見出し画像

資本主義の歴史(ユルゲン・コッカ)

ユルゲン・コッカは、1941年生まれのドイツ人であり、ドイツ近現代史の大家である。『資本主義の歴史』は、中国とアラビアを前史とした商業資本主義から、現代の金融資本主義まで、「資本主義の通史」をコンパクトにまとめている名著である。読後、印象に残ったのは「資本主義という概念は、相違を表す言葉として始まった」という命題と、「資本主義に代わるオルタナティブないが、資本主義には多様なバージョンがありうる」というコッカの明快な結論である。

現時点では、資本主義に対して、優位に立つオルタナティブの存在を確認することはできない。しかし、資本主義の内部であれば、きわめて多様なバリエーション、オルタナティブを考えることはできるし、部分的には実際そうしたものを見いだしうる。重要なのは、そうしたバリエーション、オルタナティブの発展である。資本主義の改革は終わることのない課題である。そしてそこでは、資本主義批判が中心的な役割を果たす。

ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史』(p.180)

それでは、現代の我々が暮らす日本の資本主義とはどのようなバージョンの資本主義なのだろうか。それを理解するためには、我々が暮らす資本主義が複数の資本主義の「寄せ鍋」であることを理解する必要がある。

第一に、我々の資本主義は、工業資本主義を主としている。ただし、商業資本主義も混ざっている。ただし、全体として工業も商業も、鍋の中で煮込まれている具の一つほどでしかない。
 商業資本主義は、我々の資本主義に含まれているが、決定的な役割を果たしてはいない。「デパートやディスカウントショップ、そして今日の大規模な小売業コンツェルンやチェーン店に至るまで、多くの人々の詳しがことともに変わった」(p.108)のは確かだが、商業が経済のメカニズムの根幹を担う時代は過ぎ去り、一つの産業として成立しているのみである。
 一方で、工業資本主義は、我々の(現代のなかでも特に日本の)資本主義においては重要な役割を果たしている。コッカは「1800年以後の世界で真に革命的で新しかったのは工業化」(p.109)と称している。

第二に、我々の資本主義は、オーナー資本主義ではなく、経営者資本主義である。かつての資本主義では、「親族は、市場での成功の前提条件であり手段でもあった」ために「銀行や証券取引所の助けを借りて資本金を大幅に増額すると事業に対する一族のコントロールが脅かされかねない、と考えられると、同族企業はあえて事業の拡大を断念した」(p.118)ということすらあった。その結果、企業経営は「単なる利益動機を越えた追加的な意味」を持っていた(p.118)。企業が中長期的な目線で経営できていた理由には、企業のオーナーが高々100年しかない寿命を越えたもの(一族・子孫の繁栄)に本気でコミットメントしていたことがあったのである。
 しかし、今やオーナーによる支配は貫徹できない。経営に必要な資本の大きさが過去とは段違いになったからである。また、歴史的には「1980年代における不況への対応として、競争の制限、あるいはその排除をさえ図ろうとする」動きによって、資本の集中が進んだ(p.122)。この資本の収集を進めた著名人対がロックフェラーであり、カーネギーであり、デュークであり、スタンフォードである(p.123)。余談になるが、近代の後半戦において、アメリカの大学を支えてきたのは資本の集中だったのかもしれない。
 こうした資本の集中は、経営の規模拡大と対応していたから、組織の官僚化とも相関していた。「経営陣は、ますます大卒の専門的な経営者が占めるようになった」(p.124)のであり、「学校および実社会で得られるトレーニングに加え、出自を通して得られる文化資本、そしてこれと結びつくネットワーク関係が重視される」(p.125)が到来したのである。
 経営者資本主義は「雇われ企業家(つまり経営者)の成功と失敗が、彼ら自身にとっても他の構成員にとっても、特定の企業ーー「彼らの」企業ーーの成功の成功と失敗に明確に結びつづけてきたこと」(p.126)によって「構造化された無責任」はオーナー資本主義から経営者資本主義の移行だけでは生じなかった。つまり、経営者が「身銭を切る」ことが我々の資本主義を機能させるためには決定的に重要である。

最後に、我々の資本主義という鍋の出汁となっているのは金融資本主義である。金融なしに我々の資本主義は語れない。「金融資本主義とは、生産および財の交換には関わらず、とくにマネーをもってなされ、両替商やブローカー、銀行、証券取引所、投資家、そして資本市場によって営まれるビジネスの謂い」(p.127)である。金融資本主義における資金の出し手は、ファンドの損失を避けるため、「企業の内容や伝統、担い手」にほとんど関心をもたず、「業務指標や市場の敏感なシグナルにもとづいて決定を下し、利益ないし株主価値のみに目を向ける」傾向にある(p.134)。「1960年代にニューヨークで、投資家による株式の平均保有期間は8〜9年だったが、今では1年を切っている」(p.134)。
 したがって、こうしたマネーの動きは、生産のための投資ではなく、「抽象的な行動」(p.134)にならざるを得ず、「きわめて重要な投資の決定が、かつてそれが埋め込まれていたコンテクストから、以前より一層ラディカルに切り離され」る(p.134)ことになる。その結果、金融部門における「構造的無責任」、つまり「決定と、他方における決定の結果に責任をもつこととの乖離をもたらし、その結果、巨額の損失の弁済を国が引き受けることによって(「大きすぎて潰せない(too big to fail)」)マネーの管理者の法外な利得が可能になる」という事態が引き起こされる(p.177)。

以上を踏まえると、我々はあくまで「資本主義」の枠内に立ち止まり、それでも「構造的無責任」を打倒するため、金融資本家が身銭を切る(責任を自ら取る)仕組みをビルトインする必要がある。商業資本主義や経営者資本主義の時代にはそれはできたのだから、決してこれは夢想ではない。そして私たちは誰もが、その仕組みを創る担い手である。資本主義は政治によって軌道修正することもできるのだから。

資本主義は、自身の目標を自身では定めない。資本主義は、多様な社会的・政治的目標に役立ちうる。再生可能性と持続可能性をより高める方向への経済の軌道修正も、もしこれを目標として設定するために十分な政治的圧力と、そして、それに応える政治的決断が動員されうるのであれば、そうした目標の一つになりうるだろう。資本主義は、その社会的・文化的・政治的な埋め込みの土台をそれぞれがどれほど脅かし蝕んでいようとも、そうした土台に依拠して生きている。資本主義は学ぶことができ、そうした利点を民主主義と共有している。

ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史』(p.179)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?