教育の罠、世代の罠――いわゆる「バックラッシュ」に関する言説の世代論からの考察(書籍『バックラッシュ!』双風舎、2006年/同人誌『青少年言説Commentaries Lite』)
まえがき
本稿は、2006年に刊行された『バックラッシュ!:なぜジェンダーフリーは叩かれたのか』に寄稿した文章で、現在は電子書籍『青少年言説Commentaries Lite』に収録しておりますが、同人誌のサンプルとして公開します。急速に忘れ去られようとしている若者論の記憶の断片です。全文を公開しておりますが、応援したい方は同人誌の購入か有料記事の購入でご支援のほどよろしくお願いいたします。
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1. はじめに
本稿は所謂「バックラッシュ」現象に関する考察ではあるが、「バックラッシュ」という現象の背景や、「バックラッシュ」側の論拠としている諸事象――例えば「過激な性教育」の実態や、「バックラッシュ」言説の非科学性――は、既に他の論者が論じつくしているだろうから、ここでは触れないこととする。
私は2004年11月からウェブ上で青少年言説の検証を行なっており、根拠が薄弱で、なおかつ若年層を過剰に蔑視するような言説を、「俗流若者論」として批判してきた。本稿においては、私の青少年言説に関する立場から、現在の「バックラッシュ」言説、こと「ジェンダーフリー教育」批判に関する検証を行なっていくこととしよう。
2. 我が国における教育言説空間
まずは、近年(平成18年3月現在)の我が国における教育言説空間を考察する上で、参照すべき議論を確認しよう。
例えば、政策研究大学院大学教授の岡本薫氏は、海外との比較を通じて、我が国の教育言説の特徴を以下のように分析している(岡本薫[2006]、pp.37-43)。曰く、《教育が理屈抜きで「好き」》、《教育の目的を「心」や「人格」に置く》、《教育について「平等」を求める》。そしてこのような特徴が生み出したものとして、《学校に期待される役割が極めて大きい》、《学校教育への投資が大きい》、《教員の経済的・社会的地位が高い》、《教育が経済問題ではなく政治問題》というものが挙げられるという。これら指摘、特に前半の、我が国における人々の教育観に関する指摘は、そのまま我が国における通俗的な青少年言説に対しても有効である。
岡本氏の議論に更に付け加えるならば、我が国の若者論においては「教育が「世代」をつくる」という考え方がかなり支配的に見える。ここでいう「教育」とは、単に学校教育だけではなく、家庭における教育も含まれる。更にそのような考え方から、現代社会を語る上で常に「世代」が極めて重要な役割を果たしており、多くの論者が「最近の日本人」を語る場合は、概して「最近の若者」を語っている場合が多い(野村一夫[2005]にも同様の指摘が見られる)。
若者論に見られる典型的な表現として、若い世代が「おかしくなった」のは、教育が誤っていたからだ、というものが挙げられよう。このような議論には、例えば「ひきこもり」や(純粋に若年無業者や就業意欲喪失者という意味ではなく、マスコミが面白おかしく採り上げたがる存在としての)「ニート」を語る上でも、若年層の受けた「教育」が「自立の大切さ」や「適切な職業観」を教えないからだ、と説くものは多い。また、少年犯罪、若年層の「問題行動」にも、このような議論は頻繁に見られる。そして、このような議論が共通して持っているのが、若年層は突如として「おかしくなってしまった」という認識である。我が国において「教育」を語ることは、リスクも含めて「あるべき社会の姿」を語るのではなく、もっぱら「若い世代」を語り、そして「若い世代」にいかにして自分(とその仲間)の考えを共有させるか、ということが主として語られる傾向にある。このような議論の流行もまた、我が国において教育の目的が「心」や「人格」におかれていることと無関係ではないだろう。
もっとも、我が国におけるこのような教育観の広がりは、「教育」という概念が導入されてから現在に至るまでの歴史的発展である、という見方もある。東京大学助教授の広田照幸氏は、我が国において「教育的」という美名の下に自分の言説を正当化するような動きが、既に1920年代から発生している、ということを説いている(広田照幸[2001]、pp.22-92)。
3. 若者論としての「バックラッシュ」言説の検討
