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京都新聞 「現代のことば」

 現職の施設では京都新聞をとっています。
 
 これはもちんご利用のために取られている新聞なんですが、バラバラにならないように、ホッチキスとめて、新聞を読むであろご利用者のところに持っていきます。

 しかし、その夕刊は前日のものでしたので、廃棄の新聞を置いているところに持っていくために、そのへんにおいてありました。

 そしてなんとなく、新聞を見ると「現代のことば」というコラム欄が目に止まりました。

 

「母の日記」齋藤 亜矢
 きょうだい3人の母子手帳には、明らかな格差があった。発達度のチェック項目の下にメモ欄があり、長兄の手帳には、いつ何ができるようになったかが逐一記録されている。次兄の手帳ではその記述が3分の1ぐらいに減り、3番めの私の手帳はほぼ空欄で、1カ所「うーうーとおしゃべりしている」という記述があるのみ。
 小学生の頃にそれを見比べて、私が口をとがらせると、3回子育てしていれば、、そんなものよと母は笑った。母が必死にならず、放任してくれてよかったと後で思った。
 さらにときがたって、ふいにそのころの母の思いに触れる事になった。規制した際に机の扉にファイルが置いてあるのに気づいたのだ。
 「ひきだしを片付けていたら出てきました。1978年の日記のようです。立派に育ってくれてありがとうネ 2014年2月17日」母の字でメモが添えられてある。
 少し黄ばんだ紙の束はノートからちぎり取ったもので、書かれていたのは、私の右目の疾患が判明した生後2カ月から4カ月までの記録だった。
 2カ月を過ぎても目が合わず、あやしても笑わないので。発達の遅れかと思ったが、どうこうに左右差があるのに気づき眼科を受診する。すぐに総合病院にまわされ、最終的には東京の大学病院で、白内障と網膜の疾患により右目がほとんど見えていないことがわかった。さいわい左目には問題がなく、日常生活には支障はない。でも生後3カ月の段階では、左目も少ししか見えない可能性が告げられた。
 兄たちを実家に預け、赤ん坊を抱えて泊りがけで東京の病院を受診したこと、祖母が「網膜と角膜をとり違えて、老人の目をやろうといってくれて」こと、父と2人で泣いた夜のこと。
 10ページ分のノートの切れ端に、若かった母の不安や自責など、心の揺れが赤裸々につづられていて、青いインクが涙で滲んでいた。普通の子と同じように何でも体験させよう、などたくさんの決心の言葉の並びにも胸が詰まる。
 今読み返して、添えられたメモの日付にはっとした。見つけたことに気づかなかったが、これは10年前、わたしの最初の単著『ヒトはなぜ絵を描くのか』が刊行された直後だ。
 その頃はすでに、母は認知症の手前の軽度認知症害と診断されていて、文字の多い本を読むのはむずかしくなっていた。わたしの本も、表紙を見るたびにすごいねえと言ってくれたが、本を開いて少し立つと、後で読もう、と閉じてしまう。本好きな母の頭がしっかりしているうちに呼んでもらえなかっことが心残りだった。
 でも、きっと読んでくれたのだ。メモの日付を見てそう直感した。この本で私は、理由のわからないザワザワする感情が、言葉が発達する前の記憶に由来する話として、かつて母から聞いた幼少期の病院通いのことを書いていたからだ。おそらく母はその部分を読んで、自分の日記をひっぱりだしたのではないか。
 失われた記憶と母の思い出の宿る、懐かしい筆跡だった。
 (京都芸術大教授・芸術認知科学)

京都新聞夕刊 現代のことば

 読み始めた時は、「末っ子あるあるだ!」と思いどんどん読み始めました。
 
 私は2人きょうだいなんですが、兄の育児記録はすべて、びっちり記載されていましたが、私のときは歯抜けで記録されており、その記録も「〇〇(兄)のやきもちが強くなったので、〇〇公園にお出かけしました」と、兄の記録でした(笑)。

 アルバムも5歳ごろまでで、兄は2冊のアルバムの写真があり、私は1冊しかなく、写真もほぼ兄と写っています。
 
 そして、齋藤亜矢さんのように、母に抗議したことがあります。

 私の母も、齋藤亜矢さんのような返答だったように思います。
 
 今思えば、近くに頼れる親や親戚もおらず、今で言うワンオペで2歳差の子供の育児をしていれば、私の育児記録を書く時間なんてなかったと思います。

 それでも、私用の育児日記やアルバムを用意して、兄と同じようにしようと思って、できなかった母が一番後悔しているかもしれません。

 私の抗議は、当時の母をとても悲しませたのかもしれませんね。

 さて、コラムの話に戻りますが、齋藤亜矢さんが本を出刊したことをきっかけに、お母様と齋藤亜矢さんに当時の記憶がよみがえったんですね。

 当時本を読むことが難しくなっていたお母様が、ふと読んだ内容でこの記憶が蘇って、抗議されたときは「3人も育てていたらこんなものよ」と、言っただけでした。

 でも、その時の出来事もご自身の思いも不安も、日記に残していたことを思い出されたんですね。

 そして、娘の齋藤亜矢さんに伝えなければと思われたんですかね。
 
 「丈夫に育ってくれてありがとうネ」

 

 そして、そのことからお母様が、自身の本を読んでくれたんだと、理解されるという、母子手帳の記録の出来事を知る、お2人にしかわからないやりとりですが、とても素敵なお話ですね。

 また、すべての光景を思い浮かべることとができる文章や、感じとひらがなのバランスなど、とても勉強になるものでした。

 こんな文章がかけるように、勉強しづづけたいと思います。

 そして、私と母のエピソードも、齋藤さんのような素敵な文章で綴ることができる日が来ますように。

 

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