君は何かするのかい?
A:(M)気づくと隣に赤い帽子を被り、鉄の杖をついた子供が座っていた。いや、ずっといた。
B:施しを与えてあげるのかい?今日の荷物を受け取ったお釣りで彼らはリンゴをもう一つ食べられる。それとも君が食べちゃうかな?あの親子が食べた青リンゴはどんなに美味しかったのだろう、というような想像をしながら。
A:確かにおいしそうだったけど、そんな楽しみ方するのって最低じゃないか。
B:別に最低じゃないよ。誰かがおいしそうに食べているものを、私も食べてみたい。テレビで芸能人がおいしそうに食べている高級料理を食べてみたい。何も変わらない。その手段が今の君にあるかどうかだ。そして、今、君は、選択ができる。
A:(M)選択という言葉に、私はひやりとした。偶然だろうか。偶然に決まっている。
B:君はどんな選択をするんだい?
A:(M)ギョッとした。私の手には瑞々しい青いリンゴがいつの間にか握られていたのだ。
B:偶然だろうと偶然でなかろうと、君の中では選択になるんだろう?人生は選択の連続だ。そう、君の歩いてきた轍はあまりにも長く深い、君にとっては十年以上の重みがある。持ち上げることもできなければ壊すこともできない。方向を変えるには精一杯レールのレバーを引くしかない。君は今、リンゴを一つ握っている。
B:リンゴはほら、その手にある。あとは君の選択次第だ。向かいのホームのあの清貧な家族のもとへ走っていって、このリンゴをどうぞ食べてくださいと渡すか、電車が来てしまうかもしれない、時間に追われてしまっている、向かいまで行くのが面倒くさいと、青いリンゴを手の中で弄んで齧るか捨てるのか。さてさて、いつもの君ならどうしたね?
A:(M)日本での私はどうしただろうか、決まっている。絶対に持っていかなかっただろう。手間を惜しんで、まあ何とかなるさと放っておいた。しかし、私は選択するためにここに来たんだ。だから、私は、もちろん。
B:あ、それと、そのリンゴはとても貴重なものだよ。君の人生がこの先何があっても幸運に見舞われ、すべての選択が最終的にうまくいくようになり、良縁がつながり、金銭的にも困ることはない。人生の流れがたちどころに変わり、君の悩みだった英語の能力も飛躍的に伸びる。そんな胡散臭いことが本当に起こってしまうリンゴだよ。*今の君なら理解できるはずだ《・・・・・・・・・・・・・》。
A:そう、このリンゴは。このリンゴは見る見るうちに黄金のリンゴと見まごうごとく瑞々しさを増して、今にもむしゃぶりたくなるくらいに、美味しいという言葉が陳腐に思えるくらいに、許してもらえるのなら神々しい芳醇な何とも言えない香りを漂わせている。
B:それに、今から立ち上がって走っていっても、あの親子が電車に乗ってしまうかもしれないよ?決断が遅いのは人間の悪い癖だね。さあさあ、君の選択を見せておくれ。
A:(M)私は。
A:(M)私は。全力で走った。郵便局で預かった荷物は椅子に放り出したまま、ただ青いリンゴを持って階段を駆け上り、向かいのホームへ駆け降りた。ちょうどホームに電車が来ている所だった。あの親子はどこにいる、もう電車に乗ってしまう所だった。私は迷わず電車に飛び乗り、その親子に駆け寄って、青いリンゴを手渡した。息が切れて変になってしまった英語で、向かいのホームでリンゴを三人で分けているのを見たので、もしよかったらどうぞ、と。三人の家族は微笑むと、今喉が渇いてそれが必要なのは君の方じゃないのかい?と、返してきたが、これは私の意地だ、選択だ。いえ、このためにここまで来たので、と意味不明を通り越して不審者に思われるようなことを口走ってしまった。しかし、その親子はまるで三人とも祈るような姿で、『あなたに神の祝福がありますように』と私のために祈りを捧げてくれた。気恥ずかしくなった私は次の車両に移動していって、また元の駅に戻ってきた。
B:やあ、きみの選択はあの家族に施しを与えたんだね。君の幸運をすべて投げうってあげた施しは、彼らの感謝一つに消えたんだ。それはそれはもったいないことだね。さっきのリンゴの効果が本当だと今の君にはわかっているはずだ。だけど、ただの貧乏人にくれてやった。
A:(M)荷物と共に残っていた赤い帽子の子供はつまらなそうに、けれど同時に面白そうに吐き捨てた。
A:施しなんてものじゃないよ。私が手に持っていたものが、今の私には過ぎたもので、目の前の、ちょっと頑張れば届く所にきっと必要な人がいた。だから私はちょっと頑張っって届けただけ。もし私にとって今どうしても必要なものだとは、あの幸せの価値よりもあるものだとは思えない。
B:へえ、近頃にしては殊勝な心掛けをしているね。それだけのちょっとした努力を惜しむ人間が世の中には溢れているというのに。君は理解していたはずだ。あのリンゴは本物だったということを。でも君は自分で手に入れることを選ばなかった。何故だい?
