富樫渉さんからのf/22へのご批判に対する返答

上記のnoteに投稿された、富樫渉さんからの「f/22」及び私に対する疑問やご批判に対して回答したいと思います。

ここに書く内容は、f/22編集部の総意としてではなく、f/22編集委員の一人であり、『童貞。をプロデュース』問題についてのWEB記事をメインで執筆した私、川上個人としての回答になることを予め断っておきます。編集長の満若さんをはじめ、他の編集部メンバーたちには、当然ながら、それぞれの意見や考え方があるはずですが、富樫さんのご批判の対象は、おそらく川上が個人で書いているtwitterの意見なども含めてのものと読めましたので、川上個人としての回答をさせて頂くのが良いかなと思った、という次第です。(※編集長の満若さんからは、この投稿とは別途、回答があると思います。)

「じゃあ雑誌f/22としての見解はどうなんだ?」と思われる方もいるのかもしれませんが、f/22編集部は、雑誌作りのための、数人の主にフリーランス達の小さな集まりで、編集長の命令のもとに規律正しく動く組織体というよりは、個人個人がそれぞれ、雑誌が目指す大枠の方向性を共有しつつ、編集会議で決まった担当記事に関して動いて執筆したものを、編集長が責任者としてまとめているというようなイメージの集まりなので、「f/22としての統一見解」のようなものや、「f/22編集部」として出すような意見は、「編集長が書いた文章について、編集部メンバーが全員その内容に同意した」という程度のものと考えていただければ良いかなと思います。

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富樫さんのnoteを5回読みましたが、ご批判の全体的な論旨を上手くまとめて答えるのが難しいと感じたので、長くはなりますが、一つ一つの文章のまとまりを引用しつつ、それに対して回答していきます。

「まず前提として、f/22の対談の起こしから松江氏が加賀氏に行ったハラスメント、及びその後のSPOTTED直井氏と共に出した再三にわたる声明など諸々含め、松江氏からの加害や、その後の声明に保身や嘘があった事実は揺るがないということ。そしてそれが明らかにされたことは、名誉と心を傷つけられた加賀氏にとって必要不可欠なことであり、このようなことが二度と起きるべきではないと考えている。」

松江氏が撮影現場およびその後の上映、またその後の声明などで加賀氏に行なった加害行為は主に「ハラスメント」「性暴力の強要」「名誉毀損」だと私は認識しています。ですので、「ハラスメント」という言葉だけでこの問題を語るのは、まず、問題を矮小化されすぎていると感じます。このようなことが二度と起こるべきではないというご認識に関しては、心底同意しますし、そのためにf/22として色々と動いているものと思っています。

「次に、このハラスメントが真に社会的問題として問われるべきか否かという点である。f/22の記事内においてドキュメンタリーにおける「非対称性」という言葉が使われているが非対称性はドキュメンタリーだろうが、演出家の俳優へのパワハラだろうが、それこそ伊藤詩織と山口敬之の一件や、広河隆一の性加害、むしろ一般社会のありとあらゆる場で非対称性を帯びた事件は数多あるため、今回の問題はその一例として「社会的に」問われるべき事象の一つであることは全く否定しない。個人間で起こった出来事が映画という公の形で拡大した。故にこの問題を「社会的なもの」であると規定する。
そして傍目から当事者間のやりとりを見る限り、認知の違いから和解に辿り着くのが不可能なのは明らかだ。

で、あるならば。
現在日本という国において「社会的第三者」と言える(そう言わざるを得ない)司法の手によって裁かれるのが筋である。もう少し丁寧に言えば、個人間で起こった問題が、当人たちの間で解決出来ないほど捻れ、かつ社会性を帯びたのであれば「社会的な第三者」の采配のもと裁かれるべき、ということである(ただし、その裁判の結末は個人へと帰結する)。」

「関係の「非対称性」が原因となる事件は社会のあらゆる場所に存在する、よって、この問題についても「社会的なもの」であると規定する」という論理は、端的によく分かりません。こういう問題は社会に色々あります。だからこの問題も社会的です。というのは、論理が成立していません。

