濱田友緒さんを想う。

本当はいろんなことを書かなきゃいけないのでしょうが、体験したことのアウトプットよりも、思っている事を考えるのがクリエイターです。

→(天ぷら屋のオッチャンは、クリエイターでは無いのだけれども、素晴らしい濱田クリエイターのお話を聴かせて頂きクリエイターと勘違いしているの図)

お孫さんの濱田友緒さんの言葉に

私は「閃き」を大切にしています。
ただし、閃きは、ある日ある時
偶然の幸運で生まれるものとは思っていません。

不断からの芸術活動や思考を重ねることで、
自分の体に体得した「何か」が一杯になり
溢れ出してきたものこそが、
閃きの正体だと思います。

常に新鮮な閃きが生まれるように、
良く見て感じよく動いて、
次の仕事に繋げていきたいです。

と言う言葉があります。

まさに、今日の私がそうでした。
「なにかが」!笑
「いっぱい!」笑

(友緒さんの思う「なにか」では無く
オッチャンの「なにか」は、違うなにかだと思う)

三代に渡る濱田家のイメージですが

 「私の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った。」とは
濱田庄司(1894-1978)が語った言葉です。

クリエイターらしい。成功の道標です。
勉強になる言葉です。

濱田庄司さんは名匠板谷波山の下で修行し、京都陶磁器試験場で河井寛次郎とともに釉薬をはじめとする陶磁研究を深め、柳宗悦の紹介によって知り合ったバーナード・リーチとともに英国セント・アイヴスで築窯して制作を始めました。

大正末に帰国後は英国での体験をもとに、
栃木県益子に居を定めます。

益子は江戸時代末頃から鉢や土瓶、水瓶などを大量に生産し発展してきた民釜と知られ、彼は生涯をここに過ごしました。  

益子では杓によって大胆に模様を釉薬で描く「流描」の鉢、蝋の揮発性を利用する「蝋抜」の大皿や鉢、リーチとの共同作業で学んだピッチャー、模様を型押しする「紋打」の蓋物、火鉢など、活き活きした濱田の器が数多く作られました。  

その息子、濱田晋作(1929-)は益子の老練な職人から学んだ轆轤遣いをもって自在に成形し、土作り、釉薬の調合にも習熟し、庄司の生存中は仕事を力強く支えました。

庄司がこの世を去ってからは父の仕事に対する姿勢を継承し、正統の工芸がいかにあるべきかを心に、父から遣された登り窯の火を絶やすことなく現在も毎年新作を発表し続けています。  

また、晋作の次男である濱田友緒(1967-)は技を受け継ぎながら、青磁、柿釉、鉄釉などの陶器に、華やかな絵更紗風の文様の赤絵を施し、独自の形姿を創造しようと努力を重ねています。



濱田友緒さんの作品に

白釉赤絵角皿(しろゆうあかえかくざら)や

藍鉄塩釉浮重花瓶(あいてつえんゆううきかさねかびん)

があります。

まさに「友緒さん」らしい。
大胆な発言をすれば
濱田庄司よりも、僕個人が好きな作品を生み出す
友緒さんの作品です。

濱田庄司と言う人間国宝の継承者として
本当に凄い重圧だと思いますが
今日お会いした「癒しオーラ」は
生涯忘れる事はないでしょう。

しかし…濱田友緒さんの作品で

鰹のタタキとは!
すげええ。

(濱田友緒さんのFacebookより)

不思議と花びらに見えて
お皿が、地球の地べたに見えるのは
天ぷら屋のオッチャンが
疲れているからでしょうか?
それとも
眠っていたクリエイター心?
それとも眠い?笑

同じぐい呑みで、日本酒飲みたい!
(最後は、天ぷら屋のオッチャンらしい)

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