スタイルの存在論

ジョルジョ・アガンベンは『身体の使用』の中で、私たちの人生を「スタイル(様態)」の観点から再構成しようとしている。私たちは、自らの人生をスタイル(様態)の観点から考えることに慣れてはいない。私たちが獲得してきた語彙(および概念)は、私たちが何かであること(例えば日本人であること)、あるいは私たちが何かを成すこと(例えば教育改革を遂行すること)が自らの生の意味の中核を構成しているかのように誘導してきた。しかし、自らの人生をスタイル(様態)の観点から捉え直そうとするとき、自らの人生に今までとは異なった角度から接近できる。

スタイル(様態)の存在論は、私たちは「どのように生きたいか」という副詞的な問いを投げかける。スタイル(様態)の存在論は、私たちはただ生物として生きているだけではなく、むしろ「生きる」「在る」という動詞に副詞を加えて「○○のように生きる」ことができることを明るみに出す。そして、この○○になにを入れるかは私たち自身に賭かっている。

スタイル(様態)の存在論は、現在形でも過去形でも未来形でもなく、現在進行系である。スタイル(様態)の時制は "mode(たったいま)" である。私たちは自らのスタイルを事前に把握することはできない。私たちは自らがこの世界に在るその瞬間ごとに、「たったいま」の自らを省察しつつ、自らのスタイル(様態)を生成するのである。そのため、スタイル(様態)はある特定の場面で定義し、そのあとの人生を流し込んでいく鋳型のようなものではない。スタイル(様態)は私たちの身体がもつリズムとは切っても切り離せず、私たちが常に「たったいま」に留まることの重要性を投げかける視点である。

スタイル(様態)の存在論は、私たち自身が常に自らの生に要請(exigit)するべきであることを教えてくれる。私たちは、現在進行系で自らの生に対して「○○のように生きたい」という要請をすることができる。スタイル(様態)の存在論は、アリストテレスのように、「ただ在る」自らの生と「~である」自らの生を分離したりはしない。私たちは、自らの生に要請し、そのことがまた私たち自身を変容させるのである。

一方で、スタイル(様態)の存在論は、私たちのスタイルは自らの身体とは無関係に自由なものとして規定することができないとも説く。確かに「要請」の側面だけ切り取れば、私たちは自らの人生にあらゆる可能性を詰め込むことができるようにみえるかもしれない。しかし、実際には、私たちが使用できるのは自らの身体であって、自らの身体がもつクリナメン〔偏奇する運動〕(好み)からは自由ではいられないのである。

以上のようにスタイル(様態)の観点から自らの生を把捉することで、これまで私たちの人生を束縛してきた「本質」(~である)や「任務」(~を為す)は、スタイル(様態)の「残滓」であると捉え治すことができる。自らのスタイル(様態)を自らの生に要請しながら生きることで、結果として私たちは何者かになることができるし、何かを為すこともできる。しかしそれは私たちの生が人生という道に残す轍ほどの意味しかない。その轍に拘泥することで、私たちは真に幸福な生をその都度取り逃してしまうことになるのである。

それでは、私自身はどのようなスタイルをとって生きていきたいのか。この2日間、那須高原で熟考した結果、私がたどり着いたのは2つのスタイル(様態)である。

①この世界を愛おしんで在ること
②この世界の内奥にある真理を明るみに出そうとして在ること

私はこの世界がたまらなく愛おしい。この世界は「本質」には決して還元されえない(代替不可能な)個々の個別がもつ歴史がある。そのような代替不可能な個物のうちの幾つかは、私の人生にとってひときわの代替不可能性をもっている。愛は、一般的に思われているように純粋な感情であるわけではなく、一方でエーリッヒフロムの愛読者が信じているように愛は純粋な意志であるわけでもない。愛は、対象の存在に触発された感情に立脚した意志なのであって、受動的な感情ではなく、能動的な意志でもなく、中動態的な行為なのである。それゆえ、「この世界を愛おしんであること」とは、私に「愛おしい」と感じさせるこの世界との接触を常に保ちながら生きることであり、どのように絶望や苦難が襲ってきても、触発されて生じた愛を意志に転換しながら生きることでもある。それゆえ、これ以後、私は常にそのようなスタイル(様態)で生きることができているか否かを、たったいま生じた自らのクリナメンを省察しつつ、常に自らの生に要請して生きることになるだろう。