A:どうだろう。あの親子を見ていなかったら、私は聖人君子じゃないから思わぬ幸運に飛びついてしまったかもしれない。でも、あの幸福そうな顔というのは、ただのリンゴを食べて手に入れたもので、特別なリンゴを食べた時のあの親子がどんなに美しくなるのかを試してみたくなってしまったんだ。
B:結果を見ることもできないのに奇特なことだねえ。君は二度と、あの家族に会うことはないよ。
A:ただ、私は日本でずっと暮らしていたら君のいうように、何もしないでみているだけだったと思う。変わろうとしてここにきて、そして実際に一から始めてから気づいたことがあったんだ。美しいものを見たい。美しいものを育てたい。それが私の願いなんだってね。
B:……一人の家族の敬虔な祈りを得ることができる人間がどれだけいるか知っているかい?本気の祈りを手に入れることがどれだけ難しいか。本当の祝福を手に入れるには、歴史上の人物たちに名を並べるほどの善業をなさなければならない。それほどのことなんだよ。それほどの善業だったんだ、あのリンゴは。
A:そんな大げさなことじゃないでしょ。でも、そう、私は、選択した。今日も一つの選択をした。厳密にはこの子供にさせられたのかもしれないけど。でも、私はああやって、よかったと思う。
B:これが東洋の大和魂とかいうものなのかな?よくわからないねえ。僕が見てきた中では本当に珍しい。
A:私は今日、幸福の意味を少しだけ知ることができた。そして、少しの幸福を、こんな単純なことで感じさせることができた。それって今までの私ではできなかったことだから。私がここにきて何もなくしてから選択した結果。これで満足だ。
B:もともと君には歩んできた道があった。でも、その道を断ち切ってここにやってきて、自分は変わったと思った。でもそれは大きな間違いだ。君が歩いてきた轍は依然として君の後ろにある。過去を何もなくせる人間なんか存在しない。君が異邦の地で重荷をなくして一番軽くしたのは、過去にこだわる転てつ機の重さだよ。今回の転てつ機を切り替える君の速さはなかなかだった。
A:それ、褒めてるの?
B:褒めてるといえば褒めている、褒めていないといえば褒めていない。だって、君が転てつ機のレバーを倒すのが遅ければ、君の命運はここで尽きていたんだから。
A:あはは……なにそれ。
B:(ひどく真面目に)そうだね、君のここでの選択によっては、僕はこの真っ赤な帽子を被ったままで、この鉄の杖で君の首を切り落とさなければならなかった。この帽子も鉄の杖も必要なさそうだね。
A:え……?
B:つまり君の選択は異国の地の不審死を避けることができたということだよ。
A:何を言ってるの……?最初からさっきまでずっと話し……あれ?ちょっと、え?あなたは、だれなんですか?
B:君の選択によってシーリングコート、あるいはアンシーリングコートとなった者さ。珍しいよ。今時、地下鉄で妖精に声をかけられて、生死の境を彷徨うなんて。君の選択はこの先もずっと正しくあるだろう。君に妖精の祝福を。
A:(M)そう言った子供は、いや、妖精は、もうそこにはいなかった。
B:リンゴの代金はいただいているよ。ただ、ちょっとおまけをしておいてあげよう。あと荷物の見張り料もね。

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