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浪費される時間

チャイルディッシュ・ガンビーノのセンセーショナルなミュージック・ビデオ「This Is America」が、話題になっている。映像に二重三重の仕掛けがあって、見返すごとに新たな発見があるつくりになっている。その検証動画で教わったのだが、映像の後景で起こっているなにかを、前景の歌やダンスが覆っていて、その全貌は明らかにならない。なにか大変なことや悲惨なことがすぐ近くで起こっていても、それから目をそらされていて気づかない人たちのメタファーだと解釈できる。これが、アメリカだというわけだ。

この状況は、日本でも大差ないようだ。

今であれば、殺人タックル事件が格好の例だろう。この問題は、そもそもは、当事者の人たち(加害者側、被害者側の双方の関係者など)と、一部の非当事者(アメフトや同大学に思い入れのある人たち)にとっては確かに切実な問題だろう。しかし、私はそのいずれにもあたらない。私にとっては、本来、どうでもよい問題だ。

しかし、である。監督、コーチ、選手、はたまた大学の広報職員など、ひとくせもふたくせもある登場人物たちが、ひとりまたひとりと報道の表舞台に登場するたび、私はそのニュースを読みふけってしまう。私には関係ないのに。

自戒をこめて断言すると、本件は私たち大多数の消費者にとっては、ただのショーであり、エンターテイメントだ。義憤にかられて卑劣な大人を断罪したいと思うかもしれないし、過ちを犯したあとに立派に謝罪してみせた前途ある若者に同情するかもしれない。それでも、所詮は他人事であって、なにか行動を起こすわけでもない。ただ鑑賞して、消費するだけだ。そして、そのうち飽きるだろう。

世論が盛り上がることにより、問題の解決が促進されたり、その気運が高まったりという側面も、もしかしたらあるのかもしれない。しかし、早く消費すると、早く飽きる。きっと、ひとりふたりの監督やコーチの首が飛んだりしたあとは、いつもの日常が戻ってくるだけで、世の中はなにも変わらない。そして、浪費された時間は、かえってこない。

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