所謂「バックラッシュ」言説における「ジェンダーフリー教育」批判言説は、従来の(世俗的な)教育言説と同じように、「学校教育批判」と「家庭教育批判」の2つの翼によって成り立っている。裏を返せば、若年層の「問題行動」の「原因」が「学校教育」と「家庭教育」に収束されており、それが果たして現代の若年層に特有のものであるのか、という問題意識や、あるいは社会階層や文化状況に関する考察を欠いているという問題を、「ジェンダーフリー教育」批判言説は持っているといえる。
例を挙げてみよう。高崎経済大学助教授で「新しい歴史教科書をつくる会」会長の八木秀次氏は、我が国において少子化が進行している原因を、以下のように述べている。曰く、
また、少子化対策として八木氏は《若者に結婚や出産・育児の喜びや意義を説くべく政府を挙げて教育・啓蒙する》(八木秀次[2003b])ことこそが重要であると考えている。八木氏によれば、現代の若年層の精神や思想のあり方こそが少子化と深く関わっている、というのである。
もっと過激な意見を紹介しよう。脚本家の石堂淑朗氏は、《現在の話題を独占している国事問題と少子・不倫は実は我々の意識化で深く深く連動しているのである》(石堂淑朗[2002])と書く。そして石堂氏は、少子化を解決するためには徴兵制が必要だ、と説いている。このような論証立ては、端から見れば「風が吹けば桶屋が儲かる」とでもいえそうなほど強引に見えるが、石堂氏は次のように述べている。曰く、
なぜ、石堂氏はかくも簡単に「徴兵制」を語ることができるのか、という問題を解きほぐすことについては、本題からそれてしまうため本稿ではおいておくこととするが、石堂氏は、《戦地に赴く男だけが発散し得たフェロモンの消失、死を賭して国を護ろうと言う男の消滅》(石堂、前掲)が生じている我が国のみならず、先進諸国が戦後一貫して出生率が減少傾向にあることを無視している。
「ジェンダーフリー」バッシング言説の中には、「ジェンダーフリー」が家族を壊し、その結果脳を壊し、「今時の若者」に見られるような「問題行動」が多発するのだ、というものも根強く存在する。
このような言説は、現代の青少年問題の多くを「脳の問題」として捉える、現代の若者論における一つのムーヴメントを前提として成り立っている(このようなムーヴメントのもっとも先鋭的な事例として、「ゲーム脳」論を挙げることができるだろう)。ただ、高橋氏が引き合いに出している澤口俊之氏の理論に対しては、例えば精神科医の斎藤環氏から疑念が提出されているし(斎藤環[2003]、pp.150-154)、林氏に至っては、「偏見でも何でもない」といいながらも、青少年に対する認識は単に「井戸端会議」の領域を超えていない、要するに偏見としか言いようがない。
それ以外にも、株式会社海外教育コンサルタンツ代表取締役の浅井宏純氏は、「ニート」を生み出した元凶としての戦後教育を批判する文脈で《男と女が同じだから、ひなまつりも鯉のぼりもやるなというジェンダーフリー教育は間違っています》(浅井宏純、森本和子[2005]、pp.33-34)と述べているし(原注12.1)、ジャーナリストの桜井裕子氏に至っては、《小学校二年生から三年間、絶対にスカートをはかない女の子》(桜井裕子[2005]、p.329)さえも《こうした教育(筆者注:「ジェンダーフリー教育」)が影を落としていることはおそらく間違いないところでしょう》(桜井、前掲、329ページ)などと述べている。
4. 青少年問題言説の「罠」
平成16年に、伊藤哲夫、遠藤浩一、志方俊之、中西輝政、西尾幹二、八木秀次の6氏の連名で提出された「国家解体阻止宣言」という文章(「Voice」平成16年3月号に掲載。以下「阻止宣言」と表記)においては、国内における問題の筆頭として、青少年問題が提示されている。
このような考え方は、「バックラッシュ」論を支持する人たち、というよりも左右に限らず我が国において若年層をバッシングする人たちに共通する考え方と見なしていいだろう。まず、近頃世間(それはほとんど「マスコミ」と同義なのであるが)を騒がしている、「今時の若者」による事件や「問題行動」を列挙し、その上で「考えていただきたい」と書いて自らが不快に思っている、あるいは敵視しているものを挙げて、これが我々の「敵」としての「今時の若者」を作り上げたのだ、とでっち上げる。
若年層の「問題行動」を列挙し、不安をかきたてたら、あとはこちらのものだ。自らの「敵」を「撲滅」するための「万能薬」を提示すればいいのだから。無論、ここで展開される「万能薬」は、根拠がなくとも構わない。また、このような形で展開される若者論は、根拠もなく自らの体験や、批判的視点のない伝聞・理想をそのまま「万能薬」として提示する(原注12.2)。現に「阻止宣言」には、このような文言が見られる。
《経済の構造が原因ではない》などと簡単に述べることができるのも、不安に駆り立てられた読者は自分の主張に対して疑問などはさまないと思いこんでいるからこそできるのであろう。
