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愚直に目の前のことだけをやっていたら、いつの間にかすべての夢が叶っていた話

0.はじめに

気付けば、社会人生活も24年目を迎えている。

やっていることや会社は転々としているが、すべてに共通した芯は通っていると思っている。

そろそろ自分の社会人生活を一度整理をしておいた方が良いと思い、noteに綴ってみることにした。

長文になってしまっているが、これはまだダイジェスト版のつもりだ。

個々のエピソードや考え方、ノウハウ的なものについては、別途noteにアップしていきたいと思う。

0-1.広告業界への夢

広告業界で仕事をしたいと決意したのは、中学校3年生のときだった。

当時、祖母に「将来は広告やマーケティングの仕事をしたい」という話をしたら、どうも理解が出来なかったようで「スーパーマーケットのチラシ広告を作る仕事」を目指していると思われていた。

ある意味間違ってはいないのだが、そのくらい下関という田舎ではあまり理解されていない仕事だった。時代的な要素もあるかもしれない。

こうやって中学3年生の時のことを振り返ってみると、夢は叶っている。

大学入試も、広告の仕事に就くために親和性の高そうな学部を受けてみたり、大学では新聞部に入部し、ミニコミ誌の記事を書いていたりと、なんとなくだが、広告業界に繋がりそうなことはやっていた。


1.大新社編


1-1.就職

新卒で入社した会社は、大阪の大新社というところだった。

メインとする事業は新聞折込の求人紙の発行だったが、他では女性向けのフリーペーパーの発行、消費者金融の連合広告紙、チラシ作成などもやっている会社だった。

会社設立から20年。社員数は120名くらいで、そこそこの規模の会社だった。今思えば「そこそこ」という表現はとてもしっくりくる。

そこで女性向けのフリーペーパー「Pretty Life」の編集部に配属された。

広告業界の会社はいくつかに分類されるが、その中でも「媒体社」に行きたかったし、やりたかったのも編集の仕事だった。

編集の仕事に関しては東京が圧倒的に選択肢も多く、関西でその仕事に就くのは本当に狭き門だった。

当時「Pretty Life」は創刊から1年も経っていない歴史の浅い媒体だった。

1周年を迎えるタイミングで、月1回から月2回に発行数を増やすことを考えており、ちょうど編集部に人員を増員する必要があった。

どうしても編集部に配属されたかったので、新卒研修中に会社の役員に対して「自分がなぜ編集部に入りたいのか」「自分は何が出来るのか」という手紙を書いて出していたのが功を奏したのかもしれない。

もしくは研修中に行った営業のロールプレイングの結果がボロボロ(緊張し過ぎて名刺交換も出来ない)だったので、こいつに営業はさせられないと思われていたからかもしれない。

いずれにせよ、社会人のスタートは念願の仕事に就けるという、上々の滑り出しだった。

1-2.営業部へ異動

編集の仕事をはじめて半年くらい経った時に、求人広告の営業部への異動を言い渡された。

理由は「声が大きくて元気がいいから」(笑)

実は声を大きく元気にしていたのは意図的で、そこにはちゃんとした理由があった。

20人いた同期のうち16人は営業に配属されていた。お互いを意識し合い、売上成績を競い合っている、そんな会話が頻繁に同期の中で行われていたが、自分は編集のため、その輪の中に入る事が出来なかった。

ある日の飲みの席で、お酒に酔った同期からこう言われた。

「俺らは毎日しんどいねん」
「売上ノルマがなくて、編集の仕事は楽でええよな」
「俺らは会社の売上を取ってきてんねん。お前は何もしてないやんけ」
「営業に向いてへんから編集に行かされたんやろ?」

