幸福の押し付けがましさ

”幸福”には押し付けがましさがつきまとう。それはただ単に、”幸福”になれというだけではない。幸福について言及した途端、”幸福とはなにか”を定義したことにもなってしまう。

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。(トルストイ, アンナ・カレーニナ 第1編)

幸福な家庭はどれも似たものだ、という一節の暴力性。まるで、幸福には鋳型があって、その鋳型にうまく適合した家庭だけが幸福である、とでも言いたげである。誰が決めたのか分からないその鋳型に合わせていこうとする試みほど、報われないものはない。

トルストイは家族について言及しているが、それはそのまま人生についても当てはまるだろう。幸せな人生とはなにか。自分が幸せだと思う人生に言及することが、そのまま他者に”幸せな人生”の定義を押し付けることになってしまう。たとえ、他者には押し付けられた定義をはねのける自由があったとしても、押し付けられることそのものが暴力性をはらんでいる。

ある人が良いと思っていることが、また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的に個人的な、「〈私は〉これがよいと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは〈一般的に〉良いとされているからだ」という語り方になっているからだ。(岸政彦『断片的なものの社会学』)

幸福の定義を押し付けることの暴力性は、「私がそう思う」という語り方の問題ではない、とも思う。いくら「私がそう思う」という語り方をしたところで、言葉を受け取る側が一般性を嗅ぎつけないとも限らない。

「幸福とは何か」という問いの答えは、それがどんな答えであろうとも反発を避けられません。断定的な答えはもちろん、幸福とは人それぞれのものだといった答えでさえ、批判を避けられないのです。その理由は、「幸福」という言葉が多義的でありながら、他方でその多義性を自ら打ち消し、私たちを均質化しようとする奇妙な力を持っているからです。(青山拓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』)

幸福について語ることが、幸福な人生や幸福な家庭の定義を押し付け、均質化しようとする力を持っているなら、教育の場で幸福について語ることにはどんな意味があるだろうか。なぜこう問うのかというと、教育は何が幸福かという議論から切っても切り離せないからだ。

国家や社会が用意している幸せな人生の鋳型に生徒を流し込むというモデルでは、鋳型をつくるために幸福を定義することから逃れられない。そのモデルのもとでは、多様化が叫ばれているときでさえ、”多様な鋳型”をつくるという話であって、”鋳型に流し込む”というモデル事態を捨てるという話にはならなかった。

一方、教育の目的は、学習者の幸福につながる学習を提供することにある、と定義するなら、”学習者それぞれの幸せ”から出発できるから、押し付けから逃れられる、と思えるかもしれない。だが、この場合でさえ2つの問題が生じてしまう。第一に、究極的には学習者にとっての幸福を教育者側が定義する勇気を持たなければ教育を始められない、ということ。第二に、学習者本人でさえ、未来の自分が何を幸せと定義するかを決める権利を持っていない、ということである。

自分が決めた幸せにとらわれて苦しんでいる人を見たとき、それは本人の意志だから他者は介入してはいけないのか。それは、その人が過去に決めた幸せに支配されているだけだから、いまのその人が潜在的に思っている幸せをともに取り出すのが教育的な行為なのか。

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