映画『わたしたちに許された特別な時間の終わり』について

2014/8/19(火) 12:30の回@ポレポレ東中野での上映を観て。少し考えてから。

太田信吾監督『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を観た。これは、映画の感想、というより、この映画についての取り留めのない私的な話(予め断っておく。映画を劇場で一度観た。neoneo若木さんのインタビューを読んだ( http://webneo.org/archives/23713 )。CINRAの岡田利規さんと監督の対談( http://www.cinra.net/interview/201408-watayuru )を読んだ。パンフレットは購入していない。という状態だ)。

この映画の存在は、劇場公開されるかなり前から知っていた。イーッカさんというプロデューサーに映画企画をプレゼンしましょうという会に、映画美学校時代の知人も参加しており、その知人から、この映画について山形国際映画祭で会った際に聞いていた。「友人のミュージシャンの自殺」を扱った映画であり、ドキュメンタリーパートとフィクションパートに分けられている少し複雑な構造の映画だ、というような事が頭には入っていたと思う。私は1984年生まれで、太田監督と同世代(太田監督は1985年生まれ)なので、同世代が撮ったドキュメンタリー映画は観てみたいなと感じる反面、撮影していた友人のミュージシャンが「自殺」をした事から本格的に始まった映画だろうなという予感もあり、何か嫌な感じがして山形では観なかったのを覚えている。「他人の死」から始まるドキュメンタリー映画、「他人の死の予感」から始まるドキュメンタリー映画が、苦手だからだ。

しばらくして、土屋豊さんのTwitterなどで、この映画が公開に向けてクラウドファンディングをしている事を知る。その時も、そのファンディングサイト( https://motion-gallery.net/projects/watashitachini )で読んだ文章に、何か嫌な感じを受けた。Director’s Statementに、「不謹慎なのを承知で言えば、」というエクスキューズに続いて「彼には自殺の才能があったのではないか?」という言葉があったからだ。生きている人間は「自殺」についてネガティブでなければいけない、真っ向から否定しなければいけないと思っている私にとって、この言葉には納得が出来なかった。

なぜそう思うのか。これは一つの私的な経験からの、私的な意見だけど。

私は自身がうつ病を患っていた期間があり、当時勤めていた会社を半年以上休職した後に退職した。その際「病気」として現れる「希死念慮」が酷かった時期が1ヶ月ぐらい続いた。その時は「自殺」が本当に身近な状態で生きていた。今は完全に治ったが、自身の当時を振り返った時に、あの時に切実に感じていた「死にたい」という思いは「病気」だったのだと理解している。今は全く「死にたい」とは思わない。なので、「自殺の才能」なんてある訳ねえだろ。それは病気の症状だ。と思った。この監督の言葉は、「自殺」についてリアリティを持っていない、また「うつ病」という病気と症状について理解していない人の言葉だと感じた。選択としての自殺を、私個人としては、生きている限り、真っ向から否定しなければいいけないと思うのだ。それは、あの時死ななくて、本当にラッキーだった。と、今の私自身が思うからだ。自殺を真っ向から否定する態度からこそ、自殺大国となって久しいこの国の社会が抱える問題や、若年層が感じる生きづらさに真摯に向き合えるのでは、ないのか?

TwitterでRTされTLに流れていくこの映画についてのあれこれを見ながら、その「嫌な感じ」は徐々に膨らんでいった。私はこの映画について何かを言おうとも、観ようとも思えなかった。

が、今週、関係者(なのかどうかは良く知らないが)と思われる方が、増田さんの生前のTwitterアカウントを紹介していた。それがRTにより私のTLに流れた。そこで、ずっと感じていた「嫌な感じ」が爆発し、Twitter上で思い切りDISってしまった。映画の観客は増田壮太に対し、何の思い入れも関係性も持たない人達だ(もちろん、監督・出演者・スタッフらは別だが)。その他者に増田さんの生前のTwitterを読ませて一体何になるのだろう。端的に下品だと思ったし、そういう増田さんの生の一部を、残された「他者」に示す形で宣伝として使っちゃいけない、と思った。倫理的に、である。ただし、作品をDISるというのは作品を観ていない者には与えられていない権利だ。なので、事後になって申し訳ないと思いながらも、本日、ポレポレで鑑賞した。

前置きが長くなってしまった。

本当に正直に。映画は「半分は」面白かった。面白いのは増田壮太という強烈なキャラクターとパワーを持った人間と、冨永蔵人という、これまた面白親近感キャラの織り成す、やり取りを映しとったドキュメンタリーパートの映像だ。音楽への道に鬼気迫り「真面目」に取り組む増田と、「生活」に傾きながらも増田の持つ音楽的カリスマに引っ張られる蔵人。その二人に共感/反発しながら、恐らく自身の問題と向き合いながらカメラを回す太田監督。その三人の関係性の変化は「ドキュメンタリー」そのものの本質的な面白さを存分に発揮している。個人的にも、こういう世界にいれば、自身の問題としても「痛さ」を感じる鮮烈な映像だ。ただ、増田はうつ病患者であり(映画の中では躁鬱に見えるが…)薬を定期的に服用している事も描かれている。その病気に対しての作り手側の無理解が発露してしまっているように見えるシーンも多い。結果的に増田は自殺を選ぶ。私はそれは「うつ病」が前提にある選択であったとしか思えない。音楽の才能、社会での生きづらさ、そういうものが背景として発症した「病気」。その重要性が全く描かれていないのではないか?

