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学部4年間でやってきたことを(かなり雑に)まとめる

卒業しました。

これまでの学部の4年間で自分がしてきたことを制作したことを中心に一旦まとめたい/記録として残しておきたいと思います。何かしら面白がってくれる人、SFCで(広義の)芸術をやりたい人などがいたら参考になれば嬉しいです。

何をやっていたか

慶應義塾大学環境情報学部(SFC)にて、脇田玲研究室に所属しメディアアートといわれるような領域で作品制作をしていました。また、同時にフランス文学が専門の国枝孝弘研究室にも所属し、現代写真やメディアアート作品についての研究を行っていました(卒論はこっちで書きました)。春からはまた、脇田玲研究室に所属し、制作の方をメインで研究していきたいと思っています。

作家のテーマとしては「(ポスト・)ポスト・インターネットにおける抵抗」みたいな言い方をずっとしていました。インターネットが流通した以後(の以後)の世界のイメージとコミュニケーションを考えたい、という感じです。特に、同時代的なメディアやテクノロジーが、社会/個人に浸透する(し損ねる)時に何が発生しているか、を考えたりしていました。大きなトピックとして、「AI」、「SNS(TikTok)」、「公共」の三つに分類していきます。

AI

同時代的なことを考える時に、AIを考えないわけにはいかないよなー、と思いつつ、大学がSFCでAI周りをやっている先生方もいらっしゃったので、(みんなに手助けてしてもらいながら)いくつかAI周りで作品を制作したりしました。ただ、自分の元々の関心がメディア論や現代写真にあったこともあり、後述しますがインターネット上のイメージ空間の反映(メディアの延長?)、みたいな捉え方をして考えていました。

※写真はイメージです(石井飛鳥との共作)

学生CG,日テレイマジナリウム アワードで入選した作品。今のところ一番評価をいただいている。
プロンプトに「江ノ島」を入れて生成AIに江ノ島的な写真を生成させ、その写真をもとに現実でそのAIによって生まれたイメージを模倣した写真を撮る、またそれらの写真をもう一度インターネットに流してフィードバックループを作る、という作品。AIを先行させ現実を後追いさせ対比させることで、イメージ空間にある欲望(偏見)や、あるいはそこから生まれる現実の"観光地"としての場所とか、そういうことを考えたいと思っていました。

AI
人間


証(may)写真

また、それ以外にも自分の証明写真をプロンプト"k-pop star"で加工し、できたセカオワ深瀬みたいな顔の写真を実際に学生証として大学に登録する、ということもしていました。

狙いとしては個人とイメージの関係、それを保証する権力、それらの力関係の発生する場としての"顔"、の緊張関係を考えられたらと思っており、実際に酒屋でお酒買うときに使ったり、警察の職質で見せたりとかのアーカイブ映像を撮って展示するなどしました。

#彼女とデートなう(佐野風史との共作)

あと、Twitterにある「#彼女とデートなうに使っていいよ」の写真を集めて学習させ、クリックされる度にその写真が「#彼女とデートなう」としてtwitterにアップロードされる、みたいなこともしていました。

自分の考えたいこととしては、イメージがどのように流通しているか、モノ・人間とイメージがどのような関係持ちうるか、というところに強い関心があります。そこで、AIをインターネット(に流通するイメージ)のリフレクションの一つとして捉え、写真機が現実のある側面を捉えるように、イメージ空間を捉える装置としてAIを使っています(ここら辺は王道ですがレフマノビッチや清水穣の影響がでかい)。この辺りは卒論とかにも関係しており結構勉強したところではあるんですが、話すと長くなるので端折ります。

SNS(TikTok)

もっと直接的にインターネットにおけるイメージの流通そのもの、特にTikTokについても考えたりしていました。1年ちょっとTikTokerと関わる企業でインターンしたりして色々聞いたり見たり考えたりなどしていました。かなりやばいのでちゃんと(誰かが)向き合って考えなきゃいけないと思っています。

大皿に乗せる間に

僕はけん玉がとても得意で、毎年紅白のけん玉の企画に出させてもらっているんですが、SNSに誰かが転載している動画や、「テレビの前でチャレンジ」みたいな企画の中で、時々映り込んでいたりします。Tiktok/Twitter上にアップロードされた2022年度のNHK紅白歌合戦の動画を収集し、そこに映り込んだ自分の「大皿」をしている一連の動作を一コマずつ集めて再構築し、それが127回のループと5秒のインターバルを繰り返す映像を作りインスタレーションとして展開。


Chim↑Pom展:ハッピースプリングは起こらなかった

tiktokで強烈にバズっていたChim↑Pom展:ハッピースプリングを模倣している写真(動画)を模倣し、それをオブジェクトとして展示しました。タイトルはボードリヤールの「湾岸戦争は起こらなかった」から。

