夏目漱石草枕とフェルナンドペソア

夏目漱石 草枕 (コピペしたら読み仮名もついっちゃって読みにくいのでごめんなさい。https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html これです。)

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするが故ゆえに尊たっとい。
 住みにくき世から、住みにくき煩わずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画えである。あるは音楽と彫刻である。こまかに云いえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧わく。着想を紙に落さぬとも※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)鏘きゅうそうの音おんは胸裏きょうりに起おこる。丹青たんせいは画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさいの絢爛けんらんは自おのずから心眼しんがんに映る。ただおのが住む世を、かく観かんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収め得うれば足たる。この故に無声むせいの詩人には一句なく、無色むしょくの画家には尺※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)せっけんなきも、かく人世じんせいを観じ得るの点において、かく煩悩ぼんのうを解脱げだつするの点において、かく清浄界しょうじょうかいに出入しゅつにゅうし得るの点において、またこの不同不二ふどうふじの乾坤けんこんを建立こんりゅうし得るの点において、我利私慾がりしよくの覊絆きはんを掃蕩そうとうするの点において、——千金せんきんの子よりも、万乗ばんじょうの君よりも、あらゆる俗界の寵児ちょうじよりも幸福である

これと、フェルナンドペソアの書くということについて、

“To write is to forget. Literature is the most agreeable way of ignoring life. Music soothes, the visual arts exhilarates, the performing arts (such as acting and dance) entertain. Literature, however, retreats from life by turning in into slumber. The other arts make no such retreat— some because they use visible and hence vital formulas, others because they live from human life itself.
This isn't the case with literature. Literature simulates life. A novel is a story of what never was, a play is a novel without narration. A poem is the expression of ideas or feelings a language no one uses, because no one talks in verse.”

Fernando Pessoa

なんか言うてることが似てるなと思った。

でもって、松岡正剛さんの千夜千冊の草枕の最後に

 「ところで、最近のぼくの漱石文芸全般の感想について一言だけ書いておく。それは、漱石文学の本質は「癪にさわるとは何か」ということにあるのではないかということだ。いつか「癪の研究」とでもいうものを試みてみたいものである。「癪」とは胸部におこる現象で、胸のあたりがキュッと痛むことをいう。」https://1000ya.isis.ne.jp/0583.html

とあった。なんか、うまいこと言うなーと思ってしまった。


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