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健康と文明病 ②(走る狩人)

 前回、炭水化物への過度の依存が文明病の原因であると述べましたが、もう一つ重要な要因があります。それは運動不足です。こう言うと、多くの方はそんなことはよく知っていると思われる事でしょう。実際、生活習慣病に対しては運動不足の解消が盛んに推奨されています。しかし、ここで社会常識となっている運動不足について敢えて取り上げようと考えたのは、運動が私たちが想像する以上に健康や幸福に決定的な役割を果たしているからです。じつは、運動は脳の働きにも重要な影響を与えており、認知症や精神疾患とも深く関係しているのです。

人は何故、ウルトラマラソンを走れるのか?

 皆さんは、『BORN TO RUN/走るために生まれた』(クリストファー・マクドゥガル著)をご存知でしょうか?。これは今から10年以上前に出版されたウルトラマラソンの物語で、世界にベアフット・ランニング(裸足ランニング)のブームを巻き起こしました。ウルトラマラソンでは、100kmや24時間走、長いものでは6日間レースや約5,000kmを走るものまで有ります。通常の42.195km のマラソンでも凄いと思うのに、何故ウルトラマラソンのランナーは、数百kmもの気の遠くなる様な距離を、何日間も走り続ける事が出来るのでしょう。実は、ここには人類進化の大きな秘密が隠されているのです。

 それは『BORN TO RUN』で紹介され、有名になったランニングマン仮説です。つまり、人間は走る事に適応し進化した、文字通り「走るために生まれた」動物だと言うのです。私達は長らく、人類は樹から降り、森を出てサバンナを直立二足歩行で歩き始めて進化したと教えられて来ました。ところが、直立二足歩行ではなく、サバンナを走り回る事で類人猿から分れて進化したという話なのです。

 実は、私達の身体には、明らかに走る事に適応した幾つもの特徴が有ると言うのです。まずヒトの目立った特徴が、ふくらはぎと踵をつなぐアキレス腱を持つ事です。実は、チンパンジーなどの歩く動物には、アキレス腱は無いと言います。二足歩行は竹馬で歩くのと同じで、アキレス腱は何の役にも立たないと言うのです。ところが、走る事は一方の足から他方の足への跳躍の繰り返しであり、アキレス腱がゴムバンドの様に伸縮する事で、着地のエネルギーを次の跳躍へと効率的に利用出来る様になるのです。

図6)アキレス腱

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 また、チンパンジーの足には土踏まずのアーチが無く扁平です。私は、毎朝40~50分の散策をし、週に一度は約10Km 程山歩きをしています。ですから、年間にすると1300Kmは歩いている計算になるのですが、何故か偏平足なのです。これだけ歩いているのに、何故偏平足が治らないのかと不思議に思っていたのですが、歩行には土踏まずは余り必要無いと言う事なのでしょう。裸足で走ってみるか、その場で足踏みすれば分かりますが、走る時は踵を浮かせて足の前部で着地しています。つまり、土踏まずのアーチ構造は、走る時の着地の衝撃を和らげる目的で進化したと考えられる訳です。

図7)土踏まずのアーチ

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 つま先も、我々は短く真っ直ぐで走り易い形になっていますが、チンパンジーでは長く広がっており、歩くのにずっと適しています。また、大殿筋もチンパンジーにはほとんど有りません。お尻を掴んで歩いてみると分かりますが、尻の筋肉は柔らかいままで、歩行時には使われていません。つまり、大殿筋は歩行ではなく、走る時に顔面から転倒するのを防ぐ目的で発達した筋肉だと言うのです。

図8)大殿筋

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 また、首の後ろを縦に走る項靱帯も、走る動物だけが持つ特徴だと言います。項靭帯は、頭蓋骨の外後頭隆起と外後頭稜から、首下部の第7頸椎の棘突起まで伸び、さらに脊柱の棘突起を連結する棘上靱帯へと繋がっています。僧帽筋・頭板状筋はこの項靭帯に付着しています。

