朗読『ふぎむにん』

冬の短い夕暮れ時に鴉が鳴いていた。
こんな日は昔にあった、ある出来事を思い出す。
地方独特の方言が当たり前のように使われていた小さな町だった。
まだ私が右も左も知らないような幼い少年だった時に、ふぎむにんを見た。
そいつの顔は伸び放題の黒い髪で覆い隠されていて分からなかった。ごみ袋に群がる鴉の汚らしい羽を、大きな防寒着に貼り付けていた。手に持ったビニールの中には、安物の酒が幾つも入っていた。そこに居るだけで、空気が濁っているような感じがした。
冬なのにサンダルで歩いていて、時折足に付いた雪を鬱陶しい風に払っていた。行き場のない物乞いにしては生気が無かった。
家に帰った後に私は拙い語彙を精一杯披露して、今日会った存在について説明した。
「そりゃ、ふぎむにんよ。ばか珍しいわ」丁度泊まりに来ていた叔父が揶揄うように言った。
地蔵やら大きな寺やらがそこら辺にあるのは、ああいう不気味な奴を退ける為にあるのかと、そう思った。
当時私は好奇心に溢れていた子供だったので、外を歩くとあちこちを見てふぎむにんを探してばかりいた。
今考えると随分と危ないことをしていたと分かる。ただ、サンダルの足跡一つ残っていなかった。

町は小さいものだから、機嫌良く歩いていようものなら、何人か同級生の子と会ってしまう事も良くある。
この子達は私よりも好奇心旺盛で、排他的だった。変わり者の事を無邪気に虐めていた。私もそのうちの一人だった。
ある寒い日の事だった。子供達がふぎむにんの話で盛り上がっていた。先生に言っても知らん顔されるだの、親は近づいちゃいけないよだの、町の大人はあの存在に対して積極的では無いようだった。
隅っこでじっと話を盗み聞きしていると、数人の子供に囲まれてしまった。その内の一人に「おいしょったれ。おめさちょっと来いよ」と両手を掴まれたまま連れていかれた。

彼らの話を聞くと、雪で白くなった田園の奥にある竹林にふぎむにんが入っていったのを見たらしい。
集団の中で特に大柄な子が私を竹やぶの方へ背中を力強く押した。どうやら私は生贄の役らしかった。逆らっても酷い目に合うのは分かっているので、仕方なく竹やぶの方へ向かった。後ろの方で子供達が此方を笑っているのが聞こえた。
竹林の中に入ると空気が歪んだ気がした。雪の重みに負けて、沢山の竹が曲がっていた。横から吹いてくる冷たい風で頬が痛かった。
道無き道を時間を忘れるくらい歩いた。膝くらいまである雪が鬱陶しい。薄暗い空間に光が見えたので誘われるまま進んでみると真っ白な壁があった。
辺りを染め上げる白とは違う色彩の壁には、サザンカの花弁が幾つか貼り付いていた。窓も何も無い四角い箱のようだった。
周辺には竹林の侵食を食い止めるようにサザンカの低木が生えている。取り外された木製の扉が墓石のように地面に刺さっていた。
足元に違和感があると思い、踏み抜いた場所を見てみると下には年代の違う鍵が数え切れない程あった。

この異質な場所に、憧れと恐怖が混ざった複雑な感情を抱いていた。壁と鍵と扉は元々家になる予定があったのだろうか。とにかく震えが止まらなかった。
何かが羽ばたく音がして、正気に戻ったようにびくりと体が反応した。壁の横にはふぎむにんがいた。
ふぎむにんは座り込んで酒を飲んでいた。口元まで伸びた黒い髪の毛は濡れていた。
時折懐をまさぐってサザンカの花を取り出して食べていた。あの鮮やかな花弁の一つ一つが動物の血肉のように思えて恐ろしかった。

気でも狂ったのか私は「おい化けもん。おめ花が好きなんか」と早口で言った。
するとふぎむにんは無言でサザンカの低木を指差した。あまりも細い腕だから枯れ枝のように簡単に折ってしまえそうだと思った。
そうして考えていると焦れったくなったのか、ふぎむにんは指を何かを摘むような形にした。あの花が欲しいのだろうか。私は離れた場所にあったサザンカを傷つけないように摘んでふぎむにんに渡した。
ふぎむにんはひょいと花を摘むと残った酒と一緒に一息に飲み込んでしまった。髪の隙間から黄ばんだ乱杭歯が見えた。
手持ちの酒を飲み干して満足したのか、ふぎむにんは私の方を向いて手を鳴らした。もう帰ってくれと言っているようだし、何かを要求しているようにも感じた。
どうしようも出来ないのでふぎむにんに背を向けて、町へ帰ろうとした。鴉の鳴き声が煩いくらい聞こえる。
振り返ろうとは思わなかった。二度とこの場所から出れないような気がしたから。

それから一週間は経った。何故か子供達に虐められることは無くなった。彼らは別人のように優しくなって、日暮れまで遊んだり、勉強を教えたりもした。
鴉の声を聞く度にふぎむにんの事を思い出す。あれ以来見かけることは無かった。どこで何をしているのか分からないが、きっとそこら辺の店で酒を盗んでサザンカを食べているんだろう。そんな予感がした。


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