愛器

Biography

1978年2月 埼玉県生まれ 水瓶座 AB型 左利き ひとりっこ
1歳より宮城県仙台市に暮らす
(2008年1月から2012年6月までは自身の転勤により石川県金沢市で生活)

幼少期は父(2008年他界)が好きなBEATLESやVENTURESやCCRや母が好きなSOUTHERN ALL STARSの曲を車の中で聴いていた程度で、自分でCDを買うようになったのは小学4、5年生頃だったと思う。
その当時8cmのCDシングルで持っていたと記憶しているのが
・仁藤優子 / そのままの君でいて(機動警察パトレーバーの主題歌)
・永井真理子 / ミラクル・ガール(YAWARAの主題歌)
・TM NETWORK / All-Right All-Night(No Tears No Blood)
・TM NETWORK / Dive Into Your Body
・TM NETWORK / The Point Of Lovers' Night
・TMN / Time To Count Down
以降、TM NETWORKは「一途な恋」まで購入していたと記憶

アルバムはTM NETWORKのCAROLが初めてで、次は斉藤由貴のYuki's MUSEUMというベスト盤だったと思う。
その後、TM NETWORKばかり聴くようになり中学生になってからは友人の影響でBOΦWYやCOMPLEX、BUCK-TICKなども聴くようになる。
また、松本孝弘がTM NETWORKでギターを弾いていたことで中学時代はB'zを聴いたり、初めてエレキギターを購入し海外のロックバンドも聴くようになる。中学時代はGUNS N' ROSES、BON JOVI、SKID ROWが好きだった。ロック以外ではMICHAEL JACKSONも聴いていた。高校1年になると通学時にはMETALLICAのブラックアルバムを聴いていた。中学時代にエレキギターを購入したもののほとんど触れることはなく高校生になってようやくBEATLESの曲を練習するようになり、音楽雑誌で読んだ「黒いジョン・レノン」というコピーが目に留まりLENNY KRAVITZを聴くようになる。またAEROSMITHも好んでいたし、今でも米国ハードロックという括りで言うとAEROSMITHはその活動の長さも含め一番尊敬しているバンドかもしれない。友達に勧められてNIRVANAやBLUR、THE SMITHS、STONE ROSESなども聴いていたが当時はそこまで熱心なリスナーではなかった。唯一、英国のバンドで好んで聴いていたのは、MANIC STREET PREACHERSであった。BEATLESの曲を練習することでBEATLESにハマりBEATLES、特にJOHN LENNON作の楽曲ばかり聴くようになる。
高校2年になるとOASISがデビューし、一気に虜になる。と同時に英国のバンドばかり聴くようになる。RIDEやTEENAGE FANCLUB、MY BLOODY VALENTINEなどのクリエイションレーベルのバンド、STONE ROSESやHAPPY MONDAYSなどのマッドチェスター期のバンドを初め、CDショップでは輸入盤コーナーにばかり足を運びとにかく英国のバンドを買い漁った。高校2年のときにはMANIC STREET PREACHERSのTHE HOLY BIBLEという大傑作が発売され、授業をサボって学校近くの河川敷で1日中そのアルバムを聴いていたこともある。そして高校3年生のとき、生まれて初めて人前でギターを演奏するという経験をする。文化祭の前夜祭、全校生徒の前、THE BEATLESのコピーバンドで、ステージは体育館。
何故、全校生徒の前という舞台を演出してもらえたかというと、バンドメンバーに教師2名がいたからだった。僕はもちろんジョン・レノン役で、友人がポール役でベースだった。つまり、ジョージとリンゴが教師2名だったのだ。それが理由で生徒会が最高の場を用意してくれたのだった。
間違い無く、僕の人生で一番観客が多く、しかも一番盛り上がったライヴだった。

大学生になると、もちろん音楽系のサークルに入った。
そのサークルには1学年上にFreeTEMPOの半沢氏、1学年下にLong Shot Party、Tijuana Brooksなどが在籍していた。
そのサークルで僕はOASISやRADIOHEAD、SEX PISTOLS、MANIC STREET PREACHERS、BLANKY JET CITYのコピーバンドやオリジナル曲のバンドを組んだり、隔月でロック系のDJイベントのメンバーとしてDJをしていた。大学3年になると英国だけではなくPIXIES、LEMONHEADSやDINOSAUR JR、PAVEMENTなど米国のインディーズ、オルタナティヴバンドもかなり聴くようになり、日本のインディーズシーンにも傾倒していく。COWPERS、BLOODTHIRSTY BUTCHERS、fOUL、eastern youth、NAHTなどを愛聴し、自分が作りたい音楽もパンクやハードコアに近付いていく。そして、大学卒業後、Limit Surfという3ピースバンドを結成する。
Limit Surfでは東京からテニスコーツ/プカプカブライアンズを仙台に招聘したり、同じく東京のradioactiveや町田のスイヘーリィベーズ(BLOODTHIRSTY BUTCHERSと対バンもしたバンド)と合同企画ライヴを行ったりしながらライヴ活動を中心に活動していた。
この頃から聴く音楽もDischordやTouch & Goといったレーベルのバンドや、JOY DIVISIONやBAUHAUSといったバンドが増えていく。
そして最後のライヴは200MPH、RISE AND FALLとの対バンだった。
200MPHはCOWPERSとスプリットを出したバンドだったし、何と言ってもドラムは後にSPIRAL CHORDで叩くHERA氏だった。
そして、そのライヴを最後に僕が一番愛したバンドLimit Surfが解散。
MTRによる宅録活動へとシフトする。

Limit Surf時代の楽曲
「輪郭」
https://note.mu/kazma_tamaki/n/n505d8ddd8bba


宅録活動といっても、他へアピールするでもなく自己満足で完結するような活動で終っていた。
その活動も父の病気が発覚してから他界するまではギターすら手にすることが無くなり、しばらくリスナー専門になって様々なジャンルのCDを買い漁っていた。
そして、転勤先の金沢で10年以上ぶりにQUESEという3ピースバンドを結成することになる。このバンドもメンバーの仕事の関係などでライヴを1度行った後、解散となる。

Quese時代の楽曲
「Monochrome」
https://note.mu/kazma_tamaki/n/n3535b0760406

その後、ネット上での楽曲発表にチカラを入れ始め、再び転勤で仙台に戻り、今から2年程前にMTRでの録音からDTM/DAWでの楽曲制作に移行し、現在に至る。
現在はkazma tamakiとしてはソロ楽曲の制作、各種アーティストとのコラボを、ユニットではchacchとのDo Some Callを中心に活動。

Do Some Callのnoteはコチラ
https://note.mu/dsc


また、246 records web catalogueの運営も行っている。

note以外の主な活動先
●YouTube
https://www.youtube.com/user/kazmatamaki
●OKMusic
http://okmusic.jp/#!/user/8457
●muzie(PICK UPアーティストに選出されました)
http://www.muzie.ne.jp/artist/r001005/

●SoundCloud
https://soundcloud.com/kazmatamaki
●Audioleaf
http://www.audioleaf.com/kazmatamaki/

*現時点で憶えていたり思い付いたことを書いたので、今後ちょくちょく手直しすると思います。

2014年10月24日
kazma tamaki

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