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「運命」とは、定められ、抗えないものではなく、「創造」するものだ!

山一証券の破綻劇を基にしたドラマ「しんがり」の中で、特に印象に残ったシーンがある。3代目顧客相談室長を務める小橋が刺殺され、2代目顧客相談室長を務めた花瀬が弔うシーンだ。

「少しタイミングが違えば、刺さていたのは私かもしれない」と花瀬は自分を責め続けた。山一證券への捜索が報道されるにつれ、顧客からのクレームは増加の一途を辿るが、その窓口対応を前面に引き受けていたのは小橋だった。一言も愚痴も漏らさず会社を守る為に奔走していた。

花瀬の言う通り、タイミングの問題、つまり「運命」なのかもしれない。そう思うと何かしらの因果や文脈のようなものがあるような気がする。

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ところで、あなたにとって「運命」とはどのような定義だろうか?私も数十人にインタビューを取ってみた。母数はそう多くはないが全ての回答は「自分ではどうしようもない定め」というものだった。

一方の私は、「運命」=「自ら創造するもの」と解釈している。「運」の字には「うごめく」という意味があるそう。一定の場所に留まるのではなく、常に躍動するものであり、その方向性を己で整えていくもの、そのように捉えている。この考え方を私は「易」から学んだ。

余談だが「易」とは「易経」とも呼ばれ、儒教の大切な経典である「四書五経」の中の一つとされている。「易経占い」という言葉をよく聞くが、本当に「易」を修めた人間曰く、「占わずして分かる」とのこと。確かにそうだ。何千年にも渡る統計的データを参照にした、極めて科学的な学問であるからだ。

哲学者・思想家である安岡 正篤氏(1898~1983)は、著書「易と人生哲学」の中で、

「人生は宿命にあらず、運命であり、立命していくものである。その手段として、易は極めて本質的な指針となる。統計的な観点に基づく学問である。」

という趣旨の言葉を残している。易を学べば学ぶほど、その深淵さに魅了される上、現代の世界に生きる我々にとっても極めて有効な「羅針盤」として機能する。これは私の実体験としてもそうだ。易を学べば学ぶほど、自分の行動選択や決断に迷わなくなる。ただ、繰り返しになるが、「易」は「占」ならず。決して占いではないし、安易に飛びつくものではない上、独学は極めて難しいとされている。

なぜ、私が「易」に興味を持ったのか。

私も「一人の人間」として、人生の路頭に迷い続けてきたからだ。決して産まれた瞬間から「スーパーサイヤ人」ではなかったし、「悪魔の実」を食べ一夜にして劇的な能力を身に付けた人間でもない。

恐らく多くの方と同じように、迷いながら、間違いながら、悩みながら、苦しみながら…でもその中でも、自分の人生を、生きる意味を、問い続ける事をやめなかった。と言うよりもやめる事ができなかった。

現代は「VUCAの時代」と言われている。

Volatility(変動性・不安定さ)
Uncertainty(不確実性・不確定さ)
Complexity(複雑性)
Ambiguity(曖昧性・不明確さ)

という4つのキーワードの頭文字で作られた言葉で、現代の経営環境や個人のキャリアを取り巻く状況を表現するキーワードとして頻繁に取り上げられている。外部環境の変化は極めて激しく、「今日の常識が明日の非常識」へとなりかねない。職業柄もあり、それくらい強い危機感を私はひしひしと感じている。

もしかすると、そうした「背景」もあるのかもしれない。

先日の連休で帰省をした。その際、もうずいぶん昔に購入した、大好きなニーチェの書籍を私は携帯していた。興味深げに私の手元を見ながら姉がこう言った。

「あんた、やっぱり頭のネジが3本くらい飛んでるわ笑。」

確かにそうかもしれない。ただ、孤高の哲学者ニーチェの様に、そしてメンターとして心から尊敬する宮沢賢治のように、「生きる」を問わずにはいられない性分なのだろう。それでいいと思っているし、「問う」という事が私は好きなのだとも思う。好きな事は継続すればいい。その方が明らかに幸福度は高い。

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「運命」=「自ら創造するもの」と私が定義していることは上述の通りだが、それを極めて高い次元で体現している人間がいる。大切な、数少ない親友の1人だ。

彼とは中途採用で入社した企業で出会った。在席年数としては彼が上だが、年齢が同じという事もありすぐに意気投合した。彼は関西随一の旧帝大理系修士課程を修了しており抜群に頭がキレる。愛嬌のある笑顔と人柄で男女を問わずモテる。底抜けに明るく、良い意味で楽観的。ヒューマンスキルが高い証拠だ。将来を有望されている極めて優秀な人材だ。

その彼からある日突然メールが届いた。

「癌になった。がびーん。」

「おいコノヤロウ、ふざけてんのか笑?」と、いつものふざけた調子で返信するも、何やらいつもと状況が違う…。よくよく話を聴くと、

・ステージⅢ
・余命数年

と診断されたとのことだった。当時30歳、妻も子供もいる。若年性の癌は進行が早い。彼は当時一切の弱音を吐かなかったが、相当思い悩み、自分の人生を問うたことだろう。そのメールのやり取りをした日、仕事の合間をぬって、岡山から関西へ向かう新幹線に乗る前、彼に電話をした。

