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理知を継ぐ者(55) 我慢とは①

 こんばんは、カズノです

【モチーフ】

 橋本治が、
・我慢とは文化だ
 と言ったことがあります。どういう意味でしょう?

 一般に、「我慢」は悪だと思われています。我慢するにしても、「しないですむならしないに越したことはない」と言われるものですが、要するに「我慢をする」は負の行為だということです。
 でも橋本は我慢を文化だといいます。どういうことでしょう?

【我慢は文化】

 例えば、子どもは我慢をしません。楽しければ笑うし、辛ければ泣きます。感情のまま生きています。怒れば殴りかかるし、怖くても殴りかかるし、おしっこもうんちも垂れ流す、生理的な衝動をそのままにしています。自分で自分を制御できないのです。

 でも子どもたちは、成長し、学び、教育を受けていく過程で、おしっこやうんちを垂れ流すのをやめ、怒っても怖くても殴りかからず、笑うべきでない場では笑顔を控え、辛いこともこらえるようになります。
 我慢は文化だとは、「自然の状態の野蛮を抑制するのが、人間社会の文化だ」という意味です。

 社会性を持つだけ、人は文化的になります。人の社会とは、ヒトが独自につくりあげてきた文化のかたまりだからです。
 だから当然、この社会で文化的であるだけ、その人は抑制的になります。つまり自然の野蛮を外には出しません。言い換えれば、自然の野蛮を外に出せる人はそれだけ非社会的で、非文化的なコドモだということです。
 それだけです。

【我慢の歴史】

 ところで、なぜ「我慢」は悪いことだと思われているのでしょう。「せずにすめばそれに越したことはない」と言われるのでしょう。
 たぶんそれは、我慢するのをイヤだと感じるのが、根源的な人間の衝動だからです。なんらかの自分の欲求を、誰か/何かにさえぎられたら、誰だってイヤな気分になるものです。「欲求が欲求のまま通らないのはやだ! おかしい!」と感じる、そういう人間の根源です。
 ただそれに加えて、日本人の場合、敗戦を経験したことが大きいでしょう。

 太平洋戦争に行き詰まったあたりから、日本人はずっと我慢をしてきた/させられてきましたが、敗戦で一層の我慢をする/させられることになりました。東京をはじめ主要都市はおおむね焼け野原で、政治も経済も、医療保健も文化も、自立的な生活も、しばらく機能不全に陥りました。
「人間的な生活」以前に「生活」そのものが成り立たない、そういう状況です。一本のさといもを家族10人で分けるとか、木の根っこを掘ってきて煮るとか、栄養失調で身内が死んでいくのをただ眺めていることしかできないとか( cf. 野坂昭如『火垂るの墓』)、そういうレベルの我慢です。
 だったら「もう我慢はしたくない」と思うのが人情でしょう。
 そうして「せめて子どもや孫たちには、ああいう我慢はさせたくない」と思うのも。

 ただ、こういう極限的な「我慢はしたくない」を経験した先人の「我慢観」て、やっぱり今とはべつですよね。
 なんで今でも日本では、「我慢は悪」「せずにすむならそれに越したことはない」になっているのか、それは考えたほうがいいと思いますよ。先人の苦労の言葉がいつのまにか「我慢は人権に反してる」に上書きされているとか。

 その人権思想、民主制は不思議なことを言います。
 民主主義・人権思想とはひとつの政治思想に過ぎませんが(人類普遍の原理などではありませんが)、政治/政治思想とは人間の文化のひとつです。動物はそんなもの持っていない、という点で文化です。
 でもその人間の文化が、「我慢は悪だ」と言います。ヒトは我慢を覚えることによって、やっと人並みの社会生活ができるものだというのに、「我慢などせず、自由闊達に生きるのが人間のあるべき姿だ」などと。矛盾してますでしょ、単純に。



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