言われた事よりも、編集と営業だと同じ土俵で競い合うことができないのが悔しかった。

唯一同じ土俵に立てるのは「挨拶」だけだったので、ここで同期で一番になろうと思った。

出社と退社の時には会社の入口で直立し、「おはようございます!」「お先に失礼いたします!」と大きな声で挨拶をし、深々とお辞儀をしていた。

そして、これを見ていた社長に「あいつに一度営業をさせてみたい」と思わせてしまった。

営業の仕事だけは絶対にやりたくなかった。

念願の編集の仕事から離れてしまうというのもあったが、何よりも営業には向いていないと強く思っていた。

極度のあがり症だったのだ。見知らぬ人に道を尋ねることも出来なかった。

しかし、何も挑戦せずに終わるのは嫌だったので、配属後はひたすら営業を全力でやった。

最初の1ヵ月の売上は0円だった。

特別なことをせず、ただ愚直に飛び込み営業を続ける日々を続けていた。

努力は裏切らない。

5ヵ月後には同期の中で売上トップになり、本社の営業部でも3位の売上成績を残した。

そのせいで、自分の夢だった編集の仕事には戻ることが出来なくなった。

売上成績の良い営業をわざわざ営業から外す理由がないからだ。

頑張って成果を出せば出すほど、自分のやりたい事から遠ざかっていく。

とても皮肉なことだな、と思った。

1-3.快進撃

社会人2年目を迎えても、快進撃は続いた。

営業をやっていた人だと分かると思うが、誰しも調子の良い時期はあるもので、配属5ヵ月後の成績もまぐれでは?と思われていたが、それはずっと続いた。

営業に配属されてから1年半後には、一段飛ばしで営業副主任に昇進した。

もちろん同期の中では一番のスピード出世で、社内のポジションとしても支店長の次。横並びで同じ副主任を務める人は50代のベテラン営業マンで、なかなかそのポジションに就くのは容易ではなかった。26歳という年齢、しかもわずかな営業キャリアで副主任になったということもあり、自分のことを鼻高々に思っていた。

鼻はどんどん高くなり、そしてそれは自分を天狗に変えていった

1-4.これからの時代に向け、退職

天狗になっていたものの、どこか冷静な自分もいて「これで満足していいのか」とも思うようになっていた。

この頃はIT革命という言葉があちこちで言われていた時代で、これからはパソコンやインターネットが生活に欠かせなくなるようになると、誰しもが思っていた。

パソコンを学びたい、でも独学では無理だと思っていた中、「職業訓練学校」のことを知った。同期が退職後ここに通っていたのだ。

「これだ!」と思い、大新社を退職することにした。

社長からは「熱病にでもかかったのか?」と引き止められ、同期からは「ようやく手にしたポジションを捨ててまで...もったいない...アホやな」と言われた。

職業訓練学校に入るためには試験が必要だったので、しっかりと試験勉強を行った。

試験に落ちたら実家の下関に帰ろうと決めていた。下関でやりたい仕事はなかったが、これが試験に対する自分の覚悟だった。

次のチャンスはない。次のことを考えるのは甘えだ。

そういう覚悟で勉強したおかげもあり、試験には無事合格した。

1問だけ試験問題を覚えている。

「Windowsを出している会社は?」の問題に対しての選択肢がマイクロソフトとソフトバンク。

どちらなのか、頭を悩ませた(笑)

こんな試験問題が出てしまうくらい、皆がITに疎い時代だった。


2.職業訓練学校編


2-1.職業訓練学校(ポリテクセンター関西)

職業訓練学校には失業保険をもらいながらの極貧生活の中、半年間通った。

前半の3ヵ月はWindowsのOutlook、Excel、Power point、Access、Visual Basicなど。後半の3ヵ月はUNIXのサーバー構築。

卒業の課題発表はAccessを用いた、国勢調査のデータ集計ツールを作った。

職業訓練学校で一番学びたかったのはデータベース構築で、この時の経験は後々活きてくることになる。

やりたい仕事もより具体的になってきた。

「IT系の広告会社で、データベース構築」を行うデータベースエンジニア。

そしてこれは後に叶うことになった。


3.リクルート編


3-1.リクルートに入社

就職活動は関西の広告関連の会社に絞って行った。

ここでも覚悟は決めていた。

納得できる会社に入る事ができなかったら下関に帰ろう、と。

自分の故郷は誇りだし、大切な家族・友人もいる。そこを捨ててまでも、行った方が良いと思えるような会社に入らなけば、関西にいる意味がない。

営業でのスキルが活かされたのか、自分自身を商品として売り込むのは得意だったようで、内定は13社からもらった。面接をしたのが14社だったので、かなり良い成果だったと思う。

その中で就職はリクルートを選んだ。

マーケティングシステムディビジョンという部署で、聞いたこともない事業だったが、ITやマーケティングに関連する仕事だったので、ここに決めた。

雇用形態はリクルートでA職(アルバイトのA)と言われるものだったが、一般的に言われるアルバイトとは違い、いわゆる契約社員だった。

内定をもらった13社の中には、数万人を抱えるような某大手企業の正社員もあったが、自分が一番成長できそうな会社で仕事がしたく、雇用形態や安定は求めていなかった。

その大手企業の内定をお断りした際には「50代になれば、17時退社で年収1,000万円は貰えるような会社なのに、断るなんて...。今、あなたがした選択は一生後悔することになる。」と言われた。

