理知を継ぐ者(56) 我慢とは②
こんばんは、カズノです。
【チャンネル争いのない世界】
前に、「日本人は民主教育によって『民主』『個人』『主体性』を覚えたのではなく、経済によって『個人』『自分本位』にさせられただけ」だと話しました。周りの環境が整いすぎて、あまりに個人的な欲求を通しやすくなってしまった。周囲との葛藤を生まず、そのまま個人的な意思が通ってしまう環境で、なんとなく「個人的」になっているだけだということです。
だからそこでは「個人」「自分」「自分なり」はいくらでもやれるけど、肝腎の「民主」「人権」「公共の福祉」にはほとんど無知だということにもなります。
チャンネル争いがなぜ起こったかというと、言うまでもなく「それぞれが言いたいことを言ってるだけだから」です。家族それぞれが、思ったことをそのまま口にしているだけで、「おれは野球が見たい!」「あたしはドラマ!」「ぼくはドリフ!」になったし、「おれは父親だぞ!」「あたしにだって娯楽くらいあっていいじゃない!」「ドリフ!」「子どもは黙ってろ!」「うぇーん!」になったんです。
もちろん、それでも最終的にはこの紛争は解決します。話し合いか、譲り合いか、ふてくされて茶の間から出て行くか、まあそういう方法で解決はされます。それでもテレビは一家に一台しかなかったからです。
ですので、一人に一台になってしまった現実では、この「葛藤的な場面」「その解決」にまったく慣れていない人が育ってしまうことになります。
自分の意思が通らない場面を、ものすごく理不尽に感じるとか、そういう人ですね。誰かから自分の自由を妨げられると、途方もない怒りや苦しみを感じるとか、そういう人間が育ってしまう。
「不快」「不愉快」という一時的な、ごく私的な感情を、なぜか、周囲全体に共有されて当然の被害と思うような現在には、一面ではそういう背景もあるでしょう。法的な被害とは呼べないものに、どうしても許せない「何か」を「それも被害だ」とせずにいられない心性、とでも言いましょうか。
もし日本人が民主教育によって「人権」を学んだのなら、その個人はいつも、「個人の自由」と「公共の福祉」のバランスを考えながら、自分の振る舞いを決めるでしょう。「公共による個人への抑圧はないか」「自分個人への自省はできているか」、そのような問い返しを続けるはずです。他者と共に生きていくとはそういうことだからです。
でももし日本人が経済によって「個人」にさせられただけなら、そういった問い返しはないでしょう。そして実際ないわけです。
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チャンネル争いでいちばん強いのは「うぇーん!」です。つまり子どもが泣き出すことです。子どもに泣かれたら親も無理強いはできませんから、泣いた子どもがけっきょくはいちばん強いという。
「泣く子と地頭には勝てない」というやつですが、そんなの800年前から決まっていた日本人の現実でした。いえ、かつての日本の親たちには「泣いている子どもを可哀相と思う心情がまだあった」と言うべきでしょうか。
いまそれを子どもがやったら殺されますよね。「おれの/あたしの快適をこのガキは邪魔する。冷蔵庫に閉じ込めて、しっかりしつけてやろう」。
親という大人がすでに幼児的になっている──生理的な不快感への我慢ができなくなっている。子の生育・生存より自分の快適。そういうレベルに至るまで、この「チャンネル争いの無くなった現実」は歴史を持ってしまったという、それが現在ですね。
【私たちはもう我慢しない】
受講生Dは「私たちはもう我慢しない」と言いました。その記事の主旨からすると不用意な発言です。それは繰り返し話してきました。
けれど、それでもこの署名運動が2.9万の支持を集めたのは大事なことだと思います。「もう我慢しない」に反応したひとも、けっこうな数だったろうと考えられるからです。
たぶんその多くは、反射的に「我慢は悪!」「それは民主じゃない!」「人権はどうなってるんだ!」を連想したのだろうと思います。実際に自分が我慢してきたかどうかは抜かして。
でも中には、本当に我慢をしてきた人もいるかも知れません。
仮にいるなら、おれはその人たちに、「実際に我慢してきた自分」を思い返してほしいと思います。そこには、誰よりも大人で、文化的な内容があるかも知れないからです。
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