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祖母を偲んで

祖母が亡くなったらしい。

もう10年近く会っていなかったので、すごく近い人でもないのだけれど、ちゃんと涙が出るのでから不思議である。大人になって会わなかった10年よりも、子供の時に一緒に過ごした数年間の印象のほうが強いようだ。

祖母という人間については知らないことばかりだが、祖母が私にしてくれたことは覚えている。夕方に流れる夕焼けこやけのチャイムを聞くと、小学校にもあがらない頃に祖母に手を引かれながら歩いた帰り道を思い出す。

祖父母はおそらくわたしが6歳くらいの時に離婚した。故郷へ帰った祖母は気の合う親族と静かに暮らしていたようである。不器用だけど優しい人だった。8歳の時に曽祖母のお葬式で祖母を尋ねた際、両親は夜行列車で帰ろうとしていたのだが、祖母は帰りの飛行機を予約してくれていた。その親切心すらも申し訳なさそうにしている姿が印象に残っている。

この訪問の際、サービスエリアとかであるような淡い黄緑の鈴を買ってもらった。祖母に買ってもらったのが嬉しくて、音が鳴るのを気にしながらも筆箱につけていた。しばらくはその鈴がわたしの1番の宝物だった。

そのあとに祖母を訪ねたのは20歳の時だった。祖母と母が疎遠なのには薄々気がついていたので勝手に会いに行こうとしていたのだが、結局は母にバレてしまった。しかし意外にも母はすんなり連絡をとってくれて、20歳の夏に祖母を訪ねることになった。

10年以上会っていなかったのだが、駅まで迎えに来てくれた祖母のことはすぐに認識することができた。向こうもすぐわかったようだった。静かに細々と暮らしていたであろう祖母の家には、新品の冷風機があり、大量のカレーとお菓子が準備されていた。全て私のためである。

祖母の姉の愉快なおばさんと3人でスナックへ行き、そのおばさんと常連さんのカラオケを聞いた。祖母は楽しそうだった。しかし決して自分で歌おうとはしなかった。恥ずかしいと言っていた気がする。写真も嫌がる人だったので大人になってからの祖母との写真は残っていない。祖母はこの突然の訪問を喜んでくれていたらしい。本当かどうかはわからないが、私はこの事実に救われている。

祖母と祖父がどうして離婚したのかはわからない。その祖父ももうこの世にはいない。そもそも祖父母の関係に対して、母は「離婚」という言葉を使ったことがない。母はこれからもきっと話さないだろう。

わたしもそれを母に聞かないと思う。母が言いたくないならそれでいいし、いつか言いたくなったらその時に聞けばいい。この少し複雑な状況において、誰のことも悪く言わない母には感謝しかない。わたしの思い出は綺麗なままである。

「家族だから」「血が繋がっているから」という言い方が私は大嫌いだが、家族という繋がりがあったがゆえに、子供の私に対して親切にしてくれた人が死ぬのは悲しい。

私はこれからも夕焼けこやけを聞いたら祖母のことを思い出すだろう。祖母を偲んでこの文章を残します。

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