ダメでも生きていく

あまりにもキツすぎたので思わずブログを書いてしまいました
きっかけは以下のブログから
https://note.mu/terrakei07/n/n5e8a14dded8d

有料記事なので読まない人もいるかもしれませんが
先日起きた元事務次官のについてです
興味深い視点から日々の出来事について書いてあるだけでなく
毎日更新という超人じみたブログが
月1000円(個別の記事単体で買うことも可能)で見れるので
よかったらどうぞ

この事件でtwitterがざわついたときに頭をよぎったのが
The World(9mm Parabellum Bullet)の歌詞

”手あたり次第証明しよう ひとつの過ちを知らない命のないこと”

だった
知っての通りこれよりもちょっと前にも痛ましい事件があった
その時にもtwitterは色んな言葉と感情で渦巻いてた
中でも一番強い言葉は
「死ぬなら一人で死ね」
で、確かに僕も誰かに殺されたいわけじゃないから
そう思う気持ちはわかる
でもそういう論調が強くなればなるほどこういうことに
なっていくんじゃないかって思った
いや、もっと過激な言い方をするならば
世間が望んだ社会の果てと言えるかもしれない

今回はむしろ同意的で同情的な言葉に目が引かれた
「そのような輩はきっと同様な事件を起こす、
だから親としての責任を果たしただけだ」
つまりそういう存在をリスクとして考え、
関わり合いたくない者としているということだ

でもこれは一部の心ない人たちだけの主張だろうか
実際のところ大なり小なりみんなどこかで
自由という皮を被せた差別をしているんじゃないか
ということを感じ始めてしまった

そういう差別を繰り返していった結果の積み重ねが
こういう流れに行きついたのではないか
とはいっても自分の行いが人の死へと(薄く細くではあるが)
至る道だと言われてもきっと納得しないだろう
「僕は、私は、そんなことをしろとは望んでない」
きっとそのように言うことだろう

確かに人に好かれないような属性の人だったのかもしれない
でも何もそういう人たちにだけ問題があるわけじゃない
強い言葉を使っている人にも、僕にもどこかしらに
ダメな要素はある
たまたま悪目立ちする嫌われやすい属性だっただけの話だ
望んでダメなったというわけでもあるまい
好きで間違いに至ってしまったわけでもあるまい
そして、やはりそうである以上
過ちを知らない命はないのだろう

ではどうすればいいのかということになっても
「誰にでも優しくしましょう、困ってる人には手を差し伸べましょう」
とは言われても無理があるだろう
それぞれの事情に立ち入りたくないし、
されたくもないと思う人が大多数だからだ

最近の流れをうけて、
支援が必要だという声が大きくなってきているように思える
そしてそれは正しく必要だ
でもどうしても行政単位でやるには時間がかかるし
そもそもそういう人たちが発生してしまう環境は消失できない
社会が用意できる根本的な解決策はきっと、(まだ)ない




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