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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第130回 第99章 強制入部

 中では部員たちが、最近、敢えてフィルムカメラだけを使ったキューバとジャマイカへの撮影旅行から帰ってきたばかりのスペイン語専攻の学生の撮ってきた写真や、お土産の葉巻の箱の前で盛り上がっていた。
「こんな1950年代のアメリカ製の中古車や花の写真なんてもういいから、隠してる方の写真も見せろよ」
「いや、それが、税関で見つかっちゃってよ」
という話をしていたのだった。
 この学生たちは一斉に私の方を見た。人数の2倍の数の目は語っていた。いったん部室に入り込んできてしまったキミ、もう仕掛け網に誘導されてきた鮎のように後戻りはできないんだよ。
 そこから先の展開は誰にでも想像できるだろう。ボクは鳥もちに絡め取られたセミのように、すぐさま4人のしたり顔の学生に取り囲まれ、学生証を写真に撮られ、入部申込書にボールペンで署名させられ、第1回コンパの日時と場所を言い渡されたのだった。
「可愛いコも来るかもよ」
(ここで心が動いてしまった。愚かなオレよ)。
 矛盾した表現を使うが、本人のいる目の前での弁護人同席禁止の一審制欠席裁判である。どんな「判決」だったかは分かるよね。そして、次の月には水道橋に出かけて行くことになった。
 結局ボクの東京での大学生活は、あの1枚の写真で決まってしまったのだった。
 実はその日、少し前までにこういう事情があった。
 あの日、午前中2コマ目の授業が終わったところで、ドイツ人の先生(教授)に呼び止められた。居合抜きと篆刻が趣味という渋い先生である。日本語力は高い。
「あなた確か北海道ですね。お名前が丸原さん、ということは、ドイツ語に訳せばHerr Rundfeld(ヘア・ルントフェルト)ということになりますね。もし将来博士号をお取りになれば、Dr. Rundfeldと呼ばれることになるでしょう。いとこ夫妻が11月なかばに日本旅行に来るんですが、私は行けないので、英会話、ドイツ語会話の練習を兼ねて函館から網走、知床まで一緒に移動してやってくれませんか。例年の経験では、その時期までには少し話せるようになってますよ、ドイツ語。宿泊費・食費・交通費などの実費の他、1日5,000円でやってもらえたら有り難いんですが。もしも引き受けてもらえるなら、その期間をカバーする保険に入ってもらいます。謝礼等は半分は私から前渡し、残りは最終日に女満別空港か釧路空港のロビーで本人たちから精算という条件ではいかがでしょう。もし必要であれば英語の契約書を作りましょう。二人はカヌーのドイツ代表選手で、英語は何の問題もなく操れます」
 参考にと言って、この先生は件の二人が前回のオリンピックで黒赤金3色のドイツ国旗を背景にして撮った写真と帰国後の地元の歓迎会で州の女性首相と笑顔で握手をするもう一枚の写真を見せてくれた。ご立派な親戚ですのう。Können Sie vielleichtとか、Ich hätte gerneという表現を使われてはいたが、これって、断れると思います? 一種のパワハラでっしゃろう。しかし、ボクは答えた。
「先生、光栄です(きっぱり。使命感に満ちた表情)。少しでもお役に立てるように今から準備を始めます」
 実のところ大いに面白そうだと思ったのだ。網走はそれまで一度も行ったことがなかったし、会話力って短期間で見る間に向上させられることができる、という確信がボクにはあった。ホルスタインはホルシュタインと発音するのだろうか。食事も毎日寿司を強く提案してみよう。 
「証言します。世界中でここの漁港でしか食べられない美味しい魚があります」
„Wirklich? Aber Sie haben auch gestern in der gleichen Weise gesagt, nicht wahr?” 
(「本当ですか。でも、丸原さん昨日も同じ風に言いましたよね」)。
 このやり取りで25分ぐらい取られてしまった。欠伸をしながら学食に行ったら、「ラーメンの麺が早めに切れてしまいまして、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」とお詫びの掲示が出ていた。
「何だよー。何日も前から食べたいと思っていたんだぞ、チャーシュー麺。口の中はもう硬めの麺とチャーシュー歓迎ムード一杯だったのに」
 それでもう一度サンプルを見て、グヤーシュという、もっと時間のかかりそうなあまり気の進まない料理に切り替えた。一度も行ったことのないハンガリーにも否定的なイメージを抱いた。その後何年も経ってから、マジャル語には一応文法はあるのだが、例外が多過ぎて外国人に学習を勧める気にはならない、とハンガリー人のジャーナリストから言われたことがあった。この食事の後も不運が続いて、履修科目の開始時刻の関係で、本来なら5分間の差で出会わないはずだった人間と階段で擦れ違ってしまい、そいつになかば強引に付き合わされて夏休みの北海道旅行のお勧め先を20分以上そいつのガールフレンドに説明させられてしまった。ある女子大学の活きのいい子だった。あのコなら将来、それどころか早ければ在学中にさえ、起業に成功してCEOになったり、財団法人の理事長に就任するようになりそうだった。
「美瑛って外国人で混みすぎませんか。林の中のロッジに泊まって毎日昼近くまで寝ていたいんですけど。スーパーはどのぐらいの大きさのがあるかしら」
(はいはい、お二人でお好きなようになさってください)。後で調べてみたら、ロッジはドイツ語ではHütteだった。手稲山にある北大の山小屋はParadieshütte(パラディースヒュッテ)という。
 先生には呼び止められ、昼食は変更し、さらに会わなくてよかった奴に付き合わされたのである。あーあ、何という日だ。図書館に籠もって終日ドイツ語だけに集中していたい。大学図書館はどこも24時間やっていて欲しいな。真夜中の代理司書業務は警備をかねて運動部の学生にひとり月2回までさせてもいいことにする。本もノートもパソコンも置かないで閲覧席でただ寝ているだけのように見える学生には後ろから忍び寄って警策(きょうさく)でぴしっと活を入れさせる。
「いてー」
 いや、これは不当干渉だな。もしも、相手が熟睡しているとばかり思って細長い板を振り下ろしたのに、その学生が、ひたいは机の上に接触させたまま両手をぱっと後頭部の上に上げて、真剣裏白刃取りをしたりしたら恐いな。
「お〜、お主できるな」
(再三の三ヶ月湖症候群発生でござる)。

第100章 テニス部に入れたか https://note.com/kayatan555/n/n165d9203a2db に続く。(全175章まであります)。

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