それから20年近く経ったが、今でも全く後悔はしていない。

3-2.挫折と苦悩

リクルート入社後は順風満帆とは程遠く、とても苦しんだ。

大新社で天狗になっていた自分の鼻を折りたいという思いもあったので、そういう意味では良かった。

社会人としては1年間のブランクの後だったので、就職というよりは社会復帰という言葉の方が合っていたと思う。

昔、運動部だった人が長い間スポーツをやっていないと、「自分の頭の中で描いている動きに体が追いつかない」というギャップが生じる。そういう感覚だった。

飛び込み営業は怖いもの知らずだったのに、ドアのノックや足を一歩踏み入れることに躊躇する。商談の場についても言葉が出てこない。

営業のやり方ってどうだったっけ?と分からなくなっていた。大新社時代の輝かしい自分は死んだ、と思った。

生まれてはじめて、営業のマニュアル本も買った。何冊も何冊も読んだ。

3-3.リクルートから分社し、ネクスウェイに

2年半経ったころに雇用形態はCV職(キャリアビュー職)になった。

CV職とは1年契約で、最長3年間まで働くことが出来る。さらに契約満了時には退職金がもらえて、次のキャリアに向けて羽ばたきなさい、という制度だ。

3年という期限がついたため、3年後の自分のキャリアも視野に入れて動く必要がある。やはり、どうしても広告の仕事をしたかったので、3年後は広告の仕事に就こう、そう決心した。

CV職になって1年半経った時に部署がリクルートから分社し、独立することになった。

社名はネクスウェイ

離れる人、残る人さまざまだったが、残ったメンバーのモチベーションは最高潮だった。そして分社という、とても貴重な経験もさせてもらった。

会社はより身近なものになった。

会ったこともない人が社長で、知らない人がたくさんいる会社よりは、話したことがあり、人となりも分かる社長のもとで、知っている仲間たちとの会社の方が、愛着が持てるというものだ。

極端すぎるほど、とことん惚れ込んでしまうところもあり、スーツの上着の内ポケットの上に「NEXWAY」という刺繍も入れた。

「ここで学びたい」だった自分が「ここに何を残せるか」に意識も変わっていった。

3-4.災い転じて転機に

学生時代にやっていたバレーボールをもう一度やりたいと思い、インターネットでバレーボールのサークルを見つけた。

はじめて練習に参加したその日に、アキレス腱を切った。

全治3ヵ月。

約1ヵ月間の入院の後、松葉杖で会社に通うことになった。

営業にとって歩けなくなるということは致命的だった。

しかも自分の強みが、訪問件数の多いフットワークにあったので、打撃はなおさらだった。

チームに降りてくる目標数字は絶対に下方修正はされないし、目標は絶対に達成しろという文化だったので、足を引っ張ってしまっている自分がとても情けなかった。

今の自分に出来ることは何なのか?を考え抜き、出た結論は営業支援。

自分が動けない分、他のメンバーの生産性を何パーセントか上げることが出来れば、チームとしては達成できると考え、会社で内勤(メールと電話で営業)をしている傍ら、チームのためのサポート業務を行うようにしていった。

特に評価してもらえたのは、営業ツールの作成。

それはExcelでKPIを見える化するものや、営業の補足資料、営業キャンペーンの企画などだった。

相対的に見て、営業としては他の人と比較してずば抜けているところはない、と思っていたが、営業支援の仕事は得意だということも分かった。

そして、考え方は

「自分が営業として人の2倍3倍の成果を出すよりも、営業全員の生産性を10%、20%上げることが出来れば、数字としてはこちらの方が大きいし、まだ現実性がある。自分はこれをやろう」

と変わっていった。


4.楽天編


4-1.楽天に転職

リクルートのCV職の契約期間の満期(3年)終了が近づいたころ、ネクスウェイでの正社員としての転籍のお声がけを有難くも頂けた。

大好きな会社だったので気持ちは揺れたが、思い切って転職をすることにした。

ネクスウェイでは一緒に働く方々に本当に恵まれ、モチベーション高く仕事をさせて頂いていたが、今までここで学んできたことを他の会社でも広めていきたい、その会社を成長させたいとも思っていた。

職業訓練学校に通っていた時に目指した「IT系の広告会社でのデータベース構築」の仕事をやりたい気持ちを抑えられなかった。

しかし広告会社の求人は東京が大半で、大阪での選択肢は少なかった。

同じ会社に入るのであれば、東京よりも大阪で入る方が競争率も高く、断然難しいとも言われたが、そういった中で楽天の運営するInfoseekの広告営業の求人を見つけ、なんとかここに入ることが出来た。

入社後に聞いた話だが、実は応募したタイミングですでに採用する人が決まり、枠は埋まっていたのだが、職務経歴書を見た人事から「この人は採用した方が良い」という話になり、特別に採用の枠を増やしてもらったとの事だった。

営業のための資料作成の仕事を多くやってきていたおかげで、自分という商品を、職務経歴書でより良く見せることが出来たおかげである。

こういう柔軟な対応を当時の楽天では出来ていたので、それは大きな魅力でもあり、強みでもあったと思う。

2006年4月、念願のITの広告業界で大きな一歩を踏み出すことになった。

4-2.東京に転勤

楽天に入社して1年ちょっと経った頃に、東京転勤の話が来た。

今までInfoseekの広告営業部隊だった部署が大きく改変され、「広告事業」という事業部になり、Infoseekだけではなく楽天全体の媒体を取り扱うことになったこと。それに伴って営業に関わる様々な改善業務を行う「オペレーション推進部」という部署が新設されたので、そこに行ってほしいとの事だった。