まず、私が問題にしているドキュメンタリー製作一般における「非対称性」とは、撮る者と撮られる者、もしくは、見せる者と見られる者、という特殊な関係における原理的な「非対称性」の事です。これは、ドキュメンタリー映画(もしくは番組)を作り、公開するという行為が原理的に持つ「非対称性」です。この「非対称性(ドキュメンタリー製作においての)」と、人間関係一般における「非対称性(権力関係においての)」とは、似て非なる概念です。例えば、無名のフリーランスの新人ドキュメンタリー作家が、大御所の著名政治家のドキュメンタリーを撮る場合を考えると分かりやすいかもしれません。社会的な立場(=権力関係)は、明らかに政治家が強い力を持っていますが、ドキュメンタリーを撮り、撮られる関係性における原理的な「非対称性」は、この二者の社会的な力関係とは関係なく存在します。(『童貞。をプロデュース』の現場や、公開過程においては、この「2つの非対称性」の「どちらにおいても」、加賀さんが弱い立場に置かれていたことが、被害の大きな要因となっています)

また、この問題が「社会的なもの」であると規定されるのは、『童貞。をプロデュース』という作品が、興行として映画館で観客に「公開」された時点であると、私個人は考えています。誰もがお金を払って作品を鑑賞出来る、劇場というパブリックスペースにおいて本作が公開された時点で、本作の製作過程や上映過程において浮上した重大な倫理的問題は、確実に「社会的なもの」になっているのではないでしょうか。

「この問題が社会的なものである」という点については意見が一致するところですが、その結論を導く論理の過程が異なるという事でしょう。

また、「社会的な問題」であるから、当事者間での解決が難しい場合、司法の場に委ねるべきだという短絡的な結論も、同意できません。司法の場での解決というのは、近代の法治社会における「ある一つの問題解決」の方法にしか過ぎません。

まず、第一に当事者間での問題解決が難しい場合、司法の前に、「コミュニティ」としての対応や責任が存在するはずです。f/22のメンバーとして私がやっている事は、「ドキュメンタリー製作」という、自分の生業と共通の場で起きた倫理的な問題について、コミュニティの一員として解決を探っていくというものなのだろうと思います。

また、最近、特に重要性を増してきている概念である「修復的司法(または修復的正義)」というものがあります。司法では解決されえない「被害者の感情」の問題をどう扱っていくべきかという議論です。性暴力被害においても、この議論は重要性を増しています。例え司法の場において被害者が「勝利」を勝ち取ったとしても、加害者から贖罪の意識を感じられない場合や、加害者自身の思考過程が全く分からないようなケースの場合、被害者の感情の本当の回復が難しい事は少なくないでしょう。このような議論を一切飛ばして、社会的問題なのだから、とにかく司法の手に委ねるべきという議論は、あまりにナイーブで雑な議論だと、私は考えます。

また、今回のケースにおいて、加賀さんが訴えるべきと主張するのは暴力的だと思います。単純にそれこそ余計なお世話ですし、そのための労力、資金、時間をなぜ被害者である加賀さんが負わなければならないのですか?そして、一体それは誰のために?第三者のモヤモヤがスッキリするため?でしょうか。

「くわえて、松江氏がf/22スタッフからの圧力を受けたというnoteでの訴え、そしてこれに対しf/22が「名誉毀損」と声明を出すことについて。これもまた記事になって公のものとなったことなどから、同様の理由で司法に一任すべきことと考える。ただし、これは松江氏とf/22間の問題であり、松江氏と加賀氏の件とは別のものである。
現在、加賀氏、f/22、そして松江・直井両氏がそれぞれどのような状況にあるのか知る由もないが、司法の場に出ない理由があるとするならば、それは一体どのような理由からなのか。」

まず、昨年末の対談の場に、記事を公開すると言う前提の取材のため、f/22という「第三者に入って欲しい」と我々を呼んだのは、松江さん自身です。長時間に及んだ対談終了後、文字起こしや記事執筆に膨大な労力を費やしたのち、ゲラチェックの段階で、唐突に掲載拒否を突きつけられたと言う経緯はご存知かと思います。その後、松江さん自身のnoteにおいて、私と満若編集長が、松江さんに必要以上のプレッシャーを「総括」のように与えたとの批判がなされました。この批判は私たちにとって全く「事実」と異なるものでしたし、f/22編集部の取材姿勢について多大な誤解や疑念を読者に与えるもので、私と満若さんに対する名誉毀損にもなるでしょう。そのため、こちらは松江さんのnoteの「読者」に、そのような誤解を解いてもらうため、また我々自身の名誉回復のために、文字起こしと記事を公開しました。