5. 世代の罠
おおよそ若者論というものは、自らの思いこみとマスコミで喧伝されているネガティヴな若年イメージに基づいて行なえばよく、また「今時の若者」というイメージは、相手を自分の「憂国」モードに引きずり込む上でもっとも簡単に利用できる存在だ。そのため、巷では自らのイデオロギーの正当性を主張するために「今時の若者」というイメージが多く使われる(これは右派でも左派でも事情は同じ)。だが、それによって覆い隠される問題はいくつもある。
まず、「今時の若者」というイメージが正当かどうかであるための実証的な議論の不在である。「今時の若者」というイメージを振りかざす人たちの多くは、メディアで喧伝される「今時の若者」、要するに社会規範に関しては極めて鈍感であり、かつ簡単に人を殺したりあるいは自殺したりするような青少年イメージの正当性を疑わない。しかしそのようなイメージに関してはいくつもの疑念が提示されており、例えば少年による凶悪犯罪が急増している、ということに関しては、犯罪白書の引用により多くの論者によって否定されている。また、彼らの多くが振りかざす、規範意識の低下、人間関係の希薄化などというものも、社会学者の浅野智彦氏らによって疑義が提示されている(浅野智彦[2006])。
だが、それでも多くの人が「今時の若者」というイメージにすがるのは、単にこれらの疑義が自らのイメージと反するゆえに受け入れられない、という理由だけではなく、むしろ我が国の世俗的な世代論がそれぞれの世代に対して過剰な「意味付け」を行なうことによって、自分と違う「世代」は自分とは違う「人種」である、といった具合に「切り離し」が可能になるから、ということも挙げることができそうだ。「切り離し」を行い、若年層が自らとは違う社会を生きているものとしてバッシングすることにより、自らの責任は隠蔽されることとなる。
このような行為は、戦後教育を受けたはずの人が容易に「戦後民主主義教育」を批判することが可能である、ということも証拠として挙げることができる(原注12.3)。彼らは「戦後民主主義教育」を受けてきたはずなのだが、それでも彼らが「戦後民主主義教育」批判を容易にできるのは、彼らが「戦後民主主義教育」は彼らの後の世代が受けた教育であると認識しているからであろう。同様に安易に「近頃の日本人は」と批判できる日本人も、自分は「近頃の日本人」ではない(具体的に言えば「古きよき日本人」か)と思っている節がある。
もちろん、このような議論が、社会的な問題を隠すということは言うまでもない。少子化に関する問題にしろ、若年層の精神や思想ばかり取り扱い、彼らを生み出した「教育」を問題化する言説ばかり聞いていると、あるいは「男女共同参画社会」こそが少子化の防波堤になるという言説ばかり聞いていると、景気回復や労働環境など、社会・経済的な視点の欠如に気づかざるを得ない。そもそも少子化が本当に問題なのか、ということも提示されている (例えば、松谷明彦[2004]、赤川学[2004]など)。
6. 教育の罠――進行する若年層の「反面教師」化
ただ、このような「切り離し」や「社会的背景の無視」などよりも厄介な問題もまた存在している。それは、「ジェンダーフリー教育」に対する批判をはじめ、世俗的な教育言説の多くが、現代の若年層を「反面教師」として捉えていることである。
「ジェンダーフリー教育」批判言説から少し離れて説明すると、ネット上の一部で話題になった、朝日新聞社の週刊誌「AERA」編集部・内山洋紀氏による記事「若者のノンプア・コンプレックスの壁」(「AERA」平成17年12月19日号)にそのような思想の一端を見出すことができる。この記事において内山氏は、現代の若年層が就職試験の面接において「自分が一番苦労したこと」を訊かれたときになかなか応えられないというケースが増えている、と書く。そして「苦労体験」を得るためのケースとして、《交通費を自分で負担して、北海道の酪農家などに農業支援に行ったりする「ボラバイト」》(内山洋紀[2005])を好意的に紹介している。更にこの記事において《酪農家での生活は大変ですよ。今の学生にとっては、そんな苦労は生まれて初めてでしょう。でも、みんな戻ってくると生き生きとしているんです》(内山、前掲)という、「ボラバイト」なるものの斡旋者のコメントを引き、このような「金で買う苦労体験」が若年層の内面(今流行りの「人間力」?)を高める、ということを示唆している。この記事においては、青少年問題では良質な論点を提示する放送大学教授の宮本みち子氏でさえ、《豊かな社会になった現代では、大人が責任を持って、苦労を与えない限り、苦労を味わうことは出来ない(略)でも、そうした経験ができるのは、社会に関心があり、教育にも熱心な両親を持ち、金銭的にも余裕のある家が多い。そんな階層の固定化まで起きているんです》(内山、前掲)などと飛躍の多い発言をしている。
