見出し画像

2022年5月7日の日記

この映画を見た、俺はこの映画を知っている、この本を読んだ、俺はこの本を知っている、この曲を聴いた、俺はこの曲を知っている、この詩を創った、俺はこんな事を人生で考えている、それでこの日記を1日の終わりに書いた、という輪郭のないものだけでおれは糞な現実を薄めているのだ。それしかないのだ、社会的に世間的に優位な人間より、本当に優れているのは自分だと思い込むためには。これこそが卑屈な選民意識だ。これだけが俺を救う。現実を希釈できるほどの、観念的な何か、それこそが。映画や音楽や文学や薬で、形のないものだけに流されて、エレクトして、自分の知らないうちに死んでいたいのだ。しかし、しかしだ、近頃の俺と言うのは、その音楽だとか映画だとかに対する感受性も擦り切れてしまったのだろうか、まるで霧がかかったように、何も感じなくなってきているのだ、こうなるといよいよ文章が書けない。じゃあ死ぬしかない。そう思うから死にたいのだ。だったらなぜ性欲が消えない?なぜこうなってまでマスをかくことは忘れない?俺という人間の中心はそんなにも性欲と近接しているのか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?