違和感

朝のニュース。緊急事態宣言があけた1日がどうだったかサプライズの花火と共に流れ続けている。

 学校再開においては、水道水が飲めないから水筒持参、体温チェック、分散登校のための様々な戸惑い…送り出す側も迎える学校側も『出来る限りの対策をして再開していきたいと思います』と報じられる一方、北九州市でクラスターが発生のニュース。

 緊急事態宣言中、厳しい自粛生活の中でおそらく無症状保菌者が今、市中感染者の中で占める割合が多くなっていることだろう。つまり、その状態は、比較的元気な人たちが会社へ行ったり、学校へ行ったり、電車に乗ったり、スーパーに行ったり。。。

 無症状保菌者たちの間でどんどん感染を広めてしまう。言われているように、その人たちの間では、抗体がつくられているのかもしれない。しかし、必ずその先で、重症化リスクの誰かが感染してしまう。例えば、病院。元気な人たちで広まった無症状保菌者の1人がたとえば病院を何らかの理由で訪れてしまい、エレベーターや会計、多くの人が必ず利用するその場所に微々たるウィルスでも置いて帰ってきてしまう。すると、免疫力の弱った患者の1人でも、同じその場所使ってしまうだけで罹患してしまうかもしれない。

 その人が入院患者だった場合、あっという間広まってしまう。たちまちクラスターの発生だ。今、北九州市で起きている事態は決して特別ではなく、初めから予測されていた状況が現実のものとなっただけに過ぎない。(誰も言わないけれど、政府お抱えの医療専門家たちもきっと気付いていての政策をずっととってきている)

 どれほど対策をしようが、北九州市でも、すべて完璧に講じられていた対策なのではないか。それでは防げなかったのではないか。それなのに、同じ条件で、学校が再開してしまう。

 なぜなのだろう。悲しいかな。同じ事態が起こってしまうとしか考えられない。

 全く同じ日に報じられているのに、問題提起することなくアナウンサーは淡々とニュースとして述べる。この新型コロナウィルス、臨機応変に賢く生きないと本当に生き残れないと思う。

 勉強以上に思い出が大事だとされているけれど、命を失うことと天秤にかけて果たして釣り合う幸せなのだろうか?もし、後遺症を残して生きることになるウィルスである場合、本人も家族も、そのたったちょっと思い出のために、一生後悔して生きるということはないのだろうか。もし、友人の誰かが亡くなってしまったなら、心に開いてしまう穴は、どれほどか…とは思わないのだろうか。

 緊急事態宣言解除で登校でさえ、スタートをきってしまったものは止まれないみたいだ。そんな日本で、今、9月入学の議論はして欲しくはない。もし、9月入学が決定されてしまえば、どんな悪条件が揃おうが、ブレーキを踏むことなく強行されることだろう。ニュースもそれを普通に報じ、命がけの生徒も親も、大半は気づかないで巻き込まれてしまうことになるのではないか。

 わかっていながらも無理をして準備しなければならない教師たちもかわいそうだ。9月入学なんて歴史的な瞬間、日本政府が失敗させるわけにはいかないときっと力が入ることになることは想像にたやすい。状況次第では、即休校と決めれる大人が関わらないのなら、絶対に決定して欲しくはない。

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