この点において疑問が生じるのは、この点において「苦労すること」自体が目的化していることだ。カリキュラム的な職業能力の如く、最終的にある職業に関する知識や技能を身につけることではなく、「苦労すること」のほうに重点が置かれているのである。このようなものは、先ほどの斡旋者の発言に見られるとおり、「「今時の若者」は「苦労すること」を知らないで育ってきたから、「苦労すること」を与えることによって「人間力」が向上するはずだ」という考え方に裏付けられていると見てもいいだろう。
また、平成17年度の文部科学省委託授業となっている、「フリーター・ニートになる前に受けたい授業」のキャラバン隊長である、船橋情報ビジネス専門学校の鳥居徹也氏が、この事業の「教科書」として使われている小冊子を商業出版として刊行した『フリーター・ニートになる前に読む本』においては、社会保障や障害年収における正社員とフリーターの格差をデータを用いて提示すると同時に、現在フリーターや「ニート」となっている人たち――そのような人たちの中には、様々な理由から仕方なくその地位にいざるを得ない人も多いのだが――が「なってはいけない」存在として提示されている。曰く、
など。これでは授業の受け手である中学生や高校生に、「今時の若者」を反面教師として生きよ!と言っているようなものである。(原注4)
7. もう一度、世代論としての「バックラッシュ」言説を検証してみる
以上の観点を踏まえて、もう一度「バックラッシュ」言説を検証してみよう。例えば八木秀次氏は、評論家で「新しい歴史教科書をつくる会」の初代会長である西尾幹二氏との対談において、「ジェンダーフリー教育」を批判した後に、《三十代の独身女性について綴った『負け犬の遠吠え』(酒井順子著、講談社、平成十五年)という本が大変話題になっていますが、こんな教科書を読まされて洗脳される女子学生たちがいるとすれば、彼女たちは立派な“負け犬予備軍”となるでしょうね》(西尾幹二、八木秀次[2005])と述べている。
もう一度、このような言説の問題点を、これまでの文脈に沿って解明していこう。第一に、未婚や少子化の問題を最初から「悪いもの」と決め付けると共に、自らが「悪いもの」であると規定していることの原因は、全てその当事者となっている世代の「内面」に問題がある、という考え方である。しかし、このような考え方は、社会的な事情を無視すると共に、少子化でなぜ悪いのか、という考えも封じ込める。
第二に、問題を起こしている世代を敵視し、このような世代の「増殖」を防ぐために教育を「改善」せよという考え方。このような考え方によって推し進められる教育の「改善」は、要するに特定の世代に対する敵視を教育の場で堂々とのさばらせることであり、問題の当事者にあたる世代は上からも下からも叩かれると同時に、当事者世代の抱えている問題は一向に解決されない。このようなところにまで想像力が及んでいるかどうかは、疑問を持たざるを得ない。
少子化悲観論に疑問を提示した信州大学助教授の赤川学氏は、その著書のまとめの部分で以下のように述べている。
子供を経済の道具にしている、と批判している「ジェンダーフリー」批判論者、及び「男女共同参画社会」批判論者は、「ジェンダーフリー」論者や「男女共同参画社会」論者を批判しつつ、自らは子供たちや若い世代を自らのイデオロギー闘争の道具としてしか使っていないのではないか。今の子供たち、及び若い世代の取り囲まれている状況を見ていると、今の彼らは存在している時点で既に「政治的」な存在である。なぜなら、彼らの中の極少数でも「問題行動」が目に付くと、すぐさま彼らに対する蔑視の視線が「世間」の間に広まり、自らに対するリスクも顧みないまま子供たちの自由を奪う政策が正当化されてしまうのだから。
子供たちをこれ以上「政治」に弄ばせるな、と私は言いたい。
最後に、我が国においては「子供を「ゲーム脳」にしない」「子供を「ニート」にしない」などといった言説がはびこっている。それらの言説は往々にして、自らの子供を「問題のある人格」――「ゲーム脳」や「ニート」だったり、あるいは「人を殺すいい子」、「犯罪者予備軍」などの表現で表されたりする――にしないための防波堤として「家庭」が強調される。また、子育てにまつわる言説には、このような子育てをすると子供が犯罪者になるぞ、という脅しに満ち満ちたものも数多くある(原注5)。
このような言説が蔓延する社会で、果たして若い世代が子供を産みたがるだろうか?