自分のやりたいことは東京じゃないと叶わないと思っていたので、喜んで引き受けた。

同時に大学時代から住んでいた関西から離れることは、とてつもなく寂しかった。が、自分の夢を追うことにした。

きっと東京に行くと、仕事に対してのめり込み過ぎて、自分のリミッターが外れてしまうだろうなとも思った。

よし、それなら思い切り仕事してやろう!そういう覚悟で東京へ向かった。

東京での勤務先は六本木ヒルズだった。

当時、楽天の本社がここに入っており、ITバブルの象徴とも言える六本木ヒルズで働くことは、誇らしくもあった。

しかし、東京転勤になった1ヵ月後に楽天は品川シーサイドに引っ越しをすることになる(笑)

4-3.常に改善、常に前進

オペレーション推進部では、楽天の「成功のコンセプト」にあるように、常に改善、常に前進の日々が続くことになった。

営業の売上進捗を管理するツールの作成にはじまり、広告取引における契約書の作成・締結業務。広告案件における楽天スーパーポイント付与のオペレーション改善業務。社長室に向けての事業部の広告売上日報を毎日提出する業務がメインだった。

三木谷さんから直に日報についての質問メールが来たときはさすがにビビった(笑)

業務を次々と仕組化していき、新たに直面することになった仕事は予実管理だった。楽天の経営会議で報告される、事業部のPL進捗報告の資料作成だ。

PLもBSもど素人で、科目の定義やら、聞いたこともないような専門用語ばかりに触れる日々が続いた。

誰も教えてくれないので、自分でネットで検索して用語の意味を確認していた。

今思えば、一事業部とはいえ、流通総額1兆円を超えるような大企業の経営会議で使われるようなPL資料を、よくこんなど素人に自己流でやらせていたな、と思う。

当然家に帰れない日々が続き、周囲からは会社に住んでいるとも言われていた。徹夜で仕事をしているときに幻覚を見ることもあった。本当にそんなことあるんだ(笑)

会社の労働組合(のような組織)のメンバーにも選ばれ、社員の労働環境についてヒアリングをされたこともあったが「全然、問題ないですよ!」と答えた。

世の中には仕事が無くて困っている人がたくさんいるのに、こんなに仕事をさせてもらえて、なんて幸せなんだろう!という心境だった。

こんな人を労働組合のメンバーにさせてはダメだと思う(笑)

そういう日々を繰り返していたため、過労がたたり、ある日心臓に猛烈な痛みを感じた。

歩くことさえ困難な状況で、家に帰って寝るときに、もうこのまま目が覚めないんじゃないかと本気で思った。

翌日会社を休み、病院に行き検査をした。体力があるせいか、皮肉なことに回復してしまい、検査結果は異状なしだった(笑)

そういうことがあったせいで、PL作成業務から離れることになり、営業の売上管理のシステムに関わる仕事にシフトしていった。

4-4.広告実績のデータベース化

当時使っていた売上管理システムの使い勝手が悪く、営業に負担をかけさせていたので、リプレイスを行うことを提案した。

リプレイスはプロジェクト化し、自分がプロジェクトリーダーとして推進役を担うことになった。

コンサル会社と相談しながらプロジェクトを進めていたが、ついに動き出そうという時に、コンサル会社から来た「売上管理システムの要件定義」に対する見積りが高く、事業からの決裁が下りなかった。

そのため、要件定義の資料作成を自ら行わなければならなくなった。

コンサル会社から来た見積もりは数百万円。これに相当するアウトプットを自分が出来るのか?というくらい困難な仕事ではあったが、何とかやり遂げることが出来た。

そして、ここで見えてきた課題と自分の夢だったデータベースの構築の構想が繋がった。

売上管理だけではなく、商談進捗管理、顧客の履歴管理、広告商品のマスタ管理、社員情報管理などの様々な要素を一気に整備していく必要があった。

使っていたシステムの契約期間との兼ね合いで、着手から完成までの期間は3か月半しかなく、しかも今まで行っていた業務にこのプロジェクトが上乗せだったため、家に帰れない日々をまた過ごすことになった。

心は折れることは決してなかったが、体力面だけが心配だった。

今までの社会人生活を振り返っても、この時が一番忙しかったと思う。

そして、念願の「ITの広告会社でのデータベース構築」という夢を叶えることが出来た。


5.楽天ビューティ編


5-1.社内公募で楽天サロンへ

東京での仕事は5年経過し、事業部も200人ほどの大所帯になってきた。

組織が大きくなると起きてしまうのがセクショナリズム。

各々の部署が少しづつ違う方向を向くようになってくるし、どちらともつかない仕事をお互いに気づかないフリをし始め、それは自分たちの仕事ではないと、押し付け合いがはじまる。

