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理知を継ぐ者(50) 被害者というもの③

 こんばんは、カズノです。

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 国会議員の失言を問題視する人も、タレントの浮気に眉をひそめる人も、プロレスラーの演技を不愉快に感じ、追い詰めようとする人も、使う文脈は「自分は被害者だ」です。
「私は不愉快にさせられた。これは被害だ」「社会の政治や倫理を低下させるものだ。国益の損失だし、国民の被害だ」です。
 そして「被害者であるこちらをたしなめるなど論外だ」「二次被害だ」になる。
 そういう風に、「被害を訴える」文脈が大手を振っているのが、どうやらいつからかの日本社会です。

 この文脈を使う人とはつまり、「反社会的勢力」や家康や、『鎌倉殿』の作中人物たちの振る舞いを、たぶん直観的に理解できているんですよね。自分が「被害者」だと確定してしまえば、あとは言いたい放題のやりたい放題だという。
 今という時代はある面で、被害者でいるほうが周囲に対して優位に立てる、そのほうが生活が安定する、つまり自意識が活性的になる時代なんでしょう。

【被害者でありたがること】

 例えば受講生Dの抗議とは、要約すればこういうものです。
「『生娘をシャブ漬けにする』と発言する講師Cには差別意識があると考えられる。ゆえにCが管理職をしている企業Bや、Cの講義に疑問を持たない大学Aには、Cと同種の差別意識があると考えられる。ならば大学Aの職員や学生および企業Bの従業員が、差別的待遇を受けている可能性がある。事実そういった訴訟や争議もあるようだ。よって大学Aと企業Bに現実に、そのような差別を受けている従業員・職員・学生がいないかの内部調査を求める」
 念のため、そういう抗議──というより要求がDの記事内容です。Dの発信とは、「講師Cは差別的だから抗議する」ではありません。「そのCを受け入れている企業Bや大学Aに差別的状況はないかの調査・確認を要求する」という、記事の主眼はそこです。

 つまり受講生Dじしんは、べつに大学Aからも企業Bからも差別も被害も受けていないわけですが、でもDはこう付け足すわけです。「私たちはもう我慢しない」。
 これって要するに、「私はこれまでずっと我慢させられてきた被害者です(なので企業Bや大学Aに私のような被害者がいないかが気になってるし、私のように我慢しちゃってないかなって心配なんです)」て意味ですよね。

 むろん、Dの考える「企業Bや大学Aの差別待遇とそれゆえの学生・従業員の我慢」が、どうDの「これまでしてきた我慢」と重なるのかはまったく分かりません。それはずっと話してきました。大学Aや企業Bの差別的実態を報告する(かのような)ニュース記事も引用していますが、それがDが受けてきた「我慢な被害」とどう重なるのかもやっぱり分かりません。
 分かるのは、上記のような要求に際して、「私たちはもう我慢しない」=「私は我慢してきた被害者だ」というひと言を付け足しておきたかったのがDらしい、ということです。
 どういう経緯からかはともかく、大学Aや企業Bの「想像上の我慢被害者」に自分を重ねて、代弁者かのごとく振る舞いたかったのがDなのだろうと。
 差別問題に憂う社会正義からの要求なら、「私たちはもう…」うんぬんはいらないですよね。(社会正義とは一般に「無私」が前提ですので、そもそもそういうひと言は思い浮かばないか、浮かんでも載せないのがふつうでしょう。そのひと言のせいで主旨が曖昧になるならなおさらです)。

 べつにDのことを、「他人をダシにして自分の不幸を訴えてるだけ」とは思いませんし、きっと事実そうではないはずですが、だとしてもDが、論理的に意味不明な「私たちはもう我慢しない」を付け足すことで、自分自身の被害者性に落ち着こうとしているのはやっぱり事実でしょう。
 繰り返し、Dは大学Aや企業Bの被害者でもなんでもありませんが、そこまでして「被害者でありたがる」「自分も被害者としておいたほうが通りがよいと思える」「被害者なセルフイメージに落ち着こうとする」のが現状、ということですね。
 自分は差別の被害者なんだ、だからいくらでも差別的な人間を告発していいんだ。
「私たちはもう我慢しない」のひと言が、むしろ訴え全体の主旨を曖昧にしてしまっても、このひと言を差し挟まないと、自分の主張は自分のものにならない。
 どうもそういう自意識がDにはある。

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 もちろんここでDを引き合いに出したのは、あくまで例としてです。「こういう人って今多いよなあ」というそれだけです。
 なので、「そうだそうだ、カズノの言う通りだ。受講生Dみたいな被害意識が社会をぎくしゃくさせてるんだ。ほんと不愉快だ。Dめ、思い知れ!」とか思わないでください。
 だってそれが、「自分を被害者にしたがる考え方」になっている(かも知れない)からです。



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