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初めての Speak yourself

1960年生まれの私は、「いい歳をしてARMY」なんてぜんぜん恥ずかしいと思っていません。
私がいい歳をして恥ずかしいのは、人権や差別、日韓の歴史、政治についても何も知らないことです。
大江千里がバンタンについて少し間違った発言をしたときに、「だからこの世代はいやなんだ」というツイートを見ました。
大江千里も1960年生まれなので、私も含めて困った世代なのだと思いました。
社会が変わらず今が生きにくいのは、私の世代が何も変えてこなかったせいだと痛感しています。
Twitterのなかで若い皆さんのスペースなどを聞き、学ばせてもらっています。
この先、20年で世の中は良くなるのか、私はもう間に合わないかもしれません。
私はその日に間に合わなかったとしても、少しでも後の世代の人たちが幸せになれるよう何かをしたいと思っています。

高校2年の夏休み、私は倫理社会の宿題のレポートを書きました。
被差別部落か在日韓国朝鮮人の差別についての課題でした。
私は在日韓国朝鮮人差別について図書館で調べてレポートを提出しました。
今でいうコピペなレポートは、読み返すと文章のつながりが変だったけど手書きで直す時間がなくてそのまま出しました。
先生はほめてくれたけど、つぎはぎなレポートが恥ずかしかったのを覚えています。
(レポートで何度も書いた「在日韓国朝鮮人」の表記ですが、今は間違っていたらすみません。)

私はそのレポートを書くなかで在日韓国朝鮮人の人たちが差別されていることを初めて知りました。
習ったはずなのに、午後の体育の後の倫社は寝てしまうことが多かったのでした。
慰安婦や強制労働、日本語や日本名を使わされたこと、植民地支配や南北に国が分かれたことなど、なにこれひどい!と思いました。
レポートの最後は、「私は差別をしたことはなかったけど、知らなかったことが差別につながってはいなかったか。私は自分の子どもにこのことを必ず伝えたい。」とまとめました。

私は結婚して2人の男の子の母になりました。
たぶん長男が小学校の高学年の頃に、在日韓国朝鮮人の人たちへの差別について話しました。
今思えば、どんな風に話したのか覚えていないけど、倫社の先生に「私はレポートに書いた約束を守りました」と伝えたいほど晴々とした気持ちでした。

そして月日は流れ、新型コロナでステイホームが始まったころ、私は突然ARMYになりました。
そして日韓の問題も差別も解決されていないことを知りました。
映画「マルモイことばあつめ」で、植民地支配が35年も続いたことや、日本名と日本語の強制の様子などを見て、衝撃を受けました。
衝撃のまま、関連するような本やTwitterで勧められていた本を読みました。
関東大震災の記録を集めた「九月、東京の路上で」を読んだときは、途中で読み進められなくなりました。
自分の国である日本が嫌になり、そんな日本で活動してくれるバンタンに申し訳なく、もう日本語で歌わないでいいですと思い、最後にはこんな私がバンタンを好きでいさせてくれてありがとう、と思いました。
あのレポートに書いた私の想像をはるかに超える事実と現実がありました。

私の間違いは、差別を知った後に何もアクションを起こさなかったことです。
知って安心し、伝えて安心しただけでした。
ドキュメンタリー番組で指紋押捺が無くなったのを知って、よかったなと思ったのは覚えています。
でもバンタンやARMYに出会うまで、差別が無くなっていないこと、さらにひどくなっていることは知りませんでした。

ARMYになって私は、初めてインドネシアの人たちと横並びで同じアイドルを思うことにわくわくしました。
ブラジルのスタジアムで熱狂する自分を想像することもありました。
よく旅行していたフィンランドで「ニイハオ」と声を掛けられる私は、アジア人差別を受けていたのだと知りました。

日々の暮らしのなかで、その言い方は誰かを落としてる、アジアの人を差別したら自分も含まれてるのに、など気付くようになりました。
でもうまく指摘はできないけれど。
まだ知らない、ぜんぜん知らない、けど全部知るまで待っていたら私は間に合わないと思うのです。
なのでここで自分について語ってみました。

2022年3月4日(金)

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