そうなってしまった風土に辟易していた。

そんな中、楽天内で「公募」という新しい制度がスタートする。

人手不足で戦力の欲しい事業部が楽天全社に向けて出す、事業部間異動の求人のようなものだ。

今いる事業部には内密に、そして異動が決まったら引き止める権利がないというシステムだった。

募集していたのは「楽天マート」「楽天ソーラー」「楽天サロン

その中で、より社外の個人の方々と触れ合う機会の多そうな、楽天サロンの公募に手を挙げた。

新規事業が自分たちの媒体の成長に向けて、同じ方向を向いている。何よりもホットペッパービューティーという明確な競合がいて、それをやっつけるという目標に向けて皆が一丸となっている、そんな風景を思い描くことができたので、考えるだけでワクワクしていた。

公募ではPL作成、売上管理、オペレーション整備などのバックオフィス業務のポジションにエントリーをした。

営業マンとしては引退したつもりで、今後の社会人生活は広告事業での経験を活かし、バックオフィスの仕事をしていこうと思っていた。

公募の面接も無事合格し、2012年11月に楽天サロンに異動が決定した。

広告事業の最後の挨拶では

「楽天サロンを広告媒体として成長させ、いつか楽天サロンを、広告事業の売上予算に組み込んでもらえるようになることを目指します」

と宣言した。

PL作成の仕事をしていたから分かるが、楽天の新規媒体が広告事業の売上予算として組み込まれるのは容易なことではない。

媒体としての規模や知名度、何よりも売上実績があってはじめて、予算化してもいいんじゃないかと検討をしてもらえる。

広告予算化までにはいったい何年かかるんだろう、少なくとも5年くらいは覚悟しておいた方がいいなと思っていた。

そして、楽天サロンに異動した時に以下のことを決意した。

・楽天はいずれ辞める。ここを楽天での最後の場所(死に場所)にする。
・事業が閉鎖されることになったら、楽天には残らず辞める。
・以下の状態になったら身を引く(辞める)
① 楽天サロンが広告予算化が広告事業に対して通ったとき。
② 事業の存続をかけて戦うフェーズが終了し、事業規模も大きくなり  安定した状態になったとき。

辞めたがっている感がすごく出ているが、誤解はしないでほしい。

つまり「進退を賭けてここで戦う。負ければ残って生き恥を晒すのではなく、責任を取って辞める。勝てば自分の責務は果たしたとして、身を引く」という覚悟だった。

5-2.美容室という未知の業界

楽天サロンではバックオフィス業務ではなく、社外リソースを使った美容室開拓営業を任命された。

当時の掲載サロン数は100店舗程度。競合のホットペッパービューティーとは100倍以上の開きがあり、媒体としては掲載サロン数を増やすことが最優先だった。営業マンとしては引退したつもりだったが、これでまた営業の世界に引き戻されることになった。

担当する社外リソースとは何かというと「美容ディーラー」「営業代行会社」の2種類。

何社かの営業代行会社ではすでに動き出していたので、まずは営業代行会社を通じての美容室開拓に着手した。

営業代行会社を通じて、美容室の方々とお会いするようになってくると、「サロン業界全体を盛り上げていきたい!」という熱い方々にお会いする機会にも恵まれた。

これが、はじめて感じた(ポジティブな)違和感でもあり、どんどん美容業界に惚れ込んでいくことにも繋がっていった。

違和感を感じたのは何故かというと、今まで一緒に仕事をしてきた方々で、自分の業界のことを熱く「盛り上げたい!」「なんとか良くしたい」という視点で語る人がいなかったからだ。
そんなこと言わないのが当たり前だと思っていた。

もちろん、自分の会社や事業部、チームのことを心から想い、熱く仕事をしている人にはたくさん出会った。

今までやってきた仕事をこの言葉に置き換えてみよう。

・フリーペーパー業界を盛り上げたい!
・求人広告業界を盛り上げたい!
・FAX一斉同報サービス業界を盛り上げたい!
・インターネット広告業界を盛り上げたい!

「FAX一斉同報~」に関してはいたような気がする(笑)