なぜ司法の場に委ねないのか。と問われたら、司法の場に委ねるまでもなく、きちんと文字起こしや記事を読んでいただければ、誤解は解けるだろうとの判断が編集部内であったと思います。名誉毀損で訴えましょう!と言う議論にはならず、きちんと対談を公開する事で、f/22の名誉を保ちましょうといった議論になりました。結果的にも、その判断は正しかったのではないかと思います。

(これは完全に私個人の見解ですが、こんな「明らかな虚偽」、しかも、簡単にそれが実証できるような「言いがかり」について、わざわざ労力を割き、本業のロケやらポスプロ仕事の合間を縫って裁判を起こす気になりませんし、裁判に勝ったとしても当然すぎて嬉しくもなんともありません。富樫さんが我々の立場だったら、やはり司法の場に委ねるべき!と、本業を犠牲にしてでも、裁判を起こすのでしょうか?)

「自分がこの一連の件で最も違和感を覚えているのは、f/22が「社会的問題である加害」と「ドキュメンタリーが内包している加害」の問題を同一線上に結びつけてしまっている点だ。
これはf/22の記事内でドキュメンタリージャパンや座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルを名指して「権威」と称し、映画祭への参加など松江氏と関係があったことから、何かしらの「社会的責任」を問うている点。また、松江・加賀両氏との対談後(そしてそれが記事になる前)に行われたf/22のシンポジウムで松江氏の友人でもある森達也氏を招いた点。その他f/22川上氏のツイートにおけるカンパニー松尾氏を始めとしたハマジム系列のドキュメンタリー作家たちに対する批判的言説からも、少なからずその意志が表れている。」

これはすでに書いた「非対称性」の話と似たようなものなのかな、と思いますが、ご批判の論理が理解できません。「社会的問題である加害」と「ドキュメンタリーが内包している加害」の問題を同一線上に結びつけている事に最大の違和感を覚えてらっしゃる、と。その証左として以下の3点

1. ドキュメンタリージャパン(座・高円寺)を権威として「社会的責任」を問うた事

2. f/22イベントに森さんを招いた事

3. ハマジム系列のドキュメンタリー作家に対する私の批判

ここまでは、そう主張する文章になっています。

「まず森達也氏が参加したシンポジウムでの答えとそれに関してのリアクションについて考えたい。このシンポジウムはF/22 第2号刊行イベント『ドキュメンタリーの⽴脚点 〜撮られるものたちの眼差し〜』というくくりの中で行われた『森達也氏が語る「撮るもの×撮られるもの」』というトークイベントだ。

このシンポジウムに参加した訳ではないので残念ながら正確な質疑の内容はわからない。しかし想像するに、森氏が槍玉に上げられた質疑での発言は「松江氏の一件を含む、社会に蔓延する創作上のハラスメント一般について」ではなく「松江氏のドキュメンタリー撮影におけるハラスメントについて、松江氏と個人的親交の深いドキュメンタリー作家としてどう森達也は思うのか」と問われたものの答えと考えられる。
何故なら、この非常にニッチなシンポジウムに参加した質問者が、松江氏と森氏の交友関係を知らないなんてことはあり得ないからだ。当然、後者のようなアングルとして質問されるだろうし、そのアングルの上で森氏は語らざるを得ない。
これに対しての森氏の解答(Twitterに本人も挙げている)が、森達也というドキュメンタリー作家が持つ「社会的倫理」として認識され、結果これが加賀氏やf/22川上氏、そしてSNS上の多くの人々から批判された。
加害者の友人(身内と言い換えてもいい)に対して、ましてやこの一件に対して全ての情報を知り得ない状況、さらに公の場での質疑応答という形で問われ答えた解答には当然「加害者の友人という立場からの気持ち」が内包されている。これが森達也の「社会的倫理」そのものとして槍玉に上がるというのはややアンフェアでなかろうか。少なくともそこには森氏の社会的なスタンスのみならず松江氏に対する情が込められている。
さらに気になる点として、このシンポジウムがf/22による松江・加賀両氏の対談収録と、それが記事として公開されるまでの「間」の時期に開催された、という点だ。時系列を考えると、全てを知っていたf/22が森氏を「撮るもの×撮られるもの」というテーマでシンポジウムに呼んだことに、意図的なものを感じてしまう。」

