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FC今治と私〜20年前の出会い編〜

TwitterでFC今治サポーターの皆さんが公開されているnoteを拝読しているうち、より多くの人々が自分のFC今治愛を叫ぶ事で、お互いの違いを認め合いながらも共に熱く応援して行く事ができるのではないか。
noteというツールを使い、互いのバックグラウンドを理解する事がサポーター同士の潤滑油になりうるのではないか。
そんな気がしたので、拙い文章力しかないくせに、私も私なりの物語を紡いでみる気になった。

"今越FC"

というクラブをご存知の方はどれぐらいいらっしゃるだろうか。そう、

大西クラブ―今越FC―しまなみFC―愛媛FCしまなみ―FC今治

と続いてきた、FC今治の前身クラブである。

約20年前、私が地元中学校のサッカー部でプレーしていた当時。現FC今治アドバイザー・矢野繁宣先生らが中心となり、トップチームしかなかったクラブにジュニアユースチームを発足させ、今治からプロ選手を、世界へ羽ばたく選手を育てようという、いわば"今治トレセン"のようなチームを作ろうという事になった(私はそう解釈している)。

各中学校の顧問のうちこれに乗っかる者とそうでない者がおり、私の通うN中学校の顧問・M先生は前者だった。

何年か後に知ったのだが、M先生は矢野先生の高校・大学の後輩、さらに保護者の中にも高校・大学の先輩がおり、恐らく断る事が出来なかったのだろう。私たちの前では「ワシはこういうのは好きじゃない。レギュラーじゃない選手を上達させようとするならまだしも」と仰っていた。

レギュラーとしてプレーさせてもらっていた私は今越FCへと派遣される事になるのだが、今思えば、このような状況のなか、幸運にも今越FCや矢野先生と出会えた事が、私の将来を大きく左右する事になる。

もしこの出会いがなければ、今このような形でFC今治に関わる事はなかったかもしれない。その点において中学時代の恩師・M先生には非常に感謝している。

今越FCでの練習は新鮮そのもので、例えばボールを受ける時の体の向きなど、今では個人戦術と呼ばれるものを身に付けさせて頂いたり、いつも参加するのがとても楽しみだった。

20年前は今のようにいつでもいくらでも、ネット上からトレーニング方法や戦術などを学べる術がある訳ではなく、先生や監督から教わることがほぼ全てであった。だから今越の練習に参加するといつも新たな発見があり、楽しくて仕方なかった。

また、春休みには京都遠征に連れて行って頂いたり、夏休みには今越招待(後のバリカップ)開催、森島寛晃さんや木村和司さんらを招いてのサッカークリニックを設けて頂くなど、貴重な経験をたくさんさせて頂いた。

N中からは今越へ大勢参加していた事もあってか、N中はメキメキ力をつけ、2年の秋には四国新人大会、3年の夏には県総体出場する事ができた。
(越境入学もなく100%地元選手、ハーフコートサイズの土のグランドしか持たない部が、このような成績を残せたことは、M先生による偉業だと言っても過言ではない)

当然高校でもサッカーを続けるつもりで、どこの高校へ行こうかと思案していた中3の秋。急転直下、青天の霹靂、まさかのオファーが、私の元へ舞い込むのである。

「ウチで駅伝をやらないか」

県内、いや、四国屈指の高校駅伝の強豪校、今治北高校、H先生からの誘いであった。

実は私、N中サッカー部、今越FCだけでなく、N中駅伝部との3足のわらじを履いていたのである。

まさかの話に完全に戸惑い、悩みに悩んだ当時の事は、今でも鮮明に覚えている。

そして出した答えは、駅伝、陸上競技の世界へ飛び込む事だった。

理由のひとつ目は、今治の高校でサッカーを続けてもかなり難しい全国大会出場(県No.1)も、北高の駅伝なら、かなり高い確率で出場できそうだった事。新聞にカラーでデカデカと写る白とえんじ色のユニフォームは、強烈にカッコよかった。

もうひとつの理由は、N中サッカー部、M先生の厳しい指導に心が折れかけていて、新たな世界へ飛び込んで新たなチャレンジをしてみたかった事である。

サッカーとの別れ

そうして今治北高校陸上競技部への入部を決断した中3の冬をもって、私のサッカー選手としての生活は幕を閉じた。

同時に今越FCと私の物語もここで終わりかと思われた。
が、しかし、切れかけた細い糸は、かろうじてずっとずっと繋がったまま、現在まで続いて行くのである。

そのお話はまた今度。




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