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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第6回 第4章 ドイツ語専攻 + 医学部受験の方針決定 (後半)

 父は帰国後医師になったのだが、高校での留学に次ぐ難関医学部の現役合格により、あまりに早く人生の幸運を使い果たしてしまっていたかのように、早死にしてしまった。その2人しかいない子のうち、兄は模試の席次が全国で1桁台のことも時々あった高い成績から言えば医学部に合格できる可能性も十分あったのに、そうではない別の学部に入ってしまったので(あいつはそういう奴なのだ。その後で弟に降りかかる火の粉を考えろよ。あっちっち)、母は残った次男の私に父の跡を継ぐように迫ったのである。「お兄ちゃんは誰にも相談しないで一橋に行っちゃったけど、あなたは母さんの願いを叶えてくれるわよね。あなたの下に弟も妹もいないのよ」
(ひえー。堪忍どっせ。兄ちゃんが将来結婚してそのうち息子か娘ができたら、そっちに頼んでよ)。
 江戸城無血開城を巡る談判のような緊張が続いたでごわす。さあさあ、貴殿が侍ならば逃げ隠れせずご決断めされい。たぶん血圧200突破中。母上の鉄の決意の目を見ていると、これは私としては決して逃げ出すわけには行かないことがよーく分かった。私が次男として、できれば長男の後ろに隠れて安全に身を潜めていたかった仮想城の回りはすでに外堀も内堀も埋め立てられて、その上を輪状に舗装までされてしまっていたのだ。私は兄を呪った。みんなあいつが悪いんだ。逃げ場を奪われたら、あとはヘリコプターでの救出を待つだけであるが、天から縄梯子は下りてこなかった。代わりにお縄頂戴と相成りそうでござる。うーん、医学部っすか? そんな難しいところオレに受かるかな?
 私は祖父と母の前で黙って目を閉じた。
 母はエリート医師と結婚できて、息子も2人授かり、しかも2人とも優秀で幸福の絶頂にあった。ところが、その夫が字の下手な変な医者から話を持ちかけられて2年間だけと約束されて旭川に行ったところから人生が暗転してしまった。夫は死なせられてしまうし、母子家庭となって不利な仕事をして自分と息子たちの3人分の糊口を凌がなければならなくされている。
 私は父が亡くなって以来不条理なまでに不当な苦労の数々を強いられている母の30年後、40年後以降を想像した。もし、兄に続き、このまま私まで我を通して医者になることを拒絶してしまったら、母はどうなるだろうか。
 仮に、さらに、その頼りの息子たちが長じて2人とも母親である自分の期待とは違う生き方を選べば、貧窮になって、寄る辺もない孤独な境遇に陥れられてしまって、と息子としては到底耐えがたい暗澹たるイメージが次々と浮かんできてしまった。息子としては、腹を痛めて産んで育てた実の子たちに裏切られて棄てられ、絶望し、困窮した老母の姿を想像することほど切ないことはない。深い恩のある母を姥捨て山に背負って行くのかこのオレは。
「そんな、できないよ、オレ、母さんが苦しむところ、見てられないよ」
 私はその場に突っ伏して嗚咽したくなった。
 母は今はまだそうなってはいない。私のこれからの生き方次第で母を悲惨な境涯に突き落とさずに済むのだ。私は自分が決して後戻りできない重大な決意を固めようとしていることが分かった。私のおじさんはこれとは違う意味で私が「元服」を迎えた年だ、と言ったが、私は自らの人生の根本を今この場で決定しなければならないのだった。もちろん、母の事情ばかり考えることは適切ではなく、私はまず自分自身の人生を優先的に考えなければならなかった。難しい判断である。
 私は息を深く吸い込んで吐いた。頭の中で私は白の裃を身につけ短刀に手を伸ばす武士の姿になっていた。月代(さかやき)が寒い。暗い部屋の中で、和ろうそくを組み込んだスポットライトが揺らぎながら斜め上から当たっている。じりじりと秒針が進んでいた。漏刻も一滴一滴時を刻んでいた。ぽちゃり。
「して、今は何時(なんどき)じゃ。そろそろクイナが鳴き始める時分ではないか」
 緊張しきっていて、こめかみに力が入っているのに、屋敷の塀の外から豆腐売りの喇叭と声が耳に入ってきてしまった。