まず、単なる推測に基づく疑念?のようなものについてお答えすると、このイベントに森さんに参加して頂いたのは、f/22編集委員の辻智彦さんと森さんのトークなら「イベントのトークとして面白くなるんじゃないか」と編集部の中で意見がまとまった、くらいの事からだったと記憶しています。辻さんが森さんに元々コンタクトが取れるという事もあったはずです。森さんにオファーしてみようと決まったのは、2019年11月18日に編集委員でビデオ通話で会議して決まったと記憶しています。まだ、年末の加賀さんと三者の対談が行われる前です。もっと言えば、対談の話自体が、f/22とはまだ無関係に当事者間で進んでいったのは翌12月半ばですから、この段階(11月18日)においては、対談自体があると言う事は、誰一人(当事者も)知らないです。タイミングに意図的なものを感じるとの事ですが、単なる邪推でしかないと思います。

また、イベント当日の辻さんと森さんのトークは、主に『FAKE』や『i-新聞記者ドキュメント』についての内容であり、松江氏についてどうこう、と言う問いかけは辻さんからはされなかったと記憶しています。トーク後、質疑の際に観客の方から、『童貞。をプロデュース』問題についての質問が出ました。もちろん、私個人は、森さんがこの問題についてどのような見解をお持ちなのか興味を持っていましたが、それを聞き出すために森さんを呼んだに違いないと言わんばかりの推測は、単純に事実ではありません。

イベントの翌日だったと思いますが、森さんがtweetでイベントの質疑応答の内容を自ら書かれ、それが多くの批判を浴びたのは覚えています。要するに「松江は大事な後輩だし、彼と自分は同様の加害性を持っているから、叩く気にはなれない」と言う趣旨の発言だったと思います。私個人が、この森さんのtweetを「社会的倫理」という下のみにおいて理解し、批判したという事実は一切なかったと思いますが、それを前提にご批判を展開されているので、意見を書きます。

森さんの発言には、松江さんに対する情が込められている。当然だと思います。誰もが分かる事です。だから、何なのでしょうか?その「情」は、このような被害が今後起きないよう、積極的に是正するための言葉や行動や姿勢を取る事と、本来全く矛盾しないと思いますし、私個人としても、森さんにはそのような意図を持って発言をして頂きたかったと、残念に思っています。

富樫さんのご批判を単純化すると、「情」の下の森さんの発言を「社会的倫理」の下に判断するのはアンフェア、という事になりますが、本件が、被害者が明確に被害を訴えている「社会的な問題」であるという認識については先の議論から異論はないはずで、その問題について言及するという事は、その発言は当然「社会的倫理」の下において読者から読まれ、判断されるでしょう。「情」があるかないかは、あまり関係がないのではないでしょうか。

また、森さんは彼自身の責任と判断で自ら発言もtweetもしておられるのであって、その発言が批判されたり、炎上したとしても、その責任は当然ながら森さんご自身にあるはずです。まず、富樫さんが心配するようなことではないし、私自身、そのような炎上を煽った事実もないので、あらゆる意味で、こちらが何を批判されているのか、はっきりしません。

「当初「第三者」という立場で松江・加賀問題に介入したf/22は、果たして現在の立ち位置をどう自認しているのだろうか?」

問いかけなので、端的に答えると、『童貞。をプロデュース』製作過程から上映、その後の舞台挨拶での事件と声明文発表という一連の流れにおける加賀さんと松江さん、直井さん、カンパニー松尾さんの間の加害被害の問題について、私は「当事者」ではないので、第三者である事に変わりはありません。しかし、その後の対談への参加、その対談の記事化と公開、それに伴う様々な反応に対しては、私およびf/22は第三者ではなく当事者であると認識しています。

「社会におけるハラスメントやそれに関する倫理を一集団として是正すること」と、「ドキュメンタリー制作者の集まりであるf/22編集部の面々が、ドキュメンタリーが内包している加害性に対して同業者(業界)に問いかけること」は一見同じ地平にあるようでいて、全く違う。」

何が「全く違う」とのご主張なのか、その論拠がないので分かりませんが、私個人で言えば、「社会におけるあらゆるハラスメントを是正したいと思っている社会の一員」であると同時に、「ドキュメンタリー映画を作る事を生業としているスタッフとして、ドキュメンタリー製作が内包する加害性について同業界に問いかけ、共に考え続けたいと思っている個人」である、という事でしょうか。

f/22はドキュメンタリー製作者たちによる、ドキュメンタリーについての雑誌ですから、「社会におけるハラスメント全般に関する倫理的問題を集団として是正すること」を目的に掲げている組織ではない事は、他のf/22編集委員の方達も、異論ないのではないかと思います。