以前、類まれなる洞察力をもった後輩と定食屋で飯を食べているとき、「あなたは何のために生きているのか」と問われ、思わず「この世界の真理に触れるため」と答えた。この回答は、期せずしてわたしの生がもつ好みを言い当てていた。私はこの世界の内奥にある真理を明るみに出そうとしながら生きている。実際に死ぬまでに真理を垣間見たいわけではない。真理を明るみに出しつつ在ること自体が私のスタイル(様態)なのである。ここでいう真理は、ハイデガーの ἀλήθεια の解釈(非隠蔽性 Unverborgenheit)に依拠しており、あらゆる存在者が普段まとっている「覆い」をはずして、存在者自身を発見することを意味する。つまり、私はハイデガーがゴッホの描いた靴の絵を鑑賞したような仕方でこの世界と常に触れて在りたいと思っている。それは、現存在がこの世界と触れている在り方であることから、畢竟、人間との関わりを私に要請することになる。私は自然科学的な事実を脳みそに刻みこむことに喜びを覚えることができる身体をもっては生まれなかったようである。私が松尾芭蕉やRobert Hassを好んでしまうのは、彼らが存在の覆いを取り外す眼を研ぎ澄ませた詩人であるからであるのだろう(尚、ジョン・メイナード・ケインズに私淑するのも、ケインズは「経済」という存在者の真理を開示する手付きで思索を展開したからであると今では感じられる)。私は、彼らの手付きを真似しながら、この世界の真理を開示して在りたいのである。

③他者に価値を返しながら自らの居場所を確保して在ること

しかし、今日ここからスタイルの存在論に依拠して生きることは困難である。正直なところ、私は「任務」や「義務」という観念を、自らの生において相対化できているわけではない。つまるところ、私は自らがこの世界で「任務」を果たしていると感じられないときにはいつも、自らの生を意味あるものとみなすことができない。私はメンタルモデル論がいうところの「価値なしモデル」と決別することが未だできていないのであり、スタイルの存在論が腹落ちした今となっても、これからの人生「価値」という概念を手放すことは極めて難しいと感じている。私は、ほかの誰かと共に在るとき、自らがその誰かに役立っている(その誰かにとって)価値があると信じられない限り、その誰かの隣にいることすら躊躇してしまう仕方で生きている。それは例外がなく、最も親密な肉親や恋人でさえも、私は価値を返すという在り方以外で在ることに極めて困難を感じる。その観点から、私がコンサルタント「である」のは、私の身体のクリナメンにしたがえば極めて自然なことであったのかもしれないと思える。そこで、私は、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「梯子を登り切った者は、その梯子を投げ捨てねばならない」と語ったのと丁度同じ意味において、自らの生がスタイル(様態)の存在論に辿り着くまでの梯子として、3つ目のスタイルを仮置きすることを決意をした。アガンベンが示唆するように、そして実際にもハイデガーが自らの生を賭けて示したように、「任務」という在り方が「スタイル(様態)」とは決定的に融合しないものである(《企投されている》ものは《持ち運ばれていること》とは正反対である)という事実を引き受けても尚、私は「価値(任務)」という、生まれながらにして共に在リ続けたスタイル(様態)を手放すには至らなかった。ただし、那須高原で深く吟味したところ、この3つ目のスタイルは、価値を受け取る存在者(≒ 人間)と共に在る場合にのみ、私が「たったいま」を常に反芻することを要請するのであり、花鳥風月と共にある場合は、私は1つ目と2つ目のスタイルでのみ在ることができることも見えてきた。それは則ち、私にとって花鳥風月と共に在ることと他者(他の現存在)と共に在ることは異なる経験であることを意味しており、私の哲学的思考の進化次第では、ヴィトゲンシュタインが予言している通り、私は自らの梯子をいずれ投げ捨てることができるだろうという希望を示唆している。


『身体の使用』からの抜粋

"to ti en einai" の概念をつうじて、アリストテレスは現実存在と本質、第一実体の現実実存的在り方と第二実体の述語的あり方との統一性と同一性を思考しようと務めるのだが、ただし、それを究極的には〈根底に横たわっている〉基体が接近不可能なものになり、本質がなにか現実に存在しないものとして立ち現れるような仕方でこころみるのである。(p.207)
言語活動が分離してしまった存在の同一性は、もしそれを思考しようとこころみるなら、必然的に時間を含みもっている。存在を分離するその瞬間に言語活動は時間を産み出すのである。(p.211)
存在論的な装置は時間化する装置なのである(p.214)
単独的な存在を ―― 名指しする以外には ―― 言表することの不可能性が時間を産み出すのであり、そして存在は時間のなかへ融解していく(p.216)
《Xにとって存在すること、または生きることであったもの》は、今日ではたんに剥き出しの生でしかないのだ。(p.234)

