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「わたし」は「みんな」でできている

生きてます
すこやかです

しばらくぶりのブログ更新です

ここをお留守にしている間に
なんと生誕半世紀を迎えてしまいました

ふふ
50歳だって

なんだかとても
晴れやかなきもちです

ありがとうございます


引っ越してしばらくは
友人の厚意でポケットWi-Fiを借りていたけれど
それを返却してからは、パソコンでインターネットアクセスする機会を失いました

8月に一人暮らしを始めて切実に感じたことは
「ひとりってお金がかかる」という現実的なこと

アパートの賃貸料も
光熱費も食費も
ふたりで払うのと、ひとりで払うのでは
こんなにも違うのかと改めて感じています
「ふたり分の半分」計算で成り立つものは何ひとつない
想像はしていたけれど、実感には重みがありました

ずっしり

月5,000円で、Wi-Fi環境を持つことは可能だ

たかだか5,000円
されど5,000円

その単価の大きさというよりは、定額出費というのが生活には大きく影響する

その5,000円があったら
誰かとご飯を食べにいけるかもしれないし
プレゼントだって買える
急なたのしみを減らしたくないわたしがいる

とはいえ、いまもうすでに、毎月赤字なのだ
手取り12万の収入は、わたしの望む生活を支えるには少ないと言えるのだろう
(夏と冬に、賞与がひと月分くらいいただける)

仕事を増やすという方法もある
仕事を変えるという方法もある
もっと安価なところに暮らすという方法もある
(猫との暮らしは、そこがむずかしいかな)
誰かとシェアして暮らすという方法もある

けれど、そのどれもをいま、選ぼうとしていないのは
わたしがまだ、ひとりで生きてゆくことに慣れていないからだ

慣れない、というのは
ことばにできないものを消耗していく
その消耗の中に、新しく「慣れないもの」を増やしたくないのだ
それならば限りある預金が減っていくほうがよい

日々はちいさな選択の繰り返しだ

計画性のなさは、いまに始まったものではないし
衝動的なわたしにも、楽天的なわたしにも、慣れている
いましばらく、様子をみようとおもう

なんとかなるのだ
ほとんどのことは

話は戻るが、なぜいま、この文章が書けているかというと
友人宅にパソコンを持ち込んでWi-Fiを繋いでいるからである

泣いて暮らしていたわけではない

二週間に一度の注射が効かなくなり、新しい治療薬も飲んでくれず
このままでは死んでしまうと覚悟した長男猫いとは
何の前触れもなく、ある日症状が落ち着いた

呼吸は荒いままだが、日々ご機嫌に生きている

大事なのは、ご機嫌であることだと
いとが教えてくれる

わたしは日々を選択している

よろこびもかなしみも
わたしがこしらえている

「こしらえる」の意味を調べたら
「仕組んだように作り上げる」とあった
うん、まさにそんな感じ

出逢う日々が
わたしによろこびを与えてくれるのではなく
出逢う日々に
わたしがよろこびをこしらえているのだ

恵まれているな、とおもう

わたしはひとりで暮らしているけれど
まったくひとりで生きていない
家族、友人、同僚たちを頼りにして、日々支えられている

「わたし」は「みんな」で出来ている

声をかけてくれてありがとう
おもしろがってくれてありがとう
おいしいものをありがとう
やさしいことばをありがとう
ハグしてくれてありがとう
背中をなでてくれてありがとう
見守ってくれてありがとう

離れていくひとたちを懸命に追いかけたことも
ずるいことをしたことも
誰かのせいにしたことも
苛立ったことも、かなしんだことも
投げ出したことも
ぜんぶぜんぶ、わたしだった

掃除や整理は苦手だけれど
ふきふきして
トントンして
光と風を入れて
「わたし」の中の「みんな」とともに
暮らそうとおもう

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