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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第176回 第142章 新任医師登場

 今日は15分早く出勤せよとの指示が出ていた(「キャンディひとり2個ずつあげるからさあ」「それよっか、たまにはきなこ餅の方がいいなあ。あれ、慌てて食べるとむせちゃうけどね」)。それぞれの診療科ごとに小グループを作らされ、立ったまま待機させられていた。頭の中では、御意、という言葉が旋回し始めたが、幸い私の勤務先のこの病院にはそのような文化はない。ドイツの医学界はかなり「民主化」が進んでいるのだが、この国では今後どういう経過をたどって行くのだろうか。
 辺見洋洋洋院長が副院長や事務長ら数人と一緒に現れた。
「お早うございます」
 取り立てて威圧的な雰囲気は帯びていない。始業前の低めの気温の空気に響く素直に気持ちのいい挨拶である。この病院に就職できて良かった。すると、午後9時9分9秒(「スリーナインだど」)以降はすすきののクラブで別人格で炎を吹いているラップが玄人はだしのこの医師が、上機嫌で口を開いた(「オレはYo Yo Yo! 誰が何と言っても病院長!」)。
「こちら新任の先生です、イェー。外科ご担当のセシリア=セシル=木の実・ジェファーソン先生です(Cecilia-Cécile-Konomi Jefferson, M.D., Ph.D.)、イェー」
 出たー!!
「スタンフォードで生化学のPh.D.をお取りになった後、ロンドンを経て、しばらくマサチューセッツにおられましたが、この度、運命の糸に、えっ、魔法にですか、大丈夫ですか先生? 魔法瓶でもちょっと変ですよね、導かれたとおっしゃられて、札幌に永住するために当院に移籍されました。大歓迎であります。先生方、そしてスタッフの皆様におかれましても、どうぞよろしくお願いいたします」
 紹介を受けたジェファーソン、いやさ、セシリアの姐は本心では、「切った貼ったのジェファーソンたあ、あちきのことでござんす」とでも言いたかったのだろうが、まさかそのような啖呵を切ることはできなかった。そこで、無難なごく常識的な挨拶をしてペコリと頭を下げた。一同、キャンディを舐めながら会釈をした(「ああ、今度こそ、きなこ餅にしてくんなまし」)。名前にフランス語も足したのだな。これからは、時々そっちの方の名前を使ってやろうか。
 深い感慨を覚える。あれから何年になるのだろう。出逢ったのが慶応元年(1865年)じゃったから、もうかれこれ150年ちょっとじゃ。わしも年を取ったのう。ガラパゴスっちゃった。
 セシリアは、すでに19歳の医学生の容貌ではなく、ちゃんと医師の面構えになっていた。(「うんと先にはお婆ちゃんになるわよ」「あんた、余計なこと言わないの。ぴしっ、ぴしっ、ぴしっ」)。患者さんたちの体にメスを入れた距離の合計はどのぐらいになっているのだろう。このジェファーソン医師は、他の診療科の方へ院長たちと一緒に歩いて行った。と思ったら、30秒ぐらいして、廊下の角からこちらに顔を斜めにちろりと出した。ゴキブリの触覚と同じ現れ方であった。一瞬遅れて髪が揺れて目に入り、また頭の後ろに隠れた。こらまた何かあるど。防衛本能が働き、ある部分(複数)が縮み上がりかけた(またまたこれで3回目改)が、ゆっくりと自己警戒解除した。
 私に向かってウィンクをして、またもや(都合3度目だ)無音でゆっくりと口だけ動かした。また「TM」か、「SK」は止めてくれよなと思ったら、違うイニシャルだった。
「YT?」
 何だべ? Yeti(イエティ=昔の訳では「雪男」)か?
 すると久し振りに拙者の目にモールス信号が現れた。精神が著しく黄葉、いや、紅葉、こっちでもなかった、高揚するとこうなることがままある。何年かに一度しか発現しない特殊能力である。相手も分かるかな? 同じ能力があれば分かるよな。するとあろうことか、セシリアも目に信号を走らせた。知らなかった。彼女も私と共通の能力を授かって生まれていたんだ! さては、付き合っている間中、太いふさふさした尻尾を隠してたな。ふたりのやり取りは、普通の文字に直しておくと次のようだった。
„Grüß Gott, erkennst du mich noch?”
(おっす、オレのことまだ分かるかい?)
„Ja, natürlich, Herr Dr. Joe Maruhara. Wie geht’s?”
(もちろん、丸原浄先生。ご機嫌いかが?)。
「ワイ・ティーって、どーゆー意味?」
「(やりー! しめしめ)。いやだ、そんなの恥ずかしくて言えないわ。女の私に言わせないでよね」
(「何ですかー? 誰だって気になるでしょう。それに、あなたほどの男勝りの女傑はいないんだからね。都合のいい時だけ女の顔をしないでくれよなあ」)。
「まだ、わたしたち夢の途中なんだから。水道橋で初めて会った日に、あなたわたしに写真を撮られたって思ってたでしょう。違うのよ。あのとき持ってった機器はカメラじゃなくて魔界の特殊装置でね、レンズに当たる部分を相手の顔に向けると、聖紋のあるなしが分かるの。あなたの場合、ちょうどひたいの真ん中にあったわ。滅多に見つからないのよねえ、その場所にある人って。わたし思わず心の中で叫んだのよ。Ja!って。
