15.サティスファクション


 フミがイチのことをわからないのと同じぐらい、イチにも自分自身のことがわからなかった。
フミがイチに説明を求めていたとき、イチとしても同じ思いだった。
現状と気持ちをきちんと説明して、フミにわかるように伝えたかった。
ところが、何がどうなっているのかがイチにも全然わからなかったから、何も言えなかった。
イチとしても誰かに説明を要求したいところだった。

 このひと夏のあいだ、フミはイチの喜びの源泉だった。
ワンピースを着たフミや、ノースリーブシャツを着たフミが、街や水辺や林を歩くのを見るだけで、イチは嬉しくなって元気がでた。
そんな愛らしいフミが、イチのことを見て笑い、イチのことを気にかけ、イチと一緒にいるのが楽しいと言ってくれるのだ。
イチはその出会いと奇跡に感謝し、どうかこの二人の時間が守られますようにと祈った。
フミを見つめつづけることが、イチの人生そのものなのだと思った。
それなのに、今それを壊そうとしているのはイチ自身なのだ。
しかも、そうしなければならない何か具体的な理由があるわけでもないのに。
単に、今やフミはイチにとって喜びではないどころか、不満の種そのものだというだけだ。
今でも、イチのものさしで見て、フミはたしかにかわいかったが、それだけだった。
喜びにも欲求にも結び付かなかった。
フミはただ、イチにとってわずらわしく苦しいものであり、早く排除したいものだった。
フミが苦しんでいることが、イチを苦しめた。
そのフミの苦しみがイチによって引き起こされたものであることが、イチを苦しめた。
それについてイチには何ひとつ説明も理解もできないことが、イチを苦しめた。

 この苦しみについて、イチにはどのような手を打つことができるだろうか。
この状態でフミをほっぽりだして別れるのは、あまりにも自分勝手で逃げ腰の選択であるように、イチには思えた。
だからといって、これだけ苦しみながら、なおもこだわりつづけて苦しみつづけるというのも、賢い選択であるとは思えなかった。
どちらもある程度まで望ましい選択のように思えたし、どちらもある程度まで愚かしい選択のように思えた。
結局、現状を理解できない中で、「どうすべきか」を考えつづけたところで、答えなど出ようもなかった。
イチにとってはっきりしていたのは、ただフミを排除したいということだけだった。


 イチの望みは、素敵な女のコを楽しませて喜ばせて幸せな気持ちにさせることだった。
それなのに、現状はどうだ。自分の勝手な気分次第で好きなようにふるまって、女のコを幸せにするどころか苦しませている。
イチはそんな自分のことを、本当に未熟で出来そこないの卑劣な男だと感じた。
素敵な女のコは、イチのような出来そこないの弱虫にかかずらっているべきではない。
素敵な女のコは、もっときちんと愛せるようないっぱしの男と素敵な時間を過ごすべきだ。
そのためであれば、出来そこないのイチはいつまでも一人きりでいることも甘んじて受け入れる覚悟がある。
イチのような出来そこないにとっては、誰とも関わらないことだけが、真に人々のためになる行いなのだ。
イチは心からそう思った。

 イチはフミと付き合いつづけるべきだった。
それは明白なことだった。
「いつかどこか」で誰かとまた付き合うのなら、「今ここ」でフミと付き合いつづけ、少しでもいい自分になれる道を探したほうがいい。
ここまでフミと一緒に作ってきたイチの新しい生活のリズムがあるのなら、それを続けたほうがいい。
しかし、それほど明白なことだったにもかかわらず、イチはそれに固執することができなかった。
自らに課した課題を捨て、生活のリズムを失った。
それはイチにとって、またもやむかえることになった挫折だった。
イチはそんな自分が嫌いだった。
短い期間でさっさと切り上げてしまう自分が嫌いだった。

 しかし、どうすれば、それ以外のあり方でいられるのだろうか。
フミと付き合いつづけることに固執するのなら、そのために必要なのは、物事がイチの思い描くとおりには進まないということを受け入れることだ。
あくまでもイチがフミと一緒にいるためには、美しさが汚されようとも、それを受けいれて一緒にいるべきだったのだ。
しかし、どうしてそんなことができるのだろう。
一緒にいたいとは少しも思わないのに。
どうして、自分に嘘をついてまで、それに固執する必要があるのだろう。
課題を設定したのは、求めるものを手に入れるためだ。
求めるものが消えたのだから、課題も共に消える。
そうすると、もはやイチにはすることが無くなった。
もはや世界は虚無であり、永遠に何一つ動くもののない停滞の風景になっているのだ。


 イチはみんなのことがうらやましくなった。
イチだって、他のみんなのように、何年も一人の人と付き合いつづけたかった。
何よりも、女のコと付き合っては別れる、その繰り返されるパターンの連続には、嫌気がさしていた。
無限の輪廻の中で永遠という名の孤独に閉じ込められるのではなく、確かに昨日とは違う日を過ごしたかった。
起点と終点があり、変化と刺激の日々を過ごしたかった。
そうでなければ、自分が本当に根無しの漂泊者で、何もつくる能力の無い愚か者というふうに思えてならなかったからだ。

 土地や因習に縛られた息苦しい魂にとって、漂泊は確かに一つの憧れであり、救いである。
しかし漂泊者は、いつしか亡霊のような我が身の透けて消えそうな希薄さに気づいておののく。
誰かを抱きしめることで、誰かに抱きしめられることで、我が身が確かにそこに脈動していることを確かめたいと思う。
しかし、そこにとどまりたいと思えるほどの場所がなければ、どこに住みつくことができるだろう。
イチはこの世のどんな場所にも、どんな女のコにも満足できそうになかった。
それでも生きていくためには、そんな現実を受け入れるしかない。
それはわかっている。
ただ、そうまでして生きなければならない理由がわからなかった。

書く力になります、ありがとうございますmm