「♪ 豆腐〜、油揚〜。プー」
 何十年振りかで聞く音と声である。にわかに調子が狂う。げに人生一寸先はyummyでござるな。
 これではいかん。話を短刀の所まで戻す。この切っ先を自分の手でぽんぽんに刺したくないな。南蛮渡来の仙人掌の棘が指に刺さっただけでも激痛なのだ。もう一度吸って目を開けた。決意は固まった。私は腹をくくった。
「母さん、オレ、母さんを一生命がけで守る。母さんの望む通り、医者になるよ」 
 私は背筋を伸ばして母と祖父に医学部を受験すると約束した。医学部に行こう、医者になって母を安心させよう、と決意したのだ。16歳でここまでの悲愴な覚悟を強いられる例は多くはないだろう。だが、これが私の人生なのだ。それ以外に路はないのだ。それに、客観的に見れば、すでに医師は2代続いているので、私にもその適性はあるのかも知れなかった。もしそうなら、母からのこの時点での強制は歓迎すべき幸運ですらあったのかも知れない。
 こうして、父亡き後、私と兄を体を張って守ってくれている母の切なる願いを実現することが息子たる私の責務となった。
 とは言え、それでも私は強い抵抗を試みた。人生、闘わずして無為に斃れてはならない。私は医学部を受けるとは約束したが、すぐにとは言わなかった。
 私は祖父と母に向き直って反撃に出た。今言わなければ一生後悔することになるだろう。成績が学年で10位以内に入っているし、クラスメートの多くが東大や一橋、お茶の水、早慶などを目指しているし、親友複数からも是非とも一緒に東京に出ようと言われているので、どうしても東京の大学に行きたいこと、しかもその分野で全国トップクラスの大学で子どものころから強い憧れを抱いていたドイツ語を専攻したいことを主張した。母は溜息をついた。
「この子も強情ね」
 しかし、祖父が、「だったら、まず東京でドイツ語を専攻して、卒業したら今度は医学部に入れ」という他の家庭ではまずあり得ない負担の重たい提案をして、母も20秒ほど沈黙してから賛成したのであった。あるいは、母は最初からそのような展開になると予想していたのかも知れなかった(20、19、18、、、)。この場面は、その後何度となく繰り返して思い出すこととなる私の人生の原点のひとつとなった。原点というものは、本来はひとりの人間にとって1つしかないはずであるが、私の場合には複雑で困難な人生となっていったため、複数併存しているのである。
 うちの一族はそれぞれの学校で往々にして成績がトップになっていた。たとえ何かの試験の合格者枠が1名と聞かされても、別に動じることもなく、それが自分自身になるであろう、と泰然としているのであった。そうした親戚の環境の中で育ったためか、私は受験科目も大いに異なる2つの性質の違う難関大学に入るなんて、そううまく行くだろうか、とは少しも疑わなかった。現役で医学部生になっていた父への対抗意識もなかったわけではない。後から振り返ると何とも恐ろしい方針を立てて達成したものである。けれども、それが若ささ、そうさ、そうさ。
 自然言語も高校生も日々変貌を遂げ続けており、一時も静止しない。北海道の高校では夏季休暇は本州、四国、九州、沖縄よりずっと短いのだが、その日数の少ない夏休みを挟んだ1学期の終わりから2学期の始めにかけてのわずか5週間足らずの間に、高校2年生のボクにはこの進路決定と並んで、人生に深い影響を与えかねない重大事件が他にもいくつか集中的に起きた。ボクだけでなく同じ学年の仲間たちも、身長が伸びたり座高が徒長したり靴のサイズが合わなくなったりしながら、1学期とは質的に少しだけ違う、やや大人びた顔つきの高校生として2学期を迎えることとなった。時期にずれはあったが、15歳の最終日翌日と17歳になる前日までの16歳の1年間と大部分重なっていた高2の365日間は、成人の30歳から37歳にも匹敵する中身の濃い日々となった。

第5章 新年の剣道場 https://note.com/kayatan555/n/ndb4cd00fd357 に続く。(全175章まであります)。

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