詰将棋を趣味にして良かったこと
いや膨大な時間を費やしてきましたから、もし詰将棋を知らなかったら全然違う人生だったろうなとは思いつつ、これが後悔していないんですな。
解らないことに対する耐性がついた
詰パラで毎月50題くらい出題されても、半分以上は解けないんですね。(90%も半分以上で嘘ではない)それで2ヶ月後とか3ヶ月後の正解発表を待つんですが、場合によっては正解を並べてみても解らない問題もある。
もう「解らない」ことが普通になりました。
ヒトは解らないことがあると不安を感じるのだと思います。だから解らないとイライラしたりします。
世の中のことでも解らないことだらけのはずなのに「こうであったらいいな」という答がみつかると、本当は解らないのに解ったつもりになってしまう。そういうことってないですか?
解らない物は「解らない」でいいじゃないか。
ゆっくり考えたり、解っているヒトに教えを請えばいいだけのことです。人類が誰も解っていないことだって山ほどあるのです。(「山」ではちと比喩が小さい……)
優秀な人の存在を知った
詰将棋の世界に入ると、物凄いヒトが世の中には居るものだと思い知ることができます。
会合に行くと、自分より遙かに若いコドモが素晴らしい作品を見せてくれる。見た目はかなりのお年寄りなのに若くて新鮮な発想のわくわくするような作品を創ったりする。想像を絶するめくるめくような世界を81マスと39(+1)枚の駒で構築してみせる人たちがいる。
でも、そういう才能の塊みたいなヒトも、酒飲めば酔っ払って階段から転がり落ちるし、アイドルの着せ替え人形遊びとかするし、普通の人間(?)なんだと知ることができます。
天才たちに任せていればいいのではないか、自分の出る幕はないのではないかと考えることもありますが、いや凡骨には凡骨の仕事があると変な自信を持つことで生きていけます。
年齢や身分を越えた付き合いができる集団を知った
趣味の世界はどこもそうなのでしょうか。
年齢関係なし。社長もニートも関係なし。資本家も労働者も関係なし。右も左も関係なし。
そういえば筆者は「祖国と学問のために」という全学連の新聞(「祖学」ってまだあるのかな?)にも「朝雲」という自衛隊の新聞(厳密には違いますが)にも詰将棋を載せたことがあります。
ちょっと理想化していますかね?
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