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生活がすごい

生活がすごい。僕の生活がすごいのではなくて、僕の中で「生活はすごいな」という気持ちが燃えている。静かな、高さがなく横に広い、紫色の炎だ。

知っている人は知っている

生活という活動がやばい、というのは、かなり有名な話だ。「何かをする」とか「何かに打ち込む」と考えていった時、誰がやるのかと言うと、それぞれの私(主体)がやるのだから、その私の人間のあり方が重要になるのは当たり前で、日々の生活で人間のあり方が作られる。

1日2時間だけ何かに打ち込むとしよう。他の22時間のありかたは、その2時間に影響ないだろうか?多くの場合、あるだろう。たとえば僧侶のことを考えてみてほしい。24時間僧侶として生活し、その生活全てが連動している。ほうきで庭をはいているだけだとしても、「どんな人間の生活の一部としてこの掃除時間が存在しているのか」という設定がなされているだけで、その時間の経過はぜんぜん意味が違うものになる。

みんなが僧侶とかではない

僧侶や魔獣、作家や詩人、アスリートや信者というのは、比較的生活全てをその立場として心がまえることがやりやすい。スタートしやすいというべきか。いっぽう多くの人には、「私はこういう姿勢のこういう人間として生きる」という指針がない場合も多い。

だが、そうじゃない人にもそういう概念があるはずだ。「僕は香山哲だ。香山哲としての生活を、香山哲らしくしっかりやるぞ」と日々考えている。肩書やジャンルと違って、分からなくなることも多い。答えもない。だけど似た理想をもつ人とヒントを引き出しあって生活を調整できる。

自信と規律

24時間を自分らしく生活し、自分の人生の主人公としてやってるぜ!って感じの人には、自信と規律があるように思う。それはそれぞれどんなものだろうか。

自信

セルフコンフィデンスという概念がある。日本語の「自信」に対応するが、強く堂々としている状態を意味するだけではない。

なにか戸惑うようなことがあったり問題が起こっても、「自分は自分として生きている限り、自分の最善を尽くせるはず」という安心や余裕を持っているような感じがある。それは揺らがない土台とかブレない軸、ってことだけではない。戸惑いや問題に翻弄されて、もし間違えたり傷ついたりしても、「自分らしくあった結果なんだから、これが私の人生だ。」と自分の対処を許せたり愛せるような気持ち。

規律

僕が思う「自分を信頼している」という状態は2段構えになっていて、「(自分の持つべき理想を決めた)自分を信頼している」というのと「(その理想をベスト尽くして追い求めている)自分を信頼できてる」という2つがある。この2つめは別に厳しさや求道精神に満ちていなくてもよくって、むしろ僕には、ゆるさがとても大事に思える。

たとえば「今日はだるいから学校休んじゃおう。今月あと3回ぐらいかな」とか。がっちがちの法律みたいなルールに従うよりも、こういう「どこまで許すか」というほうが難しい。だから1つめの「どんな理想を持つか」という部分が大切になってくる。

自分が思っている「自分らしさ」の箱から飛び出さないように自分を律していくのは個人単位でのディシプリンだと言えるだろう。実際、自己規律や自己支配を意味してこの語が使われるのをよく聞く。

その2つ

セルフコンフィデンスとディシプリンがしょうゆわさびのような感じでブーストすると、ただの生活からもすごい主人公感が出る。5歳でも17歳でも50歳でも、なんかそういう人をよく見かけるので、分かるようになった気がする。自分を許せてる余裕部分が大きくて、幸せそうな感じもする。

滅私

今まで書いたような生活時間の過ごし方の逆、自分を殺すような過ごし方をしたことがあるだろうか。僕はある。たとえば小中学校で不本意な時間を過ごし、それを仕方ないと諦めたり、自分の人生を自分らしく過ごせていないことを「我慢する時間が24時間のうちに一定部分ある」と認めてしまうような経験だ。

あるいは「こうすることになっているから」「こうしないと不安だから」という理由で、自分の意志とは異なる姿勢を持ってしまったり。そういうことが二十歳ぐらいまで結構あったように思う。

自分を生きている/自分を殺してしまっている、という2つは、きっぱりどちらかになるわけじゃない。すこしどちらかに寄ったり、日や場面や活動内容によって変わったり。あるいは自分でいることができない時間に精神の奥底でだけ、しっかり反抗する気持ちを持って過ごせている時もある。いろんな状態がある。

最後の段落

時には自分らしさを薄めて、より誰でもない人間として動くことが自分らしい生活になることもあるだろう。これは単純な話じゃないなと思う。電車に乗る、傘をさす、お昼を食べる。それを僕は自分らしくやるが、時に自分らしさを薄めてやる。その全ての選択が、集積して自分の生活になっていく。

色んな文化圏の色んな人と接したり話したりして、自信と規律がすごいあったり片方だけ強めだったりする人もいた。僕にも僕の「これぐらいあると、こういう感じの生活になるな」というちょうど良い水準がある。

漫画を描くとか、文章書くとか、全ては生活の中の1つの結晶化した部分でしかない。全ては生活が源泉となっていて、そこから生まれる。生活というのは、すごい…。

おわり…。

(このテーマは「すこし低い孤高」に関係があります)