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理知を継ぐ者(53) 人権と経済①

 こんばんは、カズノです。

【概要】

 かつて家庭には、「チャンネル争い」というケンカがありました。
 お父さんはプロ野球中継を見たい、お母さんはドラマを見たい、子どもはお笑い番組を見たいし、お祖父ちゃんはニュースを見たい、お祖母ちゃんはテレビなんか消して静かに過ごしたいけど、居候の叔母さんは教育テレビ(今のEテレ)で歌舞伎を見たい。そうして家族でひと悶着おこる。まあ死人も負傷者も出ないケンカですが、これはこれで熾烈な争いでした。
 一家に一台しかテレビがなかった時代(そういう時代があったのですが)は、そのように、家族間での「チャンネルをどこにするか!?」の闘争があったわけです。「チャンネル争い」という言葉を生むほど、これは日常的なことでした。

 さて時代が変わり、この「チャンネル争い」はなくなりました。なぜでしょう? もちろん、「一家に一台」が「一人に一台」になったからです。
 テレビ、あるいはテレビに類するもの(今でいえばネット環境とか)が、一人ひとりにまんべんなく提供されるようになれば、「おれは巨人戦が見たいんだよ!」「あたしはドラマの続きが!」「えーっ、ドリフ見たいのにーっ!」「もうテレビなんて消しなさい!」「コマーシャルのあいだだけ、選挙速報見ていいか?」もなくなるわけです。
 あるいは、テレビやテレビに類するものが1回線しかなくても、録画機器やアーカイブがあれば全ては解決するわけです。
 じゃあそんな「一人に一台」な生活環境を整えてくれたのは誰でしょうか。「そりゃ、やっぱお父さんでしょう」「あとパートやってるお母さん」と家庭内の会話ではなるでしょうが、整えてくれたのは経済です。

 先端的なテクノロジーを商品化する経済が、頑張ってくれればくれるだけ、「チャンネル争い」はなくなります。つまり他人とのあいだに起こる葛藤はなくなります。つまり自分の欲求のまま生きることがふつうになります。

【民主主義をかなえているもの】

 民主制の社会の下では、当然ですが個々人の自由が保障されています。だから民主制の日本でも、今現在、みんな自由にしています。でもそれって、ほんとうに政治体制のおかげで自由にやれているのでしょうか。
 個々が自由にやれているのは、政治的な影響力は実はほとんど無くて、経済体制のおかげなのかも知れません。

 経済=企業とはそもそも営利を目的にしているので、社会性とかそういうものは考えません。昔の経営者ならそういうものも少しは考えましたが、今はまず考えません。
 世間には「チャンネル争い」というものがあると知れば、じゃあ「一家に一台」を「一人に一台」にすればいい、それが常識になればうちも儲かる、です。スマートフォンがテレビの代わりなると踏めば、「ひとり時間を快適に!」で売りまくります。

「チャンネル争い」の時代には、まだお茶の間(今でいうLDKやDK)に家族の集合がありましたが、それぞれがテレビを持ち、個室も持った現在、その集合は極めて短い時間になりました。食事だけ済ませてあとは個室に戻ってテレビ、スマホを眺めるようになっている。いえ、LDKにいても、家族そっちのけでスマホばかり見ている。
 かつてその「家族の集合」の時間は長時間に及びましたし、あれこれ自分自身のことを話し、家族の話を聞く時間でもありました。いわゆる「家族の団欒」と呼ばれた時間ですが、この「団欒」という時間/関係を経済は当たり前に奪うということですね。

 でもこれは、民主社会にとっては、むしろそうなるべきものです。「自分が見たい番組を、自分が見たいときに見る」が民主主義だからです。「誰からも強制されず、邪魔もされず、本人の意思がその通りに通っていく社会」、これが民主主義の掲げる「あるべき社会の姿」「あるべき社会と個人の関係」です。
 個々の意思は尊重されるべきが社会の在り方なら、家族の揃ったLDKで各々スマホに見入っている姿は、まったく個々の意思が尊重されている共同体の在り方です。

 というわけで、「民主主義とはそれを形成する個々の自覚によって成り立つもの」とは言われますが、べつにそういう自覚は必要ないんですよね。いちいち自覚しなくても、経済が個々を「個人」にしてくる環境をつくってくれるからです。
「個人消費が狙い目だ!」と経済も思ってくれれば、あとはその「個々」の欲求を刺激してくれるようなものを、頼んでもないのに作ってくれる。
 そうして、「チャンネル争い」をしなくなった日本人は、「無条件に自分の意思を受け入れてくれる環境」に慣れていきました。



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