掌編「嚥下」 (2022.9)
蛍光灯は座席のモケット生地から瑠璃色の光を吸い上げつつ、窓ガラスを仄暗い鏡にして、雨夜のバスを外界と切り離された一つの箱にしている。
向かい側の窓辺には一人の老婦人が凝と座っていた。後部の座席にはまた音もなく中年の男性が座っていた。運転手の無感情な声が拡声器越しに響いた。彼らはエキストラに過ぎなかった。
我々は幾つかのバス停を身じろぎもせず見送った。無機質な車内にはビタミンオレンジの手すりが張り巡らされていて、どこか病棟を思わせた。そうして見たとき、煙を噴いて活動するこの薄暗い箱は何かの臓器のようにも思われた。
私はどこへ運ばれてゆくのだろうか。
見通しの利かない街の中へ呑み込まれ溶かされてゆくような気がして、落ち着かず辺りを見回した。向かいのガラス窓に自分が映っていた。
『次、止まります。』二人の乗客が去った。
再びバスが走り出したとき、向かいのガラス窓の中の自分が笑ったような気がした。彼は私を映していたのではなかった。私が運ばれゆくのを暗い街から見守っていたのだ。かくして私がついに呑み込まれんとするのを見て、我慢できずに笑ったのだ。
降車ボタンを押した。私は転がり出るように雨の街へ飛び出した。