リクルート(ネクスウェイ)は熱い人が多かったので。

こんな風に自分の業界を「盛り上げたい!」と思っている人は、どこの業界でもいると思うが、美容業界に関してはそれを言う人がゴロゴロいた。

「熱さ」というよりは「愛」なのかもしれない。

5-3.広告媒体としての設計、そして楽天ビューティに

楽天サロンに異動になって1年経った頃、ついに楽天サロンでの広告売上を作ってくるように指令が降りた。

美容室から掲載料金や予約数に応じた成果額を頂くのが、当時の楽天サロンのモデルだったが、ここで言う「広告」とは、美容室以外の企業を指す。

つまり、各種メディアに広告を出稿しているような企業や、楽天市場に出店している店舗から頂く広告がそれに該当する。

インターネット媒体の広告売上は、PV数やユーザー数、メルマガの登録会員数の規模によって、分かりやすいくらい左右される。

1,000万PVと100万PVの媒体力はどのくらい違うか?と言われると、単純計算でPVの差である10倍と答えてしまいそうだが、実際はもっと差が開く。

広告事業および広告代理店の営業は、高い売上と広告としての成果を出したいので、同じ楽天媒体を提案するのであれば、実績があり、媒体規模も大きい方を選ぶ。

規模の小さい媒体は提案の土俵にすら上げてもらえない。

実際は10倍どころではなく、50倍~100倍くらいの開きがあるんじゃないだろうか。

誕生してから1年半くらいしか経ってない楽天サロンの媒体力を考えると、それは厳しい状況なのは目に見えていた。

厳しい状況なのが分かっていた理由は、広告を販売する事業部(広告事業)に以前にいたので、ここがどういう優先順位で媒体を提案していたり、実績として、どういう媒体が売れているかを知っていたからだ。

そういう厳しい状況の中で悪戦苦闘しながら、バナーやメルマガなどの一般的な広告の商品リリースを終え、売上も順調に伸びてきた。半年後には当初の広告売上の300倍にまで一気に駆け上がっていった。

美容室予約サイトの2番手~3番手に位置していた「美美美コム」がM&Aで仲間に加わったのもこの時期だ。

2014年の12月16日には楽天サロンと美美美コムが統合し、楽天ビューティとなり、ホットペッパービューティに次ぐ2番手になった。

とはいえ、楽天グループの中ではまだまだ規模の小さい媒体である事には変わりはなかった。

5-4.弱小媒体でも勝負できる広告とは?

PV数、ユーザー数を短期間で伸ばすことは出来ないので、今ある資産で出来ることがないか考えた。

そのひとつがサンプリングだ。

当時は楽天トラベルでのホテルサンプリングや楽天GORAでのゴルフ場サンプリングはすでに広告商品化されていたし、実績も出ていた。

ここと勝負して勝てるポイントは何かを考えたところ、ひとつの切り口がひらめいた。

楽天ビューティにしか出来ないセグメント、それは「カット料金の価格帯 × エリア」によるセグメントだった。

楽天会員の情報をもとに、セグメントして広告を配信するのが楽天の広告の主流だった。

ただ、持っているデータでセグメントすると、少し的を外してしまうものがあることに気づいた。

【住所】居住している住所の情報しかなく、その人が日中にいる場所や休日に出かけている場所は分からない。
【年収】会員データを取得した時点の情報で、その後、更新されているのかどうか不明。また年収が高い=何でも買う人というわけではない。
【会員ランク】楽天グループのサービスの利用状況によって、会員ランク分けをされているが、あくまでも楽天の利用状況。

つまり、銀座にある商業施設やエステサロンなどが、自分たちの扱う高級商材の訴求をしたい時に、これらのデータセグメントで本当にマッチするのか?という話だ。

住所データをもとにセグメントをすると、まずは銀座近辺に住んでいる人はそんなにいないだろうし、範囲を首都圏に広げると、大きくなりすぎて、セグメントの的が絞れなくなってくる。

年収や会員ランクもそうだ。

高年収でも、何にお金を使うかは人によって違うし、そもそも安く買い物をしたいから楽天市場を使っているユーザーもいる。その金額が大きいから、ダイヤモンド会員、プラチナ会員になっているだけで、これらをあたかも富裕層のように言うのは違う、と思った。

そこで、サンプリングのセグメント提案では

年収1,000万円で家の近所のカット料金2,000円の美容室に通っている人年収600万円で表参道のカット料金7,000円の美容室に通っている人、どちらが美容に対する意識が高い感じがするでしょうか?どちらが御社のこの商品を買いそうだと思いますか?」

というトークをしていた。

その切り口に同意をしてくれる人は多くいた。

5-5.これから美容室デジタルサイネージの時代が来る

JRの車両内のデジタルサイネージ広告「トレインチャンネル」が、15秒間の広告の1週間掲載で数百万円と高額なのにも関わらず、常に広告枠が完売状態だという話を聞いていた。

また、同じタイミングで、担当している美容室が、持て余しているお店のiPadを席に置き、店舗で販売している商品の動画を流したところ、美容師がセールスせずとも売れるようになったという話を聞いていた。

この2つの話ががっちりと合わさった!