↑元ネタ

SNS、特にTikTokは端的に言えば「n +1」を強烈に生産していくシステムだと思っています。「こちら」と「あちら」が結ばれた世界で、常に流動していく。tiktokerと話していて面白かったのが、皆「今って何が流行ってるのかわからない」と言っていたことでした。強烈なアルゴリズムと刺激を与えるために特化した映像のシステムは誰かのコントロールできるものではないし、フォアグラみたいだと思っています、脳に管をつけて強制的に情報を与えさせ続ける。結構怖いし、これを経ている(受け入れている)人たちとそうでない人たちとでは決定的にイメージの知覚の仕方が異なるんだろうな、とも思っています。

公共(と芸術)

公共とかについても色々考えたり、制作したり実践したりしていました。

発電する都市と広告の森(浪川洪作との共作)

渋谷スクランブル交差点のデジタルサイネージに太陽光パネルの映像を表示させ、岩手県葛巻町の太陽光パネルをグリーンバックで覆うプロジェクト。文化庁メディア芸術クリエイター育成支援事業の発表支援を受けて制作。

サイネージを都市のノイズ、太陽光パネルを地方のノイズと捉え、その交換を行っています。

渋谷
岩手県葛巻町


卒論

卒論は『現代写真における物質性–−イメージへの抵抗として』というタイトルで現代写真とメディアアート(ポスト・インターネット)の分析をしました。ロラン・バルトの「トラウマ的写真」、ランシエールの「物思いに耽るイメージ」の概念からイメージに依らない写真の物質性をどのように捉えられるか、そしてそういった芸術が社会の秩序に対しいかに「異議申し立て」するか、みたいなことを書きました。結局時間がなく書ききれなかったところがあったので、もうちょっと加筆したい、読ませる詐欺をしている方々ほんとすみません。


センキョ割/選挙割

選挙割という社会活動/ソーシャルデザインに高3から関わっていました。
地道に活動したりトラブルに巻き込まれたりテキストを書いたり

ラジオに出たり新聞に出たりNHKに出たり、などをしていました。

パーマかけた次の次の日、ぐらい

上のテキストに書いてるんですが、積極的に「謎のサービス」的な立ち位置から、この活動を捉えています。社会問題を解決しよう、というよりかは情報の摂取の仕方が大きく変化し、自治会や商店街などの地域社会のシステムが消耗していっている中で社会の中に別の語り口を用意できないかな、ということを考えて実践しています。賛否あって当然の活動というか、100賞賛されるような活動ではないと思っていて、しかしその場所から立ち上げられることがあるはず、と考えています。なので個人的にはソーシャル・プラクティス、みたいな言い方がちょうど良いかなと思っています。この辺りもすごく長くなってしまうのでまた改めてどこかで。

エトセトラ

文芸会

SFC文芸会というサークルに入っていました。『アンバランス』という部誌に二つエッセイを寄稿。楽しかった。


お味噌汁を配る活動(w/高梨大)

パソコンのCPUの温度と同じ温度の味噌汁を配る、というパフォーマンス。DJ/VJが盛り上がりパソコンに負荷がかかるほど熱々のお味噌汁が飲める。結構ウケる。

後輩が主催するイベントに呼んでくれたりもしました。


これからのこと/考えていること

春からは引き続きSFCの院(政策メディア, x-design)に進学します。引き続きよろしくお願いします。でっかい事やりたいです。オルタナティブをやりたいです。ランシエールを引用します。

多くの解説者たちが、新たな電子メディアや情報メディアに、芸術による発明の終焉とまでは行かないにしても、イメージの異他性の終焉を見て取ろうとした。しかし、コンピューターやシンセサイザー、そして種々の新しいテクノロジーは、全体としては、イメージや芸術の終焉を意味することなどなかった。それは写真や映画が、それぞれの時代にイメージや芸術の終焉を意味しなかったのと同様である。美的=感性論的時代の芸術は、それぞれの媒体が提供しうる可能性を絶えず活用してきた。その効果をほかの芸術の効果と混ぜ合わせるために、そしてほかの芸術の役割を取り込み、それによって新たな比喩形象を作り上げることで、ほかの芸術が使い果たしてしまった感性的な可能性を蘇らせるために。新しい技術や支持体は、こうした変容にこれまでなかった可能性をもたらすのだ。イメージは、それほどすぐには、物思いにふけるのをやめることはないだろう。

私たちの生活は、少なくとも情報化社会の、発達しきってしまったインターネットと共にあって、様々なメディアの形が生まれ、イメージが生まれます。良いことが起こり悪いことも起き続け、物事は急速に進みがしかし戦争一つ解決し得ない"それ"。私たちの間を文字通り網として巡る"それ"はこの数年、すっかり硬直化し装置として常に暴力的であり続けたと思います。そういったシステムに抗い、「分割=共有」された秩序を乱す役割が芸術にはあると思っているし、そういうところがやりたいと切に思います。ということでみんなよろしく。頑張ります。

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