理知を継ぐ者(7) 足りなさについて③
こんばんは、カズノです。
【主旨が分からない】
受講生Dが使った「私たちはもう我慢しない」には2種類の解釈ができます。「最初に抗議したときからずっと待たされていて、もう我慢できない!」というひとつと、「大学Aや企業B、講師Cとは無関係な我慢をいっていて、その堆積もあってもう我慢できない!」とするひとつです。どちらかは分かりませんが、ゆえにいずれにしろ、
『生娘シャブ漬け発言を受け、早稲田大学・吉野家に意識改革・ハラスメント対策徹底を求める!』
と、
『「生娘シャブ漬け発言」を受け、 私たちはもう我慢しない 早稲田大学・吉野家にハラスメント対策徹底を求める!』
のセンテンスを併せて読んだとき、捉え方はふたつあります。
つまり、「だいたい同じことを言っている」という捉え方と、「だいたい同じことを言っているように見えて、ほんとは違うことまで含めてる」という、ふたつです。
・今回の大学A・企業Bだけを問題視しているという見方(「ずっと待ってるのに、もう我慢できない」はこっちです)
・今回の大学A・企業B以外も問題視に含めているという見方(「受講生Dが過去に強いられてきた我慢の数々」を含めるとこっちになります)
ということですね。
どっちが主旨なんでしょう?
記事本文を読む限り、前者「大学Aと企業Bだけを問題視してる」になりますが、でもそうとは言い切れません。「私たちはもう我慢しない」があるからです。
このフレーズがあるばかりに(というより、このフレーズがどういう意図から発せられているかの説明が無いばかりに)、全体の主旨が曖昧になっているということですね。
【足りなさについて】
何について話しているか分からない言葉とは、だからこそ、どうとでも解釈できるものです。明確に了解できない言葉は、無限に解釈が出来てしまいます。
この場合でいえば、
「抗議してからずいぶん時間がたってるのに、ちゃんと対応してくれないので、もう我慢できません」
または、
「私は以前、企業○○の××氏からこのような発言を聞き、大学△△の□□氏からはこのような発言を聞いて、そのたび我慢した/させられました。それは今回の講師C、大学Aや企業Bの在り方にこのように関わるものです。でも『もう』私は我慢しません」
といった記述が無いと、「私たちはもう我慢しない」の意味は分からないということです。
例えば、この「私たちはもう我慢しない」にピンときた読み手がいたとして、その人は、自分の過去の/現在の個人的な我慢体験を思い出し、「おお! この署名要望は、きっと私と同じ境遇から発せられているのだ!」と思い、署名したとします。そうさせるだけの間口がこの「もう」にはあるからです。でもじゃあその人の我慢体験に、大学Aや企業Bは関係あるのでしょうか?
おそらくない場合がほとんどですよね。
つまり記事の要請通りに大学Aや企業Bだけが相応の対応をしたとしても、この人の人生の何が変わるわけでもないということです。我慢体験の落ち着き場などどこにもない。むしろあるほうが不思議でしょう。だって記事はあくまで大学Aと企業Bにしか抗議/要請をしていないのだから。
だからこれは「足りない」ということです。話すべきことを話せていない。解釈の過剰を生むのはえてして「足りなさ」だということです。
※仮にある賛同者に大学Aや企業Bから我慢させられた体験があったにしても(ゆえに賛同をしたとしても)、むしろそれはごく限定的な例で、署名記事の使っている「私たちはもう我慢しない」状況とはかえって重ならないものでしょう。つまり当の署名活動とは乖離を生んでいる可能性のほうが高いですよね。非常に。
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