「そうだ!美容室の座席で動画を流す、デジタルサイネージメディアを作れば、広告が売れるはずだ!」

事業部内の広告のプランにもこの企画を出した。

ただ、確実な売上が予測できないうえに初期投資がかかることともあり、このアイデアは頓挫することになった。

これが2015年の年初の頃の話だ。

5-6.楽天退職を決意

楽天サロンに異動してきた時に「この状態になったら辞める」という決意について書いたが、それについては2015年に達した。

以下の状態になったら身を引く(辞める)
① 楽天サロンが広告予算化が広告事業に対して通ったとき。
② 事業の存続をかけて戦うフェーズが終了し、事業規模も大きくなり、安定した状態になったとき。

当初5年はかかるだろうなと思っていた、広告事業での予算化が2015年に実現されたのだ。

2年強という期間でこれが達成されたのは、とても喜ばしいことだったが、同時に自分が予定よりも早く楽天を去らなければならないという、皮肉な結果にもなっていた。

楽天サロンに異動になった日と同じ11月1日に、事業長に対して退職の意思を伝えた。

話し合った結果、退職日は2016年6月30日になった。

楽天に在籍した期間は10年3ヵ月ということになる。


6.ネクスウェイ編


6-1.起業か転職か

楽天退職後に行くアテはどこもなかった。

ただ、やりたいことは決まっていた。

楽天という名刺を使えるうちに、いろんなところに会って話を伺ってみようと思ったので、デジタルサイネージに関わる、広告代理店、システム会社、筺体・端末のメーカーに対し「このビジネスアイデアをどう思うか?」というヒアリングを行った。

その中のひとつに、たまたま古巣であるネクスウェイがあった。

「サイネージネットワーク推進室」という新規事業が設立されていたのだ。

どの会社に話を伺っても、同じようなビジネスモデルを思いついているところはなかった。

ただ、話を聞くと「面白いですね!」とは言ってもらえた。

デジタルサイネージの波が押し寄せはじめているタイミングだったが、この時のフェーズは、既存のポスターや看板をデジタルに置き換えるというものが先行していた。

どこも美容室のデジタルサイネージのことは思いついていない。

これはチャンスだ!

2016年は「動画元年」とも呼ばれていて、これから広告の手法が動画にどんどん変わっていくだろうと言われている時期でもあった。

問題はこの美容室デジタルサイネージをどこでやるかだ。

周囲からは「自分で起業してやった方が良い!」と言われていた。

起業を本当にしたいのか?という自問自答を何日も繰り返しているうちに、ついに有給消化が始まるGWを迎えた。

今思うと本当にとんでもないが、楽天に籍がある6月30日までのリミットの2ヵ月前なのにも関わらず、その後のことが何も決まっていなかった。

起業について、今後の働き方について、考えに考えて出た結論は「起業がしたいわけではない」ということだった。

「起業は手段であって、目的ではない。もしこのビジネスをやるうえで、起業しか手段がないのであれば、起業しよう」と。

そして同時に「仕事をするうえで一番の贅沢は、好きな人たちと好きな仕事をやることだ」という答えも出た。

そうなったら、頭に浮かんでくるのはネクスウェイしかない。

ネクスウェイの門をもう一度叩き、美容室デジタルサイネージの企画を持ち込むことにした。

有給消化期間中は、ゆっくりする時間もなく、ひたすら事業計画書を作っていた。この事業計画が採用されないと、7月以降の生活が出来なくなる。

そんな状況だった。

74ページにもおよぶ事業計画のプレゼンは、前半・後半の2回行われ、要した時間は合計3時間にも及んだ。

そして、有給消化の終わる6月の最終週に事業化と、7月からネクスウェイで働くことが決定した。

ただし、雇用形態は社員でも契約社員でもなく、業務委託。

まさか自分が個人事業主になるとは思っていなかったが、そこは大きな問題ではなかった。とにかくこれで美容室デジタルサイネージの事業化に向けてスタートを切ることができた。

