特権的過去の賞味期限

今日の帰り道、親友がこんなことを言っていた。

あれから1年が経ったからさ。もうそろそろ、前を向いて歩かないといけない気がしていて。誰かに言われたわけでもないんだけど。自分で自分に言い聞かせているような。

親友は1年前に、言葉で言い表せないくらい悲しいが、しかしそれ抜きでは人生を語ることができないような経験をした。どれほど辛かったのか、どれほど大切な記憶なのかは、私にも分からない。

一般的に、人間の人生には、それ抜きでは語り得ないような瞬間がある。私はそれを長らく「特権的な過去」と呼んでいる。時間は平等に流れ去る。どの1秒も平等に1秒だ。

にも関わらず、それが過ぎ去って過去になるとき、つまり記憶の中に流れ着いたとき、現在から思い出されるしかなくなったとき、それは平等ではなくなる。先月のいまごろ何を食べたかは覚えていないが、中学のときの初デートも、大学に合格した瞬間も覚えている。きっと、そういうものだ。

そういった、今でも思い出せる記憶たちのうち、いまの自分に決定的な、それ抜きでは人生を語れないようなものを「特権的な過去」と呼ぶ。

それは、ほかの過去と比べて紛れもなく特権的な地位にある。第一に、様々な体験は特権的な過去と比較され、評価される。つまり、特権的な過去は座標軸としての機能を持つ。第二に、特権的な過去は、感情抜きで思い出すことができない。純粋に事実関係だけを追憶することができない。特権的な過去と向き合うとき、陽か陰かはともなく感情が湧いてきてしまう。それを止めることはできない。

人生を歩んでいれば、多かれ少なかれ特権的な過去は溜まっていく。しかしために、あまりに特権的であるため、現実すら無化される過去を持つ人がいる。心理学では、それをトラウマと呼ぶのだと思う。あまりに眩しすぎる過去も現実を無化するという意味ではトラウマだ。別様に呼びたければ、呪いでも構わないと思う。ここでは、特権であるという属性が鍵になるのであって、陽か陰かは問題ではない。

蛇足になるが、清原選手が覚せい剤を打った理由として、「ホームランを打つときの感覚が忘れられなくて」と以前語っていたのが記憶に残っている。これはトラウマであり、呪いである。ホームランを打ったときの感覚が現在のすべてを無化する。虚しさを連れてくる。それに抗うのは非常に難しいがそういう特権的な過去を持った以上、向き合わなければならない。

前置きが長くなった。冒頭のシーンで私が感じたのは、特権的な過去に賞味期限はあるのか、ということだ。特権的な過去とはいえ、過去は過去なのだから、時間が経つとともに記憶は薄らいでいく。その結果、特権的な過去は次第に普通の特別な過去になっていき、思い出されなくなることもあるかもしれない。

しかし果たして本当にそうなのか。特権的な過去に賞味期限が来たのではなく、特権的な過去に賞味期限が来たと自分に言い聞かせて未来を向こうとしているだけではないのか。そうだとすれば、無意識に自分に言い聞かせているのは看過していいのか。そこで立ち止まるべきなのではないか。

私の耳には、そういう問いだと聞こえた。答えはないが、向き合いがいのある問いだ。とても重要な問いだ。そう思ったから帰ってきてすぐ文章を綴っている。

特権的な過去はそれ抜きでは語り得ない。だから、特権的な過去を忘れるということ、特権的な過去を普通の特別な過去にしてしまうことは、新しい自分になるということだ。

逆にいえば、特権的な過去に特権性を付与したままで生きていこうとすれば多かれ少なかれ、そのときの自分のままで生きていかなくてはならない。しかし、特権的な過去は過去である。未来に渡って、その過去を現実化し続けることはできない。だから、その狭間で苦しむことを引き受けつつ生きるという生き方を選択しなければ、特権的な過去をそのまま特権的な過去に保ち続けることはできない。

特権的な過去はそのまま特権的な過去のままにしておきたい。しかし、人生には未来もあるから新しい自分に変わるために一歩を歩みたい。その間には矛盾がある。その矛盾こそが苦悶の正体だと思う。

では第三の道はないのだろうか。第三の道は、きっと来る未来を引き受けられる程度に新しい自分へ変わる方向へ一歩踏み出しつつも、特権的な過去には特権性を付与したまま生きるということだ。そんなことは果たして可能なのだろうか。

分からない。未来のことは誰も保証できないのだから、第三の道に進もうとして実は特権的な過去をただ忘れるだけのルートであることもありうる。そのどちらか事前に予言するのは神でないと不可能だ。

実のところ、その不可能性への恐怖、すなわち、もしかしたら特権的な過去を忘れてしまうのではないかという恐怖こそが、ここで引き受けるべき当のものなのではないかという気がするのだ。その恐怖を引き受けさえすれば、現在の自分にとって第三の道に進む決心がつく。そして、そのあとは未来の自分が第三の道を歩み続けることを祈るのだ。

特に目的もなくここまで書いてきたが、結局のところ、その恐怖の中で一歩踏み出そうとする人の背中を押したいだけだったかもしれない。

かつて私も特権的な過去と向き合い続けたことがある。もう何年も前のことにあるが、その苦闘の中で特権的な過去という概念を得た。そこから導かれた考えを参考になる可能性が1%でもあるのならば共有したい。それがこの文章を書いていた動機だった。

さて、背中を押すにあたって、私の少ない読書量では以下の一節が最良であろうと思う。厳しい道のりだが、道中無事でありますように。そして、未来のあなたが意志を持ち付けられますように。

愛は本質的には、意志にもとづいた行為であるべきだ。すなわち、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。[……]もし自分の行為が決意と決断にもとづいていなかったら、私の愛は永遠だなどとどうして言い切ることができよう。(エーリッヒ・フロム『愛するということ』)

ここでの賭け金は、特権的な過去への愛である。それはフロム的な、意志と決断の愛である。意志と決断の愛だけが、生涯続くか分からないものに対して、生涯続くことを祈って一歩踏み出すことを可能にしてくれるのだと私は思っている。


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