最後に――若年層をめぐる言論の特異的状況についての覚書
我が国の論壇において、若年層をめぐる言論は、まさに特異的状況にある。普段は左派的な言動をしている人であっても、いざ「今時の若者」のこととなるとすぐに保守化し、若い世代が情けなくなった、だとか、あるいは、こんな若い世代が大人になったときの日本が心配だ、などといった言質を垂れ流す。そう、若者論とは、まさに「いいたい放題」の世界なのである。若者論は、まさに「今時の若者」を嘆いている「善良な」人たちの青少年イメージに即したステレオタイプを描き出せば、たちどころに広まる。
「ジェンダーフリー」批判は、まさにこの構造によって広まった。「バックラッシュ」論者は、――歴史教科書問題の時と同じように――まず「堕落した青少年」をでっち上げ、その「元凶」として「ジェンダーフリー教育」をバッシングする論陣を張った。しかし、この「バックラッシュ」を支える構造が、左派論壇にも共有されているということを忘れてはならない(注6)。自らの政治的イデオロギーの主張の為に退廃的な青少年イメージが検証もなく利用されてしまうことこそ、問題の根底にあるのである。
註釈
原注1 そもそも浅井氏の「ニート」に関する認識は誤認が多い(後藤和智[2006]を参照されたし)。また、「ニート」を敵視する言説の代表格として、本文中でも採り上げた浅井宏純氏の『自分の子供をニートにさせない方法』のほか、臨床心理士の荒木創造氏の『ニートの心理学』(小学館文庫)や、関西大学教授の澤井繁男氏の『「ニートな子」をもつ親へ贈る本』(PHP研究所)を挙げることができる。なお、自分の身内が「ニート」で困っている、という人には、キャリアカウンセラーの小島貴子氏の『我が子をニートから救う本』(すばる舎)、またはNPO法人「育て上げ」ネット代表の工藤啓氏の『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所)をお勧めする。
原注2 このような私の懸念は、広田照幸氏の次のような指摘と同様である。曰く、
原注3 保守論壇や投書欄を見ていると、このような「戦後教育批判」には枚挙に暇がないが(私もこれに属するような、現役の大学生の投書をいくつか槍玉に上げたことがある。後藤、前掲、pp.269-270ページを参照されたし)、戦後生まれの政治家にも安易な「戦後教育批判」を行なう人は多い。例えば、昭和26年生まれの佐藤錬氏(自民党)は、「青少年問題に関する特別委員会」において、次のように発言している。曰く、
そのほかの例として、《ライブドア事件(の原因)は規制緩和と言われるが、教育が悪いからだ。教育は大事で、教育基本法改正案も出したい》(昭和25年生まれの安倍晋三氏、自民党。MSN毎日新聞インタラクティブ・2006年2月16日23時13分配信)、《ある意味、戦後の教育、問題はいろいろありますけれども、そういった教育を受けてきた世代からそうした事件(筆者注:平成17年11月末から12月頭にかけて頻発した少女殺人事件)を起こす犯罪者が非常にふえてきているような印象が私にはあるわけでございます》(昭和46年生まれの松本洋平氏、自民党。「青少年問題に関する特別委員会」第163回・第4号・平成17年12月16日)など。なお松本氏の発言は事実誤認である。児童を狙った殺人事件はここ30年で減少傾向にある(芹沢一也[2006])。
原注4 オタク・ネット文化研究家の加野瀬未友氏は、景気が回復し、団塊世代が大量に退職することによって新卒採用が上がることと、それが「ニート」問題の解決につながるか、ということに関して、以下のように述べている。
私にとってこのような懸念は、「ニート」問題が反「ニート」的な教育(要するに、「ニート」に対する敵視を煽るような教育)によって解決された場合にこそ生じる。これは、反「ニート」的な教育のみならず、反「ジェンダーフリー」的な教育によって少子化や種々の青少年問題が解決された場合でも同様である。