「仮にf/22が前者の立場を取るのであれば森氏やドキュメンタリージャパン、座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルに言葉や責任を求めることは否定しない。ただしこれに対してどういう解答がなされた(もしくはなされなかった)としても、それは解答を求められた側の自由であり、またそのような姿勢を更にf/22が否定することもまた自由である。いわば「社会活動家」、もしくは「一雑誌ジャーナリズム」として戦い続ければ良い。今現在のf/22の態度はこれに当たる。

しかし、もし後者のスタンスだと自認するならばそれはあくまで同じ立場の同業者同士による問題意識の議論であるはずだ。「社会的に」解答や責任を同業者に問う立場にあるのだろうか。ドキュメンタリージャパンや座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル、そして森達也を「権威」と称する行為は逆に自分たちが「権威の下にある存在」であると規定することになる。ドキュメンタリー業界内における、ある種の「ルサンチマン」が自分たちにあることを認めている。そんな彼らが自分たちを「社会的存在」として位置付けるか、「個人的存在」として位置付けるかでその行動や発言の在り方は大きく異なるはずだ。」

f/22は、明らかにここで書かれている「後者」のスタンスである事はすでに書きましたが、同業者に「社会的に解答や責任」を問う権利がないのかと言われれば、いや、あるに決まってるじゃないですか、と思います。逆に、なぜ無いとお考えなのでしょうか?むしろ積極的に業界を巻き込んで問いを発し、議論し、発展させていく責任があるとすら思います。それらの問いは全て、同業者である自分たちの仕事、生活、人生に対する問いでもあるからです。

ドキュメンタリーを撮る現場も、ポスプロも、公開する事も、私たちは「仕事」としてやっていますし、被写体の方達との関係性も築きますし、明らからにそれらは「社会的な行為」です。その過程において生じる問題も、当然「社会的な問題」です。それらの活動全てにおいて、私たち作り手は皆、社会的な責任を負っています。

ご主張と思われる内容を、もう一度書き直してみます。

f/22が「ドキュメンタリーの作り手であり、ドキュメンタリーについての雑誌である」ならば、同じ業界内で起こった様々な「問題」について「社会的責任」や「社会的倫理」を問う権利など無いだろう、と仰っている。それはジャーナリストの仕事であり、活動家の仕事であって、f/22にそんな権利はないと仰っている。

おかしいと思います。私たちはドキュメンタリー製作者であり、社会の一員です。同業界で起こった様々な問題について、私たち自身が「社会的な責任」を問う権利がないのであれば、誰がこの業界に存在するあらゆる倫理的な問題を是正してくれるのでしょうか?ジャーナリストや社会活動家に任せれば良いのですか?私は全くそう思いません。

また、森達也さんやドキュメンタリー・ジャパンを「権威」と称する行為が、自分たちが「権威の下にある存在」であると規定することになり、それはルサンチマンがあるからだ、とのご指摘は、単純に、そんなルサンチマンは、少なくとも私個人には一切ありませんとだけお答えしておきます。大変失礼な話だと思います。そんなルサンチマンを抱えて、仕事してません。

森達也さんは実績のある、また一般的にも著名なドキュメンタリー映画監督であり、ドキュメンタリー・ジャパンは、ドキュメンタリー番組を作っている人たちも、ドキュメンタリー映画を作っている人たちも、誰もが知る老舗の、日本を代表するドキュメンタリー制作会社であるというのは、私個人の意見ではなく、単なる事実だと思います。

「f/22は「松江氏に名誉を傷つけられた」こと以外、この松江・加賀問題において元来同じドキュメンタリーを生業とする「個人的第三者」だった。
しかしf/22(特に川上氏のツイート)は「童貞をプロデュース。」の観客にまでその贖罪の射程を伸ばしている点や、ドキュメンタリー表現の「社会的倫理」を問うてる時点で、もはや「個人的第三者」ではなくなっている。「松江氏から対談への立ち合いを頼まれた第三者だった」と再三語っているにも関わらずだ。
彼ら自身がこの「第三者」という言葉を免罪符にしながら、問題の位相を「社会的正義」へと拡大してしまっていることに無自覚ではないか。」

