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ミュージカル イザボー感想

イザボー(東京公演)を観たので感想。
当然ネタバレありです。

解釈とかはちょっと、1回見ただけでは考えきれてない部分が多くて円盤買ったらまた追加するかもしれないんだけど、とりあえず忘れないように……。

100年戦争に関してはほとんど知見がなかったので、若干の予習はしてから行きました。
「これがイザボー・ド・バヴィエールの人生で最強だぜ!!!!!」って感じでなかなか楽しかった。


※以下文中〈〉はパンフレット等からの引用、「」や""は要約や記憶頼りなので原文ママではない部分があります

元気が出る悲劇

出演者や演出家の方たちが言っていたように、あらすじや台詞だけ文字で追った時と実際に観た時の印象がだいぶ違うんだろうなというのは確かにすごくあった。
思っていたより曲調がロックな感じ(音楽的にロックに分類されるのかはわからないけど)だったし、全体的に弾けてた。

ある程度予習したとはいえ、100年戦争絡みの話をほぼ履修していない私でもついていけるか不安はあったが、登場人物を絞っているせいか筋書き自体はかなりスリムにまとまっており、話がややこしすぎて僕わからないよドラえもん〜!ということはなかった。

予習とのギャップ

意外だったというか、予習したときと印象が違ったわ、その視点はなかったな、という点が3点。

一つ目は過去軸にいるプリンシパルが集まった時の雰囲気が思ったより殺伐としていなかったこと。身内感があるというのか。
政治闘争の印象が強すぎて思い至らなかったんだが、そこで初めて「そういえば身内感も何もこの人たちだいぶ親戚の集まりだよな」という事に気がついた。
内訳がイザボー、その叔父のブルゴーニュ公フィリップ、そのフィリップの息子ジャン、そしてイザボーの夫シャルル 6世と、シャルル6世の弟のルイ、なので。

そう考えてみるとけっこう納得がいく距離感ではある。
剃りが合わない姻戚がいたり、価値観の合わない"ジジイ"がいたり、でも姻戚や親族だからなんだかんだと関係は切れずに続いており……みたいな。
(まあ、そのうちその"身内同士"で血を洗う事になるわけだけど)

二つ目がイザボーの「子供を失った悲しみ」にフォーカスしていた点で、これは私が予習段階では「まあ、昔の子供の生存率ならそんなもんか」で流してしまっていた部分だった。

イザボーは劇中ではっきり子どもを亡くしているシーンが出てくるわけではなく、というかそもそもシャルル7世以外は生まれるシーンも無いので、予習していなければ子供が何人いて云々、みたいなセリフのたびに「いつの間に」となっていたかもしれない。
しかし二幕のヨランドとの会話で、子供を失う事に対して他人には簡単に推し量れない本人なりの悲しみや克服(というより諦念かもしれないけど)があったのだろう事が描写されている。
ただ、我が子を亡くすことや政治の道具にする事に対して、長い年月のあいだに単純な悲しみや痛みや罪悪感は通り過ぎてしまった。だから一見矛盾して見える、子供に対する容赦ない「利用」と「それでも可能な限りの幸せを願う事」が奇妙に同居している。そんな印象を受けた。

そして三つ目、前提として夫のシャルル6世は狂ってしまい狂気の王と呼ばれる存在だが、一方でずっと狂っているわけではなく、たまに正気に戻る。
このあたりは予習で知ってはいたんだが実際に舞台上でやられるとけっこうしんどかった。
ずっと狂っているより、周りも本人もきついかもしれないと思わされる。
正気と狂気の狭間を行き来するシャルル6世は見るからに苦しそうで可哀想だし(上原さんの演技がうまい)、相手をするイザボーの目に見えて疲弊していく様子には現実の介護や看病の問題を彷彿とさせる生々しさがあった。
(なお、シャルル6世がイザボーのことを認識できなくなり「お前のような女は知らない」と言い放つのは、序盤は単に狂気の表現なんだが終盤はきっとイザボーが変わった事へのダブルミーニングなんだろうなと感じた)

イザボーの造形

主人公のイザボーは誰もに対して悪態をつき、嫌味や皮肉を放ち、怒りを剥き出しにするのに、なぜだか不思議と誰のことも心の底からは憎んでいないように見えた。(ヨランドが言ったように、敵は常に特定の誰かというよりも「運命」だったせい?)
時に他人に対してものすごく非情な態度をとるのに、実際はかなり人間的な感情がある。言いたいことは全部相手にぶちまけちゃった上で最終的には情が残る感じ……?
そんな印象だから、トロワ条約締結も、復讐というよりはイザボー自身や家族が国という縛りから解放されることや、生き残ることが目的だったのかなみたいに解釈している。が、このあたりあんまり自信はないので、Blu-rayが出たら見返したい。

