しあわせはあきらめた

私には、「家コンプレックス」がある。初めてそれを感じたのは、確か小学3年生のとき。当時マンションに住んでいた私は、同じマンション内の友人の家によく遊びに行っていた。小学校低学年の頃は特に何も感じていなかったが、3年生になった頃、なんとなく自分と友人の家の違いが気になるようになった。玄関に綺麗に並べられたインテリアと、必要なものが適切な場所に配置されている、整理された空間。子ども部屋には立派な勉強机と本棚があって、ああ自分ちはなんかちょっと違うんだなと、幼心に感じたことを覚えている。それ以降、自分の家に友人を呼んだことは一度もない。

成長して、中学生、高校生になっても「家コンプレックス」は続いた。というかもっと酷くなった。どんなに仲良くしていても、家にお邪魔して自分ちとの違いを目の当たりにしてしまうと、わたしはその子との間に大きな壁を感じてしまうようになったのだ。

「家」というのは、その人が育った環境そのものだ。家を見れば、その人がどれくらいの愛情を受けて育ってきたのか、どのくらいの経済力の家庭なのかが分かってしまう。だからこそ私には、家に対する強いコンプレックスがあった。大学生になった今は、気持ちが少しずつ鈍化してきたこともあり、あんまり気にならなくなった。考えても仕方のないことだし。昔はナイフに突き刺されたかのような痛みだったのが、今は針にちくっと刺されるくらいの痛みに変わった。


そんな私が、今日はじめて恋人の実家にお邪魔した。緊張していて、あまり上手に話せなかった私を、彼の家族は丁寧に迎えてくれた。

帰りの電車にゆられながら、今日の出来事を思い返していたら、胸に刺さった小さな針の穴から、感情があふれだしてくるのを感じた。二階建ての一軒家、愛称で呼び合う一家の姿、部屋に飾られた彼の幼少期の写真。そのどれもが私には無いもので、そして私が恋焦がれていたものそのものだった。わたしが欲しかったもの全部を、彼は持っている。

ずきずきと、見て見ぬ振りをしていた過去の傷たちが蘇る。

小学校時代の親友には、綺麗な自分の部屋があったこと。友人の私にも優しく接してくれて、お腹が空いたらおやつを出してくれる優しいお母さんがいたこと。駅中に期間限定で出店していたスイーツを、「家族に買って帰る」と行って迷いなく買ったあの子のこと。全部全部、わたしが欲しくてたまらなかったもの。そしてこれから先、どんなに足掻いても、一生手に入れられないであろうものたち。

羨ましい。心底羨ましいし、心底恨めしい。なんでこいつらは簡単に手に入れられて、私はだめだったのか。本当に本当に、欲しかったのに。それだけあれば、他に欲しいものなんて何もなかったような気がするくらい、本当に欲しかったのに。

考えても仕方のないことだというのは分かってる。それでもやっぱり、私は今日も考えてしまう。


「帰る場所」がほしい、私は。弱りきって、もう誰も頼る人がいなくなった時、ここになら安心して帰ってこれるって思えるような、そんな場所。

本当にどうしようもない、この気持ちは。私は一体いつまで過去に縛られて、愛情を求め彷徨いながら生きていくのか。一生この呪いに縛られ続けるのかと思ったら、その途方もなさに目眩がしてくる。


どこにも吐き出せないので、久しぶりにnoteを書いた。日記でもSNSでもないこの空間があって、ほんとうによかった

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?