この議論も、上記と同様に意味が分かりません。立ち位置の認識はすでに書いたので繰り返しませんが、第三者としての立ち位置でこの問題に関わりながら、問題の位相を社会的な範囲(正義かどうかはよく分かりませんが)に広げる事の、何が問題なのでしょう。免罪符にしている、の意味が分かりません。むしろ、社会的問題としての位相以外で、この問題を第三者の立ち位置の人間が考えることなど可能なのでしょうか?当事者ではない立場だからこそ、本件について客観的に「社会的責任」を問い、考える責任が求められるし、それが可能になるのではないでしょうか。

観客にまで贖罪の射程を伸ばしている、とのご指摘があったので、例えば、最近問題になっているテラスハウスについて書いてみます。亡くなった方への責任は、制作者にもあるでしょうし、出演者にもあるでしょうし、視聴者にもあるでしょうし、視聴者で且つ誹謗中傷をした人たちにもあると、私は思います。責任の濃淡は当然あるでしょうが、視聴者に一切責任がないなどとは言えない。『童貞。をプロデュース』についても、同様に考えています。

さて、このような意見はテラスハウスの視聴者でもなければ制作者でもない、「個人的第三者」である私は、書くべきでないとのご主張ですよね。では、この件についてはやはり司法に委ねるべきで、あらゆる「第三者」の意見や議論を否定されるのでしょうか?あまりにおかしな話だと思うのですが、ご主張の論理はそのようにしか読めません。

「自分はドキュメンタリーはあくまで「表現手法」であり、報道やジャーナリズムのように必ずしも真実を明らかにし、権力を監視し、弱者を守り、さらに被写体に敬意を払ってその尊厳を守る「べき」ものであるとは定義出来ない。ドキュメンタリーそれ自体は必ずしも「社会的」なものであるとは限らないし表現されるものが「正義」であるともまた限らない。
各々の作品においてそれらのバランスはゼロ or 100ではなく、「程度」であり、その程度の範疇で被写体との関係性を構築していく。そのようなあやふやな表現手法だからこそ、程度の淡いで「加害」が発生するものだと考える。」

ドキュメンタリーとジャーナリズムは全く異なるというのは、私自身ずっと書いてきていますし、そう思っています。ドキュメンタリーの作り手は、「被写体に敬意を払い彼らの尊厳を守るべきものである」とは思います。作り手の最低限の倫理として。ドキュメンタリーの「定義」は全く別の話だと思いますが。色々と表現に突っ込みたいところはありますが、大枠では同意できます。

「ハマジム関係の作り手にも言及している点からAVというジャンルの性的搾取もまた論点に挙げられるだろうが、これについても同様で、全てのAVやドキュメンタリー的AVが全て加害的であるとは断定出来ないし、同時に全て無加害であるとも言えない。
作る上での開き直りや無自覚は確かに存在する。しかし初めから加害者になりたいと思って創作する人間は誰もいない。プロパガンダ作品でもない限りは。(蛇足だが「主戦場」が被写体から訴えを受けたことも議題に上がって然るべきのような気がする)」

これも、ごくごく当たり前の話だと思います。異論ありません。

「これは邪推だが、このような否定しがたいドキュメンタリー表現が持つ「業」そのものを法的に禁じられる危険性を直感的に察しているからこそ、この問題の当事者たちは互いに司法の場に出ないのではないか?もしそうだとするならばその直感は正しい。言わずもがな表現の自由が揺るがされる可能性があるからだ。」

意味不明です。ドキュメンタリーは合法的に製作できますし、少なくとも私がスタッフとして参加した全ての作品は合法的に製作されています。当たり前です。逆に富樫さんはドキュメンタリー番組のディレクターというご職業をやられていながら、ご自身の日々の業務は「法的に禁じられる可能性がある」ような仕事だとお考えなのでしょうか。だとしたらヤバすぎませんか。よく分かりません。

「繰り返すが、今回の松江氏と加賀氏の間に起こった性加害や名誉毀損は、決定的に松江氏に非があり、それはf/22の記事が出されたことで可視化され、本人も認めることとなり、対談の時点でひとまず倫理的な決着は付いた。
そして松江氏が言うように唯一の贖罪はもはや司法に委ねるしかないというくらい、対談記事と松江氏のnoteの間にある認知の乖離もまた明らかだ。そして一連の流れに対する社会一般の答えはSNS上で明白になったと言える。皮肉にも私刑のような形で…。」