図9)項靱帯(頭骨の外後頭隆起から脊柱に伸びる赤色の線)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図10)頭蓋骨底部の後頭骨(中央下の延髄が通る大後頭孔から上に伸びる外後頭稜・外後頭隆起)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図11)項靱帯(I)・棘上靱帯(J)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

項靭帯は、走る事に適応した人間や動物で独立に発達した腱のような構造で、動物が早く動く時に頭を安定させる働きをしています。また、有蹄動物など一部の四足動物では、頭の重量を支える働きをしています。一方、類人猿を含め走らないほとんどの哺乳類では、項靭帯は存在しないか薄い筋膜になっています。その結果、豚の様に項靭帯を持たない動物が走ろうとすると、頭が四方八方に揺れてしまうのです。

走る狩人、ホモ・エレクトス

 このように、私達の体の多くの特徴が走る事への適応を示している訳ですが、実はこれが人類進化の歴史と深く関わっているのです。かつて、猿人と呼ばれていた400万年前のアウストラロピテクスでは、後頭部が滑らかで項靭帯が無く、アキレス腱も無かったと言われます。これらが出現するのは約200万年前のホモ・エレクトスからで、項靭帯が収まる浅い溝や、アキレス腱の痕跡が見つかっているのです。

 以前は、原人と呼ばれていたホモ・エレクトスは、約200万年前に出現し、約10万年前まで約190万年間もの長期にわたって生存し、アフリカからヨーロッパ、アジアに至るまで生息域を広げて繁栄し続けた私達人類の直系の祖先です。年配者には懐かしい北京原人やジャワ原人は、現在ではこのホモ・エレクトスに分類されています。身長は146〜185 cm、体重は40〜68 kg、脳容積は546~1,251 ccと大きく分散していますが、過去60万年間のアジアのホモ・エレクトスの脳の大きさは、現代人の集団と大幅に重複していると言われます。

図12)人類の拡散(黄色:ホモ・エレクトス、黄土色:ネアンデルタール人、赤色:ホモ・サピエンス)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 実は、この初期人類の驚くべき化石が発見されています。ケニアのトゥルカナ湖西岸にあるナリオコトメ川の土手から発見された、160~150万年前のホモ・エレクトスの化石です。両手や右上腕などを除くほぼ全身骨格が揃った状態で発掘され、発見された最も完全な初期の人間の骨格です。身長は約160cm、体重48kg、脳容積880 cc、骨の成熟具合から7~11歳の少年と見られ、トゥルカナ・ボーイ(ナリオコトメ・ボーイ)と呼ばれています。成人すれば、身長185cm、体重68 kgに達したと推測されます。そして、全身骨格は完全な地上の二足歩行への適応を示し、頭骨以外はほとんど私達と変わらないのです。鼻も平らな類人猿とは異なり、人間の鼻のように突き出ています。

図13)160~150万年前のトゥルカナ・ボーイの復元

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図14)トゥルカナ・ボーイの骨格

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 トゥルカナ・ボーイの骨格の先進性は、それ以前の猿人と言われたアウストラロピテクス類の骨格と比較すると明白です。アウストラロピテクスについては、ルーシーと名付けられた有名な化石が知られています。ルーシーは、エチオピア北東部ハダール村付近で発見された、320万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の女性で、全身の約40%にあたる骨が発見されています。発掘当時、調査キャンプでビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」が、テープレコーダーから大音量で流されていた事から「ルーシー」と命名された話は有名です。

