実例 ケミカルピーリングと希死念慮

酸を使ったピーリング仕様のフットパックというものがある。靴下のような形の袋に液がうすく溜まっていて、それを履いて30分〜2時間等ものによって違うが、足を浸したままおいておくと、3日後〜1週間後に自然と足の皮がむけてかかとなどがつるつるになるというもの。

これが本当はよろしくないものなのは理解している。使用した人の中には火傷状態になってしまい、肌がただれてしまった人もいるそうで、美容外科医なんかが注意喚起したりしている。

でも使ってしまう…………。嫌なことに今は1回300円程度の安価で買えるものが出回っており、液も少なく乳酸なら……みたいな浅はかな素人考えで使ってしまう。
私は足指まわりの皮膚が固く、白っぽくなりやすいため、これを使うとふにゃふにゃの皮膚に一時的にでもなるので、年に1〜2度ほど使ってしまう。皮がずるずる剥けるので、シンプルにそれもたのしいというのもある。
ただ使っていて、あきらかに剥ける必要のないやわらかな足の甲部分などもうすく剥けるし、若干そこがひりついているので本当はこれがよくないものであることも本能的に察知はしている。
固くなった皮膚部分が剥けると、その下にある生まれたての皮膚が柔らかくてうれしくなるが、結局それはターンオーバーを無理やり促しているだけだし、いずれ皮膚は硬化することもわかってはいる。
むしろやわらかな皮膚に触れるほど、こんなに刺激に弱そうなやわやわな皮膚がそのままでいるわけがない、これを守るためにさらに強い外殻に育つに決まっているんだ……………とわかってはいる。わかってはいる!!!!!!

ただどうしようもない足先の皮膚が一時的にやわらかくなることに病みついてしまっている。
美容皮膚科の先生がたはみんな、そんなもん使わないで保湿しろと言う。それで済んだらこんなもんに手出さんのだわという反発する気持ちがある。
一応ケミカルピーリングというものがこの世にあって、個人個人にあわせた濃度や時間や成分で皮膚をいい感じにしてくれる医療が存在しているが、正直言って美容整形外科や美容皮膚科が溢れたこの国ではそれすらもピンキリ状態だ。クリニックにかかれば絶対安心かといえばそうでもない。

私は普段から靴下+NIKEのバッシュしか履かない主義のため、まだ比較すると足裏の状態はいい方なのだと思う。真冬はかさつくこともあるが、ほとんど悩んではいない。にもかかわらずこれを使うことに躊躇しつつ手が伸びてしまう。
世の中の、サンダルやミュールを履いている人なんかはもっとキツい思いをしているに違いない。こんなお手軽なものがあったら飛びついてしまうのも頷ける。

市販のフットピーリングパックは紙パックの鬼ころしより体に悪い。
せめて監査が入って、ただちに人体に危険を及ぼすような濃度のものなんかは淘汰されてほしい。それでもこういったものに頼るのは、根本的な解決にはならないが、じゃあ根本的な解決をしようとなると「歩かない」とか「立たない」とかになってくる。
靴下でインソールの厚い足によいとされるスニーカーをもってしても劣化はしていくのだ。最終「死ぬ」が一番いいのかもしれない。
そもそも人体の耐久年数は20年程度だ。30年を超えたらあとは朽ちるまでの時間になるし、いろんなメンテナンスが必要になって維持費だけがかさんでいく。なんで長生きしなきゃいけないんだ。
道具はちゃんと手入れすれば長く使えるが、それでもガタがくる。包丁を研いで使い続けたら刀身そのものが削れてなくなっていくではないか。それと同じで人体ももともと長くもって50年程度なのだから、人間は寿命に逆らうべきではないのではないか。
私はこれを小学生くらいの時から言っているんだけど、なんで安楽死って認められないんだろう。ちなみにこんなことを小学生のころから言っている理由は私の脳に物理的な問題があるせいだということが最近わかった。

夏なので裸足でいる機会も多く、靴下とNIKE以外に、リカバリーシューズを使用する機会も増えた。リカバリーシューズは良い。私はTELICのサンダルを使っているけど、靴下をはいても見た目がかわいいし、散歩も1万歩くらいまでなら余裕でできる。
こうやって話が脱線し続けていくのも先述の脳みその問題らしい。
個人的にこういうのを一般的に「脱線」ということはわかっているんだけど、それ以上に自分の感情として「これも言いたいしあれも言いたい」という精一杯でもある。私と同じ症状の人もみんなそうなのだと思うから、脱線している人は混線する頭の中からとにかく情報を吐き出したいのだと思って欲しい。

リカバリーシューズの良さは置いといて、つまり裸足でいる機会が増えたから足を綺麗に保ちたいな、パックしよう。パックして皮がむけて少しだけひりひりするたびに思う。
これ、怖すぎ。
誰かなんとかして。
その感情を追求していくとポジティブな希死念慮になる。ポジティブな希死念慮はもはや自分のアイデンティティにすらなっている。

私は昔毎日のようにブログを書いていて、多くの人がそれを見に来ている環境にあったが、当時のそれもこんなあっちこっちに脱線しまくる文章だっただろうか。そんな気がする。だとしたらよくあんな人数がそんなものを毎日見に来ていたんだな。変な人たち。

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