6-2.ローンチに向けてのフィジビリティスタディ

正確には事業化ではなく「事業化に向けた検討」としてのプロジェクトだった。

2017年4月のローンチを目指していたので、残された時間はわずか半年。

急ピッチで事業計画のブラッシュアップと、フィジビリティスタディの実施に向けて動いた。

7月からスタートし、8月中旬からテスト運用をスタートさせることが出来た。自分で言うのもアレだが、驚異的なスピードで実施が出来たと思っている。

そして、美容師と来店されたお客様それぞれに取ったアンケートの結果は、予想を上回る上々の結果だった。

12月にもフィジビリティスタディの第2弾を行ったが、こちらでも良い結果を得ることが出来た。

そして、翌年1月には事業化に向けての予算承認が経営会議でも取れた。

これで正式に事業としてのスタートを切れることになった。

6-3.美容室の開拓

美容室が暇になってくる2月に照準を合わせ、本格的に美容室開拓が始動した。

ローンチまでわずか2ヵ月。

すでに広告出稿第一号が決まっていたので、外すことは出来ない。

より高い媒体価値を生み出すために、端末を設置する美容室の条件を

銀座・表参道でカット料金が6,000円以上のお店

としていた。

美容室業界で仕事をしている知人何名かにこの話をしたが、誰からも「あのへんの有名美容室を開拓するのは無理だ」と言われた。

こういう話は地方、とくに関西の方がうまく行くというのも同様に言われた。

それを聞いて、チャンスだと思った。

銀座・表参道でうまく行くのであれば、全国どこに行っても通用する。

開拓が難しいのであれば、競合参入障壁も高いはずだ、と。

美容室開拓の結果はこれ以上ないくらいに、とてもうまく行った。

楽天ビューティで得た経験が活かされたと思っている。

ビジネスモデルの理屈よりも、理念を強調して伝えていたのが良かった。

開拓はすべて紹介からだった。

紹介をお願いする人は、同じく理念に共感してくれる人だけにしたのも、うまく行った理由だと思う。

報酬額や条件面ばかり話す人は、いい結果を出さないと思っていたからだ。

「好きな人と好きな仕事をしたい」というワガママを、ここでも通した。

6-4.サービス名は「Salon Screen」

デジタルサイネージの媒体名は「○○TV」「○○ビジョン」「○○サイネージ」という名前がほとんどを占めていた。

この流れでの媒体名は絶対につけないでおこうと、最初に決めた。

いくつかの案を出し合って議論した結果、サービス名は「Salon Screen」に決まった。

最初は呼ぶのが、こっ恥ずかしかった。

長年、苗字で呼び合っていた女友達と恋人関係になり、急に下の名前で呼び合うようになる、そんな照れ臭さがあった。

2017年4月1日にSalon Screenは正式なサービスとして、運用がスタートした。

6-5.苦戦の連続

新規事業ではよくあることだが、いろんなことを同時進行で進めていかなければならない。

営業に1日でも早く出たかったのだが、契約書関係や、番組表の編成、媒体資料作成など、やることが盛りだくさんで、ろくに営業には行けなかった。

夏が過ぎた頃にメンバーも増え、自分がやっていた仕事を巻き取ってもらえるようになったので、ようやく営業活動に専念することが出来た。

しかし、営業は苦戦を強いられた。

まず、広告代理店との接点がない。

昔に広告代理店営業をしていたものの、それは10年前でしかも大阪だ。

ほぼゼロのコネクションからのスタートで、門前払い同様の扱いを受けてはいたものの、きちんと説明が出来たところに対しては、面白いと言ってもらえた。

なかなか芽が出ずにいたが、営業現場に直面して話を聞いている立場だったので、Salon Screenの方向性は間違っていないという確信はあった。

いっそのこと、もっとコテンパンに言われた方が、改善の余地やもっと売れるためのアイデアも出ただろうが、悪くは言われることはあまりなかった。

共通していたのは、実績のない媒体だったので、広告予算を投じるのにはまだ躊躇する。しばらくは様子を見てみたいという反応だった。

自分に都合の良い例え方になるが、iモードが出始めて「携帯電話でインターネットが出来る!」と騒がれていた時期に、スマートフォンの素晴らしさを説いてみても、なかなかそこには踏み込んでもらえない。そんな感じだったと思う。


7.アイスタイル編


7-1.アイスタイルへの事業譲渡

2018年7月にSalon Screenはアイスタイルに事業譲渡されることになった。

これで「分社」「M&A(する側)」「事業譲渡(される側)」を経験したことになる。これは貴重な経験だ。

今はSalon Screenとともにアイスタイルに場所を移し、引き続き営業活動を行っている。

同じようなサービスが出てきていることや、美容室デジタルサイネージ市場に参入しようとしている会社があることも聞いている。

率直な気持ちは、とても嬉しいという事。

自分が思い描いていたサービスや市場が、魅力的だったという証明にもなるからだ。

もちろん競合が参入したときのことも、74ページにわたった事業計画にも書いてあるので、想定内。

ただ、今のSalon Screenのサービス自体は、自分が描いている完成形の20%くらいにしか実現できていない。

とても偉そうな感じになってイヤだが、もっともっと先を見ている。

今、話をしても皆「?」となるので、言う相手とタイミングは計っている。

アイスタイルには社員ではなく業務委託というかたちで仕事をしている。

これは何かあったときにSalon Screenと一緒に心中するための覚悟でもある。

社員というかたちで守られたいとは思っていない。

そして...

Salon Screenは考えていたビジネスのほんの一部で、実は他にも考えていることがあり、今はまだそのタイミングではないと思っているので、表には出していないが、水面下では動こうと思っている。

それはどこで誰とやるのかはまだ分からない。

これからは「好きな人と好きな仕事をしたい」と決めているので、それが実現できる人達と一緒にやってみたいと思っている。

その方がきっとうまく行くから!

noteをはじめたばかりで、今はまだ方向性に迷ってますが、まずはアウトプットをしていきます。 【Facebook】https://www.facebook.com/kawasaki.xx