「キサマ、絶対に克服して帰って来い。やないと俺はお前を恨む。お前なら絶対克服できる。必ず帰って来い!いいか、わかったか!じゃあの!」

咄嗟の言葉だった。今でも鮮明に覚えている…。

あれから約6年の歳月が流れた。結論から言うと、彼は完全に癌を克服した。

悪性腫瘍を取り除き、転移していたリンパも全摘出した。その後抗がん剤治療を続けた結果、現在は何も問題はないという。彼は今も毎日のように酒を飲み、人生を謳歌している。

彼は大学病院に入院していた。数回お見舞いに脚を運んだ際、彼の机にはたくさんの書籍が並べてあった。療養が進み、身体に負荷なくPCが使える状態になると、彼は自分のPCを開き、部署内の問題解決・生産性向上の手段としてExcelを用いたマクロを開発した。そのマクロのおかげで、通常2時間を要していた作業(/日)が30分に短縮された。1時間半の短縮である。自分が過酷な状況にある中で、ここまで誰かの為に取り組めるだろうか。正直当時の自分にはまだできなかった。

心理学用語である「ハロー効果」のハローは「halo」であり、「後光」の事を指す。彼には間違いなく「後光」が射していた。神様・仏様を拝むような気持ちで、改めて彼の事を尊敬したし大好きになった。今でもそれは変わらない。彼もきっと同じように僕の事を思ってくれているのではないか…そんな淡い期待を抱きながら、関係性は今も続いている。今でも頻繁に彼と酒を酌み交わす。お互いの人生について、キャリアについて、現状の問題解決について、極めて生産的な話に終始するし、いわゆる「愚痴」の類はほぼ出てこない。

そんな彼が癌を克服した後、二人でいつものように飲む機会があった。彼がボソッと語り始めた。普段は聞き役に徹する彼が話し始めるのは珍しい。その内容に、思わず俺は号泣した。

「俺の癌発症直後、オトンが急に逝ってんな。ホンマに急やった。闘病中の俺置いてどこ逝ってんねん。そう思うたけど、俺の癌持ってってくれたんやろなオトンが。やから俺はこうして生きてられんねんな…」

かける言葉がなかった。涙が溢れ出た。つられて彼も涙を流した。二人で周囲も憚らずわんわん泣きながら、時に笑い飛ばしながら、浴びる程ビールを飲んだ。彼がこんなに感情的になることはない過去に一度もなかった。本当に珍しい出来事だった。

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「運命」とは、定められ、抗えないものではなく、「創造」するものだ!

本記事のタイトルだ。これまで述べてきた内容も踏まえ、改めて

「運命」=「自ら創造するもの」

なのではないかと俺は思う。

彼の父がくれた「命」、その因果律も、もしかすると「運命」なのかもしれない。だがそれ以上に、彼は自分の人生ととことん向き合った。癌という病と向き合い、それを乗り越え、「今」つまり自分の「運命」を創造してきたのは事実だ。

このように熱く人生を語ると、大方の人達からは、

・アツ過ぎ
・メンドクサイ
・シツコイ
・ワカッタワカッタ
・ゲンジツハソンナニアマクナイ

そんな言葉が返ってくる。それはそれで、一つの見解として尊重されるべきものだという事も重々承知している。アドラー心理学的に言えば「課題の分離」に該当する。

ただ、この「課題の分離」の本質は、

「関わる相手が変革するきっかけを提供し続け、見守り続け、必要に応じ、適切に支援の手を差し伸べることにある」

ということを、本来的にどれだけの人が理解しているのかは正直疑問だ。統計的に調査をしたわけでもないし、正確なデータもない。あくまで私の主観になるが、世の中を私なりに見聞し洞察するに当たりそのように思う。ゆとり世代、ロスジェネ世代など、社会的・時代的な文脈の中で一般化することも大切なことは分かるが、一概にそれだけでは括れない。なぜなら、反証・反例は山ほど程あるからだ。

ハンス・ロスリング、 オーラ・ロスリング、 アンナ・ロスリング・ロンランドらの著書である「FACTFULNESS(ファクトフルネス)~10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣~」をご存知だろうか?

【人間は「事実」を突きつけられると、「感情」がそれらを拒む】

歴史はそれを物語っている…。だが、現代に生きる人間としての我々。果たしてそれで良いのだろうか?「あなた」はそれで良いのだろうか?

少なくとも俺はそれを拒む。ありのままの現実を直視し、どのような困難があろうと、自分で自分の人生を切り拓く。言い訳をしない代わりに責任は全て己で引き受ける。その姿に、支援や応援の手を差し伸べてくれる人たちもいる。その生き様を以って、「影響力」を発揮できる人間に俺はなる。

おわり

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