《実体と様態のほかにはなにものも存在しない》(『エチカ』第一部定理一五証明)(p.267)
様態はその組成からして副詞的な性質を有しており、存在とは「なんであるか」ではなく、「どのようであるか」を表現しているのである。(p.276)
様態論的存在論においては、存在は自分を使用する。(p.277)
様態論敵存在論においては、存在は自分を使用する。すなわち、それがもろもろの形状変化そのものから受けとる触発作用のなかで自分自身を構成し、表出し、愛するのである。(p.278)
存在はもろもろの様態の要請である(p.286)
事物はみずからの言表可能性を要請する。そしてこの要請は言葉のめざしているものである。だが、現実には言表可能性だけが存在する。言葉と事物とは言表可能性の二つの分子でしかない。(p.285)
"comer" という動詞が中動態であることは、またもや、ここでわたしたちが素描しようとしている存在論とその動詞が密接に関連していることを明らかにしている。もしわたしたちが"comer"を「要請する」、"conatus"を「要請」と翻訳すること(《おのおのの事物がみずからの存在に固執するよう要請する要請》)を提案するとするなら、それはここで問われている過程が中動態的な性質のものであることを忘れないでいるという条件のもとにおいてのことである。欲し要請する存在は、要請する中で、自分自身を形状変化させ、欲し、構成するのである。このことこそが《みずからの存在に固執する》ということの意味であって、それ以外のなにものでもないのだ。(p.287)
存在はひとつの流動であり、実体はもろもろの様態のなかで《転調》され、リズムをつけられるのであって、固定され図式化されるのではない。(p.290)
現在は自分自身にたいする時差のなかでのみ把握され定義されうる(p.291)
ハイデガーが《投げ出されている》とか《企投されている》と読んでいる実存的なものとは正反対のなにものかとして提示される。ベッカーはそれを《持ち運ばれていること(Getragenheit)と呼ぶ》(p.319)
ヘレンが生きている生と、それのためにヘレンが生きている生とは、すっかり一体化してしまっている。そしてこの一致のなかで立ち現れるのはもはやあらかじめ先に置かれた生ではなく、なにか生のなかで不断に生を超越し凌駕していくものである。すなわち、ある一つの〈生の形式(forma-di-vita)〉なのだ。(p.321)
政治的な生、すなわち幸福の理念にもとづいて方向づけられており、あるひとつの〈生の形式〉へと凝縮した生(p.350)
(〈生の形式〉は)生きることのなかで産み出される。(p.375)
〈生の形式〉というのはひとつの「流出の儀式」であって、あれはこれやの特性や性質をもつ存在ではなく、流出するということがそれの存在の様態であり、それの存在の「仕方」から不断に産み出されるような存在である(p.376)
あらゆる身体は、クリナメン〔偏奇する運動〕、性向、傾向、好みによって触発されるようにして、その〈生の形式〉によって触発されている。(p.387)
私たちの心を揺り動かすのは正義とか美とかではなく、各人がもっている、正しくあることや美しくあることの様態、それの美しさや正しさによって触発されていることの様態である。(p.388)
"sola a sola《独りで独りと》"は親密さの表現である。わたしたちはいっしょになってごく近くに存在しているが、わたしたちのあいだにはわたしたちを結びつける結合ないし関係は存在しない。わたしたちはわたしたちがそれぞれ単独の存在であるというかたちのなかで互いに結ばれ合っている。(p.308)
ヴィトゲンシュタインの「原現象」はひとつの対象ではなく、たんに使用であり、実践であるにすぎず、「なんであるか」ではなく、たんに「どのようにして」にかかわるにすぎない(p.403)
これらは(芸術家たちは)〈生の形式〉の構成の結果生まれた主観的な残余およびヒュポスタシスのようなものでしかない(p.414)
魂は、〈生の形式〉として、わたしのゾーエー、わたしの身体的な生命のなかにあって、わたしのビオス、わたしの政治的および社会的な生活と一致することはないが、それでもなお、いずれをも「選択」してしまっており、それらのいずれをもその一定の混同することのありえない仕方で実践している(p.417)

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