見出し画像

『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第111回 第86章 石狩湾硯海岸へ

 時は怠惰かつ確実に過ぎ行き、ボクらはそれぞれが勤務医として就職している病院や、嫉妬されつつのお世継ぎ候補医師として雇われている親の病院や医院、クリニックのある小樽、札幌、幌向、美唄、三笠、滝川、砂川、増毛(Mashike。ぞうもう、ではない。悪しからず)その他からの毎回の長距離ドライブと浜辺での饗宴を重ねて行く。
(繰り返しになるが、ボクらは大学のヨット部OB + OGを中心とする旧友の集団である。それぞれの知り合いが数名ずつ加わっている)。
 クーラーにビールが冷えていて、ワインは各種ストックがあり、おまけに、氷とミネラルウォーターも当日新しいのを持ってきている。海に来られた日が誰かの誕生日に当たっていたり近かったりすれば、冷たいシャンパンを4本も同時に開ける。それも暗緑色の重たいガラス瓶を股にきつく挟んでコルクを順番に発射するのである。撃ち方始め! 海に向かって横に並んだ4人のうち3人までがポンッ、ポンッ、ポンッとリズムに乗って前方に高い仰角を付けて飛ばす。大陸まで届け。さらに大陸間弾道コルクになってスコットランドを飛び越えろ。ところが4つ目のポンッは聞こえない。どうしたのか。コルクが折れてまずいことになったのか。すると、残りのひとりは他の連中とは反対に、ボトル、いやフランスのものだからな、ブテイユ(bouteille)を後ろ向きに挟んでいた。両方の後ろ手で不器用に探りながら、やや遅れて瓶の口部が少し下がりつつある角度で栓を開ける。にぶい音がして、四連発の発射音を楽しみにしていた周囲の我々の調子が狂ってしまう。しかも、中身は見る間にどんどんこぼれて行く。あああ、もったいないぞ、落とすなよ、高価なシュワシュワが砂に消えて行くぞ。コルク3個は波打ち際を往復しているのに、もう1個はどうやらハマエンドウの群落の中に落ちたようだ。
 シャンパンは華やかな幸福の酒だ。いっぺんでいいから、檜風呂にシャンパンを満たして入ってみたい。
 医師は激務である。しかも、能力が及ばないことが多過ぎる。命を助けられなかった患者さんのご家族から悪し様に詰られるよりも、「先生はよくやって下さいました」と言われる方がずっと辛い。静かな言葉の裏に抑え込んだ哀しみ、憤り、悔しさがどれほどであるかが私の未熟な想像力、柔な精神力を超えるからだ。学生時代からの仲間たちの待っているあの海岸に時折赴くことができるからこそ、何とか精神と肉体両方の健康を維持していられる。
「ってゆーか、お前もう立派にビョーキだよ。自分じゃ分かってないんじゃないか?」
「へっ?」
(「だべ?」 近くを旋回中のドローンに片手でぶら下がって営業中の死に神の独白)。
 冬と夏では生活が大違いである。この夏がいつごろまで続くのだろうかという切実な話題は、浜にいればいつでも気軽にそばの誰かに聞くこともできたはずだ。しかし、実際に海辺に行くと、それよりも誰かが持ってきたおいしそうな酒の肴につい気を取られて、ビールの泡を上唇の上に付けては「うんめー」と呻いてしまう。
 横に「うちでさ、小4の息子と小2の娘のために、サバの身をうんと厚く切って乗せて作ってみたら、かえってあまり美味しくなくしてしまったみたいなんだけどさ」と照れながら手製のバッテラ寿司を持ち込んできた父子家庭の奴の遠慮がちな顔が見える。医師だった奥さんは一昨年病没した。多忙で自分自身の検診受診を先延ばしにしているうちに、自分が専門にしていた疾病の第4期に差し掛かっていることが偶然判明したが手遅れとなった。娘さんの小学校入学まで命は保たなかった。娘さんは、「お母さんのにおい忘れていく。どうしてわたしも一緒に死ななかったの? いつも同じおかずなんてイヤだ。お母さんの普通のごはん食べたい」と言っている。再婚するかどうか、難しい問題だ。どちらも茨の道だろう。11年後にこのお嬢さんは医学部生になっているだろうか。
「お母さん、この合格通知見える? しかも特待生よ、わたし、トップ合格だったから。だから、ママ、わたしを褒めて昔みたいにギュッとして」
 バッテラは浜辺の「餌」としては最上等ですよ、ありがたくいったーきまーす。
「あ、うまいわこれ。身の厚さも味付けもどんぴしゃりだ。料理の天才だなお前。頼む、今度もまた作ってきてくれ」
 今は醤油をスプレーできるんだよな、これが。忘年会でジャイアントパンダに扮するときのメーキャップの決め手だな。味噌まで噴霧化するかな? ブリブリッ。減塩ってどっちの説が正しいのか、と患者さんに尋ねられると、現下の学会での論争の概要を解説することにしている。私自身は納豆についてくるタレは、寿司の醤油差しにほとんど移して1滴だけ使うようにしている。

第87章 七輪を前に(1/3) https://note.com/kayatan555/n/nc0d124676b96 に続く。(全175章まであります)。

This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2024 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?