倫理的な決着はついたとのご認識ですが、私は何も解決していない、と思っています。対談の場で、当面の結論として約束された「加賀さんの名誉回復」を、松江さんも直井さんも一切やらず、むしろ松江さんは更なる誹謗中傷とも取れるnoteを最後に、無視し続けているからです。

このご認識に関しては、ご批判全体の中で、私個人としては最も看過できませんし、本当に私の記事を読んで頂いたのですか?とすら思います。あなたの中では勝手に「倫理的に決着した」のかもしれませんが、この問題において、そんな事は無意味です。

松江さんがSNS上で一気に批判されたのは、松江さん自身の舞台挨拶での振る舞い、その後の声明、またnoteを公開した事が原因ではないでしょうか。むしろ私は、松江さんや直井さんが私の対談記事の掲載拒否などせず、約束通りに公開させてもらえていれば、彼らへの批判はある程度沈静化したのではないかと思います。ですので、何か「私刑」というような言葉で、私やf/22がそれを引き起こしたようなものの言い方をされるのは、心外で、残念です。

「権威どころか、f/22という集団すら形成することも出来ず細々と業界の片隅でドキュメンタリーを生業にしている身として、自分はf/22に問いたい。

ドキュメンタリー業界(そもそもそんなものがあるのか?)というあまりに弱く小さい世界の更に隅っこで、権威と名指して戦う相手は果たして「そこ」なのか?

私が対談後の私見を書いた記事の趣旨を正確に読み解いて頂けていれば、別にドキュメンタリージャパンなど「業界の権威」を批判したくて書いたものではない事が、ご理解頂けるのではと思います。むしろドキュメンタリーの作り手である富樫さんご自身に問い返したい質問です。あなたは何と戦っているのでしょうか。f/22と?川上という録音技師と?

「第三者」ではなく「当事者」としてSNS上での祭りが孕む加害性をどう考えているのか?

祭りがあったとすれば、それを引き起こしたのは、松江さんご自身の対応であり、森さんご自身の発言であった事を、まずこの件に関しては前提として再度述べた上で、一般的にそのようなSNS上での「祭り」のような、無責任な発言や誹謗中傷がもたらす加害性は、大嫌いです。

そしてあなたたちが「正しい」と考えるドキュメンタリー表現はどのようなものなのか?

私個人としてお答えしますが、「正しいドキュメンタリー表現」なんて考えた事があまりないですし、分からないです。そんなものを主張したこともなければ、そんなものがあると思ったこともないです。ただ、作り手として「許されない行為」や「守るべき倫理」は、確実にあると思います。

そして、同じドキュメンタリーの作り手として「『絶対に』加害者にならない」作品を作り得るのかどうか?

作り得ません。誰もが加害者になる可能性があります。だからこそ、この問題について作り手の立場で議論し、考えなければならない。一貫してそのように主張してきました。

これらの答えは論でも作品でも構わない。

むしろこの社会で生きていて、絶対に加害者にならない方法があるのだろうか。絶対的な第三者であり続けられるだろうか。
少なくとも自分にはその方法がわからないし、見つけられない。
日々怯えながら、それでもカメラを人に向けて生きている。」

絶対的な第三者とは何か、よく分かりませんが、誰もが加害者になり、誰もが被害者になるのが、この社会ですよね。誰でもそんな事、悩むまでもなく、分かっているのでは。ドキュメンタリー製作に限らず。

「おまけに
f/22は今年の座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルでも売っていたと思う。
自ら社会的責任を問うた相手の祭りに乗っかって営利行為を行うことに対してはどのように考えているのか。この辺りも知りたいところである。」

座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルが『童貞。をプロデュース』問題についての意見を全く出さないままに松江さんを参加者として招いていた事についての私の批判はそのままに、座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルにおいて、そこに参加するドキュメンタリーへの興味を持っている観客や作り手の人たちに、そのフェスティバルについての批判も内包したドキュメンタリーについての専門誌であるf/22を買って読んで欲しいと思って販売することと、何も矛盾しません。

政権批判するなら給付金もらうなー、映画作るのに文化庁の助成金もらってんなら政府批判するなー、みたいな意見の「おまけ」ですね。そんな阿呆らしいことないのでは。

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以上、長くなりました。ご批判に対する返答です。あくまで川上個人の意見です。丁寧に書きすぎると私の意図が伝わりにくいと思ったため、失礼な表現も多かったと思いますが、どうぞお気を悪くなさらず。


川上拓也

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