原注5 このような言説が往々にして敵視するのは、例えば「母子密着」だとか「父親不在」だとか「共依存」だとか「友達親子」などといった、通俗的な「現代家族」批判の言説で使い古された「現代家族」の「問題点」であることが多い。また、このような言説の典型として、ジャーナリストの草薙厚子氏の『子どもが壊れる家』(文春新書)を挙げておく。また、日本大学教授・森昭雄氏の『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版生活人新書)や、京都大学教授・正高信男氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)などといった若者論系の疑似科学本でも、子供を「問題のある人格」にしないために、「家庭」の重要性が強調されている。
原注6 普段は左派だが、若者論のときだけ「にわか保守」になるような人は、注視していれば意外と見つかるものである。例えば大谷昭宏氏は平成16年末から「フィギュア萌え族」などといってオタクバッシングを展開しているし、吉田司氏は、ここ数年の青少年問題に関して次のような記述をしている。
少年たちはどうしたか?2000年「われ革命を決行す」のHP宣言をした佐賀バス・ジャック事件を先頭に、いくつもの少年殺人・暴力事件が連発した。――こうして「失われた10年」のハチャメチャな《性と生》をめぐる秩序紊乱、それを育て、甘やかしてきた〈平和〉と〈女〉と〈経済〉の三位一体システム=いわゆる「母原病」社会の無力と退廃が誰の目にも明らかになり、やがてそれらを変革する希望のシステムとして、その反対物=《軍事》と《父性》をキーワードとする男権的な「国民保護」体制が呼び出されてきた。それがいまの小泉「軍事立国」主義=「改憲」ナショナリズムの正体なのである。(吉田司[2004])
この後に「だから今湧き上がっているナショナリズムは正しいのだ」と付け加えたら、まさに石原慎太郎や石堂淑朗などの文章と全く同じものとなってしまうだろう。吉田氏はこの部分が掲載された文章の結論において、女性たちに対する奮起を呼びかけているが(《女たちの《最後の聖戦》、それだけが21世紀ニッポンにおける新しい〈平和のかたち〉をリセットできる。女たちよ、負け犬よ、子供よりも、いまは平和を生み育てる刻だ》吉田、前掲)、青少年問題を「戦後の失敗」と捉えている点において、吉田氏は右派論壇人と歴史認識を共有していることになる。また、金子勝氏は、平成17年9月11日の総選挙の結果と「下流社会」論を絡めて、若年層の「右傾化」なるものの原因がゲームやインターネットであるかのごとき説明をしている(平成17年9月28日付朝日新聞「論壇時評」)。
その中でも、左派論壇の大御所、筑紫哲也氏は最も醜悪な部類に入る。筑紫氏は、「週刊金曜日」の連載においては、例えば赤子の「弱体化」なるものから国家の未来を嘆いてみせたり(平成17年2月18日号)、「今時の若者」は生物的環境から切り離されているから人の命の重さを理解できないという俗論を言い放ったり、(平成17年11月18日号)、徴兵制に反対する理由を現代の若年層の「体力低下」に求めて遠まわしに若年層をバッシングしたり(平成17年10月21日号)と、筑紫氏の青少年に対する認識の乏しさばかりが目立つ。
しかしTBS「NEWS23」における筑紫氏のコーナー「多事争論」においては、以前から青少年に対する偏見が現れていた(平成7年10月分からはTBSのウェブサイト上で閲覧可能)。その中でも、もっともひどいものを紹介しよう――。
ちなみに、私は平成17・18年仙台市成人式実行委員で、どちらも大成功を収めた。
補注2.1.1:筑紫哲也による若年層バッシング言説としては、他に、「週刊金曜日」連載の「自我作古」の「ことばの新事典」シリーズ、なかんずく「三つ子の魂百まで」や、2005年11月18日号の、町田市で16歳の少年が同級生の少女を惨殺した事件を取り扱った「フツーの子の暗黒」などがある。
引用・参考文献
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