 ルーシーは、身長 110cm、体重29 kg、脳容量は400cc未満と推測され、チンパンジーに近い体格と脳を持っていました。骨盤と仙骨から女性と考えられ、年齢は25~30歳とされます。チンパンジーに近い頭骨と小さな脳に対し、骨盤と脚の骨は現代人のものと機能的にほぼ同じで、直立二足歩行に適応していましたが、足は扁平足でした。注目すべきは、胸郭が私達の様な樽を前後に押し潰した形状ではなく、類人猿に似た尖がった先端から下にスカートの様に広がった円錐形をしていたと思われる点です。これは、大量の植物の消化に必要な、大きな胃と長い腸を入れる為のスペースと考えられます。オランウータンを彷彿とさせる上肢が樹上性を暗示するのと合わせて、アファール猿人が森とサバンナの両方の植物に依拠した植物食者であった事を示唆しています。実際、アファール猿人は広範囲の生息地に分布しており、開いた草地・森林地帯・低木地・湖や川沿いの森林などに生息していたと考えられています。

結局、ルーシーはチンパンジーに似た体格・長い腕・小さな頭骨・円錐形の胸郭を持ち、樹上性の特徴を残しながら、地上での直立二足歩行に適応したチンパンジーと言った印象の生物だったのです。つまりアウストラロピテクスとは、文字通り猿人の名に相応しい、直立二足歩行をする類人猿だったのです。

図15)ルーシー(アウストラロピテクス・アファレンシス)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図16)クリーブランド自然史博物館のルーシー復元骨格

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図17)ウィーン自然史博物館のアウストラロピテクス・アファレンシスの復元

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図17)チンパンジーの骨格

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 それがよりはっきり分かるのは、アウストラロピテクス類よりもさらに古い、アルディピテクス類です。この猿人についても、アルディと名付けられたアルディピテクス・ラミダス(ラミダス猿人)の女性の全身骨格が発掘されています。これは、頭蓋骨・歯・骨盤・手足のほとんどを備えた最も完全な初期猿人の化石で、 ルーシーと同じくエチオピアのアファール盆地(アファール・トライアングル)にある約440万年前の地層から発見されました。

図18)アルディ(アルディピテクス・ラミダス)の頭骨

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図19)アルディピテクス・ラミダスの骨格復元図

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 アルディの身長は最大120 cm、体重は約50kg、脳容量は300~370ccで300cc前後のチンパンジーと大差なく、アウストラロピテクス類の400~550ccと比較してもはるかに小さく、現代のホモサピエンスの脳の約20%程度でした。また、前寄りに位置する大後頭孔や足の構造から、地上では二足歩行をしていたと考えられますが、足の親指は類人猿と同様に他の指と対向して枝をつかめる様になっており、木登りや樹上生活への適応を残していました。サバンナで暮らしていたと考えられるアウストラロピテクス属と違い、アルディは一緒に出土した森林に生息するレイヨウ・サル、種子・木片の化石などから、森林が身近にある森林とサバンナが入り混じるような環境に生息していたと考えられています。

 このように類人猿的な特徴を色濃く持っていたアルディですが、ヒトに繋がる特徴も持っていました。それが、ヒトの目立った特徴である小さな犬歯です。類人猿では犬歯が大きく、特にオスは巨大な犬歯を持っています。しかし、アルディピテクスでは比較的小さな犬歯で、性差も少なかったのです。こうした点から、アルディは樹から降りて地上での二足歩行に適応し始めたばかりの、人類が類人猿との共通祖先から分岐して間も無い頃の、原初の姿に最も近い特徴を残した猿人と考えられているのです。そして、この後に続くアウストラロピテクス類がサバンナに進出し、より地上での直立二足歩行に適応して行った訳です。

 この様に下肢を除いた全身骨格から見ると、ホモ・エレクトス以前の猿人達は、地上での直立二足歩行に適応しただけの類人猿と見れるのです。 そうした猿人の中から、最初の人類であるホモ・エレクトスが進化してくる事になる訳です。 では何が、彼らの進化を分けたのでしょうか?。何が、直立二足歩行をする類人猿に過ぎなかった猿人を、ヒトに進化させたのでしょうか?。それこそが、我々の遠い祖先が始めたランニングによる狩猟と、植物食から肉食への転換だったのです。

(つづく)


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