 それで、すぐに念力でスイッチを入れて、レンズに見せかけていた円形の開口部からレーザー信号を1秒当たり2万回発射して、あなたの脳の中に錨を立体的に描き込んでいたのよ(脳、thank you)。かえしがあって一生抜けない錨をよ。その時に心の中で一字一句間違えないで正確に唱えなきゃならない呪文があって、うまく言えるかどうか心配で、照れ隠しにSay sexって言ってみたの。あの台詞はね、レディングに住んでる従姉妹から、『こう言うと、みんな嬉しそうな顔をして良い写真が撮れるから、あまり気を遣わなくていい相手に試してみなさいよ』って言われていたのでそうしてみたのよ。
 あの子はノルウェー人の血が4分の1入っているの。お爺さんはレジスタンスで、タラ漁船の船倉に隠れて北海を渡って大時化の夜にスコットランドから上陸してイギリスに亡命してきて、飛行訓練を受けて志願操縦士になってドイツ夜間爆撃に参加していたのよ。仲間が何人も撃墜されてしまったの。Willy Brandtと知り合いだったそうよ。
 C.A., non?て書いてあったでしょう、外側に(「スッチーじゃダメか?」)。実在の会社のブランドを僭称しなかったのは、製造開発者の魔人が至って良心的な性格だったからなのよ。人を騙せない性分なのよね。それとも、魔が差した、いや、いつも差してるわよね。さらに、あのクルーザーにあなたが初めて乗ってきた時に、習いたてのトドメの魔法も一緒にこっそりあなたにかけてみたのよ。100年は保つ強力な奴よ。それが、急に波が強くなってクルーザーが大きく揺れて、わたしちょっとよろけて手元が狂ってしまったの。それで、魔法があなただけじゃなくて、予定していなかった自分自身にもがっちりかかってしまったの。いったんかかったら、魔法の台詞を2人揃って夫婦漫才のように12分間唱え続けないと解けない仕組みになっているのよ。けだものどこですか、けだものじゃないし、みたいにね。あれがまだ両方に効いているのよ。だから、わたしたちふたりは何年、何千キロ離れていても、どういう経過をたどっても、今日ここで再会する運命になっていたのよ。桁が多くて長年時計の左右にはみ出していた秒読みカウンターは、そのうちに枠に収まるようになっていって、さらに桁が減っていって、さっきロビーで紹介されるときについに0.00になったわ」
「へっ、それじゃ、水道橋から後のこれまでのオレの人生全部夢だったってわけ? どういう魔法かけたんだ」
「この人、私だけのものになりますようにって(えへ)」
「オレ、誰のものにもならないよ」
「そうかしら。さっきので魔法が完結しちゃったから無理じゃあない?」
「へっ?」
「あなた、どーゆー意味って訊いたでしょ。あれだったのよ。相手の口癖のひとつを言わせれば、それで魔法のスペルの最後尾がガチャンと完成するのよ。どういう意味って訊いたらまだ漸近線ぎりぎりで未完成だったのに、惜しいことしたわね」
「でも、魔法なら、解く方法あるよな」
「そう。あるわよ」
「じゃあ、すぐに解いてくれ」
「それがね、そのメモが3回目にクルージングに出た時に、葉山近くの海に飛んでっちゃったのよ。あなたが急に背中からわたしを抱いて(かつらの上から)キスをしたからよ。やーらしー。ちっとも浄じゃないわね、あなた。(だって、あっしは『汚』ですもん)。わたし、手元が一瞬緩んだ隙に、紙切れが指の間からマリーナの風に乗って行っちゃったの。だから、こうなったのはみんなあなたのせいなの。あの紙はひらひら舞っていって、あまり見かけない鳥の群が急降下してきて奪い合いを始めたんだけど、その瞬間に海の中から何か大きな生き物が跳び出してきて、その何羽か全部をすっぽり飲み込んでしまったの。あの化け物の胃袋に魔法のメモも一緒に入っちゃったんだわ」
 ふたりのこのやり取りは、途中のどこかからか音声に切り替わり、さらに日本語に移っていた。
(危なかったわ、今わたしこの人のこと、うっかり丸原先生じゃなくてXxXX・ムーンって呼んでしまうところだったわ。水道橋の合コンの時、あら、この人どっかで見たことがあるわと思ったのよね。そう昔でもなかったはずよって少し記憶を辿っていったら、では次は札幌からのニュースですって、高校の卒業式の仮装場面が出た時のあの顔だったのよのね。あのとき私、閃いたの。脳の中に100万ボルトの啓示が轟いたの。それまで逆ナンなんて真似一度もしたことなかったのに、これはまさしく一生でたった一回の運命の瞬間よ、ジャジャジャジャーンよって。それで、渾身の思いと呪いを籠めて声掛けを決行してみたら、これが大成功だったのよ、万々歳!  思い出しても血圧が上がるわ、わたし。顔も火照ってくるのよねえ。でも、このことは、死ぬまで浄には言えねえ、言えねえ。もしも子どもが生まれたら、母親の特権で、パパには内緒よって話してみたいわね。誰かに一回言いたい、言いたい、危ないことほど言いたいものよ(余計なことほど聞きたいものよ。大事なことほど忘れるものよ。ことほどさようにはかないものよ)。息子なら母親の私が言って聞かせれば、しっかり秘密を守ってくれるだろうけど、娘だったら、あのね、パパ、ママがねって。どうも女の子は危なそうね。だって私がそうだもの)。

第143章 ふたりの医師、ひとつの意思へ https://note.com/kayatan555/n/ne4b58ef42c95 に続く。(全175章まであります)。

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