掌編「ワンダー・ランド」(2022.6)

 今夜は雪が降るらしい。大雪だそうだ。共通テストは散々だった。槍でも何でも降ればいい。

 雪が降り始めた。
 桜みたいだと思った。本当はそう思いたくなかった。今年の桜は、灰色だろうか。ベッドに倒れ込んだ。窓に背を向けて、顔まで毛布で覆った。

 夢を見た。
 幼い頃、雪の降る日は、眠れなかった。小さな私は、いつまでも窓に貼り付いていた。窓を覗くと、雪が音を吸い込んで、無音の世界から、町の灯が飛び込む。街灯は大きな光の玉を帯びていた。鈍色に照り返す空の下で、田んぼが白く染まっていくのを、飽きもせずただ眺めていた。
 気づけば私は町の中にいた。ワンダー・ランド。雪の町は、どこまでも静かで、優しかった。満天の雪空に包まれて、どこまでも歩いていった。雪の欠片は不思議とあったかかった。あまい香りがした。
 でも、ワンダー・ランドは、夢の国。ワンダー・ランド、そう呼ばれるのは、もう、破れてしまったから。

 雀の声が聴こえた。
 仄かな熱を頬に感じる。朝日が私を夢から醒ました。枕が少し湿っていた。まだ誰も起きていないようだった。今日は、早起きをしよう。処女雪を踏みたい。子供のようにそう思った。
 前庭は小さな銀世界だった。照り映える雪に甘い夢の残滓はないけれど、冷たい現実も語らなかった。
 しゃがみこんで、足元の雪を覗き込んだ。寄り集まった小さな粒の中には、青空の素が溶け込んでいた。ゆっくり目を閉じて、立ち上がった。大きく息を吸った。空っぽの自分に深く深く、青空が沁みこんだ。
 処女雪は、夢の痕。今なら私は、誰の後ろを追うでもなく、それを踏み越えて行ける気がした。

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