この作品の登場人物はおしなべてそんな感じがするが、特にイザボーは基本なところがだいぶ俗っぽく、言動の思い切り具合に比べると生き方それ自体は、例えば「ひたすら理想だけに生きている」だとか「復讐のためだけに身をやつす」だとかそういう振り切った「極端さ」みたいなものがあまり無いように思えた。
極端で徹底した存在ではなく、時に流されていたり不条理だったり場当たり的だったりする。人間そんなに完璧にはやれないし徹底はできない、みたいな。

狂気に堕ちたシャルル6世とフランスを守るためには自分が変わらなければならないと決意する。だからブルゴーニュ公に好き勝手させないために、王弟オルレアン公ルイを愛人にして味方につけ、王の全権を自分が肩代わりする。

オルレアン公ルイが暗殺されるとルイの敵討ち、かつ自分たちに仇なしたことへの意趣返しのためにルイの妻ヴァレンチーナとともにジャンと対立する。

そのジャンに王を好き勝手させないために、愛しの国王を保護(という名目での実質誘拐)するが、その後は生存戦略のために敵対していたジャンと組む。

ジャンが暗殺されると、手を引いた実の息子シャルル7世に思わず「お前はシャルル6世の子ではない。だから正当な王太子の資格はない」と言い放って決裂する。シャルル7世の実際の父親は、イザボー本人にも解らないにも関わらず。

行動だけ並べると「お前はいったい誰の、何の味方なんだ」という感じに見えてもおかしくないんだが、
実際のところ行動原理はだいたい「大切なもの(夫とかフランスとか)を守る」とか、「生き残るためにやむなく」とか、あるいはもっと単純に「舐めた真似されたからやり返してやる」みたいな感じなので、かなり人間味があった。

本人的には国や王を守りたいだけだし、何か大きく行動するときにはもちろん理由があるんだが、それゆえに俯瞰で見ると右往左往しているように見える(し、それが劇中で「本能のまま生きた」と語られている由縁のような気もする)。ただそれが必死に生き抜くという事なんだろうなと。

この作品は、キャラクターのなかに明確な悪役を作ろうとしていない感がある。
ただ「悪役はいないが、同時に手を汚さずにいられた人間もいない」という感じで、例えばそれまで中立な語り手に徹していたヨランドもいざ本人が話に「登場」するや裏で謀略をめぐらせる油断ならないイザボーの敵になり、語りを聞く者として観客に近い視点にいたシャルル7世もジャンの殺害に関しては潔白とは言えないわけで、途端に生々しくなってしまう。
そういう意味では主観的には「幸せになりたかっただけ、必死で生きようとしただけ」なのだろうイザボー自身も時には自ら火種を撒いた元凶のひとりと捉えられて不思議ではないんだろうし、しかしそれ踏まえ結論としては「なんとでも言いなさい」なんだろう、と思う。

フランスはひとりの

フランスはひとりの女によって滅ぼされ
ひとりの少女によって救われるだろう

作中で何度も出てくるし、演出の末満氏の発信するものを見るに元々この文言との出会い自体が出発点なのかな、という感じもする。
ただ、作品自体がこの文脈通りに描かれているかというとそうではないと思う。
印象的だし魅力的な文句なんだが、ただおそらくイザボーの人生を物語るにあたり、この文句だけが一人歩きしていくのにどこかで「待った」をかけなければならなかった、「そんな一面的なものではない」という事を言わなければならなかったんじゃないかと特に終盤の流れを見ていて思った。(そしてその役目を与えられたのが主にヨランド)

物語は物語である以上は必ず語り手がおり、語り手がいる以上、語り手が設定した文脈やテーマのなかに、語り口は誘導・集約されていく。
物語にはそういう力が働くが、実際の人間の人生はもちろんそうではない。
だからイザボー・ド・バヴィエールの人生を表現するにあたっては、〈フランスはひとりの女によって滅ぼされ/ひとりの少女によって救われるだろう〉という言説の後ろを黙ってついて行くのではなく、それを超越しなければならなかった。

だからイザボーは周囲や後世の人間の評価を一蹴し、「私は生きた」と歌い「これが私の人生」と言うことになる。
印象的な定型句や歴史に残った事実ではなく、「私は生きた」というそのことだけが真実であると主張するために。

人の一生はキャッチフレーズや物語では無いという事を「物語」で表現しようという試みは自家撞着のようにも思えるが、だからこそ役者の生身の身体によってテキストを超えて表現することができる舞台向きのテーマだったのかもしれない。

2024.02.13