人が自殺した時、その人以外の人間は、この世界に取り残されるだけだ。死とは、どうにもならない、生き残っている人間との断絶でしかない。増田壮太という人間は、自殺によって人生を終えた。その事実がこの世界には残されているだけだ。

フィクションパートとして増田壮太の死後に撮影されたシーンは、太田監督個人の「セラピー」にしかなっていないように観える。太田が増田の死をどう捉え、どう乗り越えていくのか。彼の死にどう決着をつけて「自身の」生に向きあっていくのか。生前の彼を撮影していた太田が、その自己セラピーを「撮影」しなければならない理由はどこにあるのか。「映画だろ撮れよ」という扇情的な言葉は予告編にも使われている。私は、ドキュメンタリー映画という表現において、撮れないという倫理がスタッフに働くシーンこそ、本当の「作り手」が持つ「強さ」が現れる瞬間だと思っている。これを撮ったらいいシーンになる。でも撮れない。そういう葛藤そのものが、構図やブレやフォーカスに現れてしまうのがドキュメンタリーという手法だ。

虚構の世界の中で「ドキュメンタリー風」にスタッフが喧嘩するシーンも、正直観ていて辛かった。その喧嘩自体が「映画」を完結させるために、監督自身のコントロール下に置かれたシーンに観えた。それは映画を「作っている」者達のための、そしてこの映画を観に来ている観客である私の一時的な高揚のためのシーンだ。太田個人の情動を意識し、どこか冷静に演技「させられている」蔵人とスタッフ達。確かに「強さ」を感じる。人が争っている。カメラが揺れる。カメラマンが介入する。怒号が響く。「強い」。でもそれは表面的な虚構が持つ強さだ。演劇的と言ってもいい。それは映像にすけて観えている。虚構の強さと、増田壮太の両親の言葉が持つ「強さ」とは質が異なる。この映画とは全く無関係な新しい命の誕生が持つ「強さ」とは質が異なる。その「真実“性”」のための「強さ」がこの「作品」のために本当に必要な事だったのか。

この作品は増田壮太のドキュメンタリーではない。この映画はフィクションパートも含め、太田個人のセルフドキュメンタリーになっている。それは、上手く言えないが、表現としてどうなのよ、と思ってしまう。いいのかよ、と(すいません監督が同年代だと思ってつい言葉遣いが…)。表現って「自己表現」じゃないだろうと思っているからだ。映画って「自己」なんて小さな物を表出するための手法じゃないだろうと思っているからだ。

先のDirector’s Statementは「「自殺」という生き様を選んでこの世を去った若者と残された者たちの日々から、より生きやすい社会づくりについて、もう一度、あなたと考え直したくてこの映画を作りました。」との言葉で終わっている。「増田壮太という友人が死んだ。」その事実を淡々とドキュメンタリーとして構成する事で、このステートメントは果たせなかったのだろうか。一人の友人が死んだ。それだけで「作品」は成立するとどうして思えなかったのか。その事実だけで、観客は「生きやすい社会づくり」について考えられないのだろうか。

「映画を完成させてね」という増田の遺書に残された太田宛の言葉。その言葉に、このセラピーのための虚構の存在意義をアリバイ的に負わせているように見えてしまう。なぜ、増田と蔵人と太田、その三人の生前の映像だけで映画を作らなかったのかと思えてならない。時系列にドキュメンタリーパートだけで映画を構成する事が「増田壮太の死」を消費することになると考えたと、WEB上で読んだ。この言葉にも強い違和感を覚える。私は、フィクションパートによって、実際の人間の死を「監督の頭の中(それは「自己」という小さな入れ物)」で虚構化し、意味化するという作品制作の行為が、結果として彼の死を消費することになってしまうのではないかという危惧を覚えた。

増田壮太の生前の映像や、両親のインタビューと並んで挿入されていくこれらのフィクションパートによって、この映像群は非常に上手く、観客を飽きさせない仕掛けを所々に持った、そして太田監督の若い感性が取り込むSiriとの会話などのケレン味がある(私は、笑ってしまった)「映画」にされてしまう。それで、本当に、いいのだろうか。

太田監督やプロデューサー陣含め、作り手側が、ここに書いたような問いに、私のような一観客とは比較にならないほど深く、真っ向から向きあってきたのだろうし、映画が公開された後も向きあっているのだろうなと想像される。「そんな事を考え尽くした」上での作品だという事も、ささやかながらもドキュメンタリー映画を作る側として関わる身としては重々承知している。でも、だから、こういう事を、そのままの気持ちで書いておきたいと思った。

まとまりのない文章で申し訳ない。太田監督個人を含め、制作側の皆さんへの悪意のようなものは一切ない。今日の昼の上映後、予定にはなかったようだが、太田監督が舞台挨拶をしていた。誠実そうな方だなと感じたし、この映画を作る側にいる人達が軽薄だとか誠実でないとは全く思わない。ただ、一人の観客として、この映画を観て思った事を、書いて残しておきたいと思った。

この文章をたまたま読んで、まだ観ていないという方は、是非劇場で観て下さいね。

俺はこの曲、すげー好きですよ。 https://www.youtube.com/watch?v=mHlbELrI3ZA

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