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ジューンベリーの木

「この世界に起こるすべてに意味があるんだ!」

という文言は、すっかり使い古され今では聊か軽薄であるようにさえ思えてしまう。

全てのことに意味がある、と結論付けてしまうことは、時として誰かへの救済となるが、時として誰かを縛り付け苦しめるものとなる。
そして時にそれは、怒らないため、或いは悲しまないために、何かを受け入れるための一見積極的にみえるがしかし実は消極的な選択に成り下がってしまってはいないのだろうか。

こんなことを書くと、誰かは怒っているだろうか。いやだが、僕がそう書いたことにも意味があるのか、とでも言って最後は食い下がって下さるのだろうか。

庭の大きくなったジューンベリーの木は、僕がまだ幼かった頃両親が植えたものである。
小さかったらしいそれはすっかり大きくなり、今や隣の家との境を超えようとする勢いである。

あの人は、心を少し悪くしてしばらく経つ。少し、ではないかもしれないが、ここでは少し、としておこう。

食べることや、寝ることもままならない。すべてのことに気力が湧かない。希死の念と戦いながら、今日もなんとか生きている。

連絡が来るたびに、あぁ、よかった。生きていた。とほっとする。
そしてまた会える日は会いに行き、手作りのご飯を持って行く。そういう暮らしである。

この1週間は、久しぶりに我が家で共に時間を過ごした。家を出るだけでも大変だっただろうが、あの人は我が家で猫と僕と過ごすことを選んでくれた。

身体にとっておきにやさしいだろう一緒に夕飯を食べて、話して、一緒に過ごすと、少しずつは元気になっている気がした。でも夜寝て朝起きるとまた、「ほとんど寝られなかった。」と、希死への衝動に駆られながら話すのを聞くことの繰り返しであった。

ある日の午前、庭の木が鬱蒼としてきているから、切るのを横で見ていてくれないか、と誘ってみた。しぶしぶながら、出てきてくれた。

僕が剪りたかった木は、月桂樹だったらしい。はじめて近くで葉をよく見て、ようやく気付いた。剪定しながら、いくらか採って、後で干して料理に使ってやろうと思った。

次に、ジューンベリーの木の実を摘むことにした。なんにもしていないのに、毎年たくさんの実がついている。すごいことだ。

僕は4尺の脚立にのって、高いところの実を摘んだ。あの人は時折キャンプ椅子に腰かけながら、休み休み実を摘んでいた。

お互いにいつ何時も考えすぎてしまう質で、手持無沙汰だとずっと不安になる性分なのだ。お互いになんとなく気持ちの塞いだ日々に、それはとても喜ばしい手仕事であった。

あの人も、少しは風が気持ちよかったんじゃなかろうか。言葉にしなくても、いやしていなかったあのときに、僕たちはそれを共に感じていたのではないだろうか。

ジューンベリーは砂糖と一緒に酒に漬けた。しばらくすれば、美味しいジューンベリーの酒ができるはずだ。ゆらゆらゆらめきながら、少しずつその色を酒にうつしていく様は、ふとしたとき僕たちをどこかへ連れて行ってくれる。

たしかに良い日だった。終わり方だって、よかった。
でも翌日の朝は、変わらず死への念慮で始まるのである。

さらに今日は特別だ。「希死念」と口にしていた言葉が、「死にたい」「早く楽になりたい」へと変わっている。

今日も、ジューンベリーを摘みに庭へ出た。あの人は今日も、休みながらやっているのに僕よりもカゴに入った実の量が多い。今日だって実に、あの人らしい。
だがやはり、家に帰ってきたその顔は浮かばない。絶望という言葉がよく似合うそのままの顔つきである。

ようやく決心をして、近づいて、肩を抱くようにして話をした。生きていてくれたらそれでいい、と伝えるのをやめた。お願いだから、死なないで、と伝えた。こっちが本音だったのだ、今になってようやく、そのことに気が付いた。

お互いに泣いて、鼻水をこすって、ぐちゃぐちゃになって、これでも前に進んだのかはまだ誰にもわからないし、きっとそれは大したことではない。

「明日も生きるよ」の言葉が、いつまでもそのまま保存される保証なんてひとつもないし、では明日から良くなりますかと言われれば、そんなことはきっとないのかもしれない。

だけどそれでも、僕は今日ここにいてよかったと思う。

自分達で会社を立てて、週に1度も仕事になど行かず全部家で済ませられるスタイルで本当に良かったと思う。

3年前、コロナの時代がやってきてカンボジアで新しく会社を作る計画が全部おじゃんになっていなかったら、三重に帰ってきていなかったら、今頃どうなっていただろうと思う。

料理ができてよかった。暮らすということを大事にできる生き方で、ハグが当たり前の文化なコミュニティをつくってこれて、よかった。

どれかひとつでも違えていたら、今日僕がここにいなかったのだとしたら、あの人はもうどこかで既に死を選んでいたのだろうか。明日からのことなど、何一つわからない。わかりようがない。だが、僕がここにいたから、何かが変わっていたのかもしれないのか、

そうだ。
あぁ、あの時ああでよかった。選んでよかった。そうやって意味をつけることができるのが私たちなのだ。
意味なんかない。お前が、そこにいるだけだ。

意味のないはずのものに、意味を見出すことができるのは、おそらく人間存在の特権である。少なくともうちの猫たちは、そんなことに興味はなさそうだ。

正しいかどうかなど知らないが、今夜はそれでいい。それで僕は、今日という日をひとまず肯定したのだから。

そうだ、伸びすぎたジューンベリーの木は、今度剪定しなければ。忘れないようにしなければいけない。覚えておこう。しばらくこんなものを読むことはないだろうけれど、ここに書き残しておこう。

走書き。蚕起きて桑を食む。

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