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「美しき村」を計画する。

「風景は果たして人間の力を以て、之を美しくすることが出来るものであろうかどうか。もしも可能とすればどの程度に、之を永遠のものとすることが許されるか。」柳田國男『美しき村』

柳田國男は、明治8年(1875年)7月31日に飾磨県神東郡田原村辻川(現在の兵庫県福崎町辻川)で生まれ、昭和37年(1962年)8月8日に、東京都世田谷区成城で没しています。

國男の生家は、福崎町辻川の辻(北条街道と生野街道の交差点)にありました。目の前を、様々な文物が行き交ったことでしょう。後に國男は「私の家は日本一小さい家だ」と言っています。確かに小さな家で、現在は、近くの辻川山公園に移築保存されています。
そして、國男少年は、11歳のときに地元辻川の旧家「大庄屋三木家」に預けられます。ここで屋敷の蔵書を読み耽ったことが、日本民俗学開拓の基礎となったと言われています。

実際、後に國男は「故郷七十年」で、「同家の裏手にいまも残っている土蔵風の建物の二階八畳には、多くの蔵書があった。そして階下が隠居部屋で二階には誰も入れないことになっていたのだが、私は子供のことだから、自由に蔵書のあるところへ出入りして本を読むことができた。あまり静かなので、階下からおじいさんが心配して「寝てやしないか」と声をかけることがあったほど、私はそれらの蔵書を耽読した。その間はいたずらもしない ので、家人も安心したのであろう。色々な種類を含む蔵書で、和漢の書籍の間には草双紙類もあって、読み放題に読んだのだが、私の雑学風の基礎は、この一年ばかりの間に形造られたように思う。」と書いています。

ちなみに、この大庄屋三木家は今も福崎町辻川にあり、兵庫県の有形文化財に指定されています。國男少年が出入りした「二階八畳」の部屋も現存していますが、保存工事の予算が確保できずに閉じられたままでした。現在は、神戸新聞者と一般社団法人ノオトが共同出資したまちづくり会社「株式会社PAGE」が保存活用工事を進めていて、本年の6月ごろに文化財ホテルとして開業することになっています。
平成31年4月の改正文化財保護法の施行により指定文化財の活用にも道が開かれたのですが、その活用第1号の事業となります。

さて、柳田國男の戦前の随想に「美しき村」があります。ところどころ抜粋して、以下に紹介します。國男は、東北の村々を巡っていたようです。

「それよりも私に先ず珍らしかったのは、何の模倣も申し合せも無い筈の、数十里を隔てた二つの土地で、どうして又是ほども構造が似ているのか、尋ねても答えられそうな人が居ないから聴かずに戻って来たが、久しく不審のままで忘れずに居たのである。」

「しかし旅行をして居るうちには、別にここという中心も無いような、村の風景に出逢うことが段々に多くなる。...斯ういう茫として取留めの無い美しさが、仮に昔のままで無いとわかって居ても、之を作り上げた村の人々の素朴な一致、たとえば広々した庭の上の子供の遊びのような、おのづからの調和が窺われて、この上も無くゆかしいのである。」

「そうすると古い親しみを忘れず、甲の家でも乙の家でも、片隅に芽生えたものだけはそっとして、其成長を見守って居たのが、やがてはそれぞれに程よい配置に就いて、斯うした珍しい村の相貌を、形づくることにもなったかと思われる。」
「歳月と生活とが暗々裡に、我々の春の悦びを助けて居たのだということは、性急な改良論者のもう少し考えて見なければならぬ点であろう。土地と樹木との因縁は、我々などよりもずっと深く根強く、したがって又ゆっくりとして居る。」

平成13年(2001年)に、私は、兵庫県丹波県民局にまちづくり課長として赴任して、丹波地域の土地利用計画・景観計画の策定に関わることになったのですが、その頃にこの文章に出会ったので、囲炉裏端に腰を下ろした柳田國男から静かに語りかけられたように感じたのでした。

農村風景

そして、冒頭に紹介した「風景は果たして人間の力を以て、之を美しくすることが出来るものであろうかどうか。もしも可能とすればどの程度に、之を永遠のものとすることが許されるか。」という言葉を何度も読み返したのでした。

私は「之を美しくする」作法を、「之を永遠のものとする」手法を形にするのだと、風景を計画するのだと、意気込んでいました。ただし、國男はこの随想のなかで、その道はないという趣旨のことも書いています。

「村を美しくする計画などというものは有り得ないので、 或いは良い村が自然に美しくなって行くのでは無いかとも思われる。」

「次々去っては又来る未知の後生と、それではどういう風に心を通わし、思いを一つにすることが出来るかが問題なのである。強いて風景の作者を求めるとすれば、是を記念として朝に晩に眺めて居た代々の住民ということになるのではあるまいか。」

その時は、これを読んでううむと唸っていたのですが、それから20年近くを経て、いま振り返ると、國男のこの文章について、私は2つのことを述べることができます。

丸山集落の村人たちは、まさにそのようにして生きてきて、今を生きていて、これからも生きていくだろうということが一つ。

そしてもう一つ。戦後の都市化に伴う農村空間の変貌と混乱を考えると「風景」はやはり制度をもって(「人間の力を以て」)計画する必要があるということ、そして、近年の過疎化に伴う農村空間の空閑化と荒廃を考えると「風景」は事業をもって(「人間の力を以て」)美しくする必要があるということです。
そのことを、私たちは丹波篠山で実践してきました。

ヨーロッパでは普通に行われているその「制度」と「事業」ですが、まだ、日本社会に備わっているとは言えません。緒についたばかり。柳田國男が「美しき村」を書いた時代と変わっていないのです。

「しかも風景は我々が心づくと否とに拘らず、絶えず僅かづつは変って行こうとして居る。大よそ人間の力に由って成るもので、是ほど定まった形を留め難いものも他には無いと思うが、更にはかないことには是を歴史のように、語り継ぐ道がまだ備わって居ないのである。」




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