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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第158回 第124章 緊急手術

 すると、タクシーで追いかけてきてくれたさっきの2人がボクのところに来て抱きしめてくれた。
「大丈夫、大丈夫よ。お父さんはちゃんと助かるから」
「ほんと?」
「またお父さんの笑顔が見られるからね。わたしたち、お母さんが来るまでここにいてあげるからね」
「あーん、うわーん」
 父は声をかけられた時点までにすでに10分近く時間を浪費してしまっていた。あのとき、父が池から上がって来たときにボクがすぐすべきことはただ1つだった。「父さん、ここで待ってて」と言って、駅の方に真っ直ぐ走っていって、誰かに助けを求めることだった。その方角だったらきっと他の方角より人に会える可能性が高かっただろう。だが、ボクはまだ小学低学年だったのだ。何の役にも立てなかった。
 さっきのあの男は一体何者だったんだ。市の職員ではなく嘱託か臨時の作業員だったのか。さらに、それですらない市とは何の雇用関係もない第3者だったのか。そんな誰だか分かりもしないごろつきに父はやられてしまったのか。恐らくこの男は、いかにも育ちの良い容貌、身なりの父とその息子が一目で高級品と分かる帆船模型を抱えて公園に現れた幸せそうな光景を目撃して、我々に激しく嫉妬して嫌がらせをしに来て、父に暴行傷害を働き、船を壊し、さらに父を池に突き落として、さっさと車か自転車で逃亡していったのだろう。一種の通り魔犯罪であった。
 帆船の残骸はどこに行ったのか分からなかった。おじちゃん、おばちゃん、ごめんよう。ぼくこわかったんだよう。
 緊急手術は成功した。執刀医らは、父の腹部に小さな穴を3箇所開けて、そこから手術道具を挿入してやりにくい手術をしたのだが、念のため、小腸を長さ10センチほど短くする必要があった。傷つけられた部位を切除して、両側を縫い付けるのである。この後遺症に父は死ぬまで苦しんだ。いったん切られた腸壁も筋肉も神経も血管もリンパも皮膚も元通りになることはあり得ない。
 顔面の骨に二箇所も穴を開けられたため、念のためその周囲の骨組織も予防的にえぐっておかなければならなかった。主治医の判断で、この手術は腹部の方の4日後に設定された。金属部品の先端があらぬ深さに達していないとは言えなかった。しかも、脳と眼球のすぐ隣りの部位であるため麻酔は強くかけるわけには行かなかった。きょくぶますい、という言葉もボクはこの時覚えたのだ。
「先生、大丈夫ですか、始めますよ」
 口腔外科で、高速回転する超小型グラインダーで、ぐりぐりと骨を削られ、父は痛みに耐えた。1箇所が終わると、すぐ隣の穴にドリルを差し込まれた。キーン。自分の骨や周辺組織が高熱で出す焼けた臭いなど嗅ぎたくもなかった。穴を塞ぐ皮膚はほどなく再生したが、その周辺にも細いワイヤーの傷が何本もついたままになった。端正な父の顔に文字通り傷が残ってしまった。また、肺に隣接する肋骨と鎖骨を傷めたため、呼吸の往復毎に痛みが襲ってきた。何ヶ月も上半身の行動に制約が続いた。傷つけられた側を下にして寝ることができなくなった。
 父は中川家のやり取りが大好きだったのに、テレビを見ていて、気の毒に兄の方が目の大きな弟にド突かれてもうっかり笑うのを避けなければならなくなった。不用意に手術跡を刺激してはならなかったからだ。他のお笑いタレントの番組でもそうだった。湯船に入るのも恐怖の対象となった。臍の穴と手術孔から体内にお湯が染み込んで行かないか、不安が拭えなかったのである。そのせいで、ボクがまだ起きている時間帯に父が帰宅しても、父と一緒にお風呂に入って、電池で動く潜水艦のオモチャを浴槽で上下に走らせる遊びができなくなってしまった。あれ、楽しかったのに。父は兄ともボクとも風呂に入らなくなったのだ。
 池の中にどんな菌が潜んでいたのか分からないが、この日まで何の健康問題もなく頑健だったのに、父は、小腸、下腹部、肋骨、鎖骨、顔面、右腕、右手その他に突然障害を負わされてしまった。右腕の複数の腱にも1年以上経っても消えない痛みが残った。肘も強い力が当たったため、まるで骨に画鋲を挿されたかのような痛みが死去するまで続いた。これを境に、愛、理性、知性、寛容、相互信頼、長期的展望、幸福に満ちていた我が家の運命ははっきりと傾いてしまったのである。その後、脳と脾臓の機能にも異常が現れ、全身の治療跡の症状が悪化していって、いや、もう勘弁してくれ。あの温厚だった父が頻繁に理不尽な経過で、しかも野獣のような目付きに変わって大声で怒鳴るようになった日以降のことは、記憶をすっぽりと封印したまま死んでいきたい。もう父の「晩年」(何と言うことだ。まだあんなに若かったのに)のことは、よほどのことがない限り誰にも話さない。警察には被害届を出したが、犯人は捕まらなかった。

第125章 長年続いた悪夢の夜 https://note.com/kayatan555/n/nf970315f9e4f に続く。(全175章まであります)。

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