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いせ辰とファン・ゴッホ美術館のクレポン

殆どの人はイセ辰と聞いても何のことかわからないと思います。
しかし、千代紙ファンには有名です。
ネットで、紙の温度人形の鯉徳でも売っている江戸時代から続いている会社です。

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本店は東京の台東区にあります。
でも、面白いのは横浜の中区山手のお店かも知れません。

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ここの店は横浜の観光スポットになっているようです。
古民家を改良した店なので風情があります。
でも、ここで書きたいのは千代紙のことではなく、いせ辰が売り出した錦絵の玩具絵のちりめんのことなのです。

ファン・ゴッホが浮世絵の影響を受けて絵を描いたということはかなり有名になったと思います。
しかし、ファン・ゴッホが浮世絵よりも愛し、影響を受け、そこから新しい技法で絵を描いたちりめん浮世絵(クレポン)のことを知っている人はほとんどいません。
ファン・ゴッホ美術館にはちりめん浮世絵(クレポン)が19枚あります。
その19枚の内、5枚はいせ辰の玩具絵だったのです。

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上の赤枠の中がいせ辰のクレポンです。
赤枠の上の4枚は大判浮世絵で、これもファン・ゴッホ美術館に所蔵されています。
下にそのクレポン5枚を載せます。
最後の2枚にはいせ辰と入っていませんが廣瀬辰五郎と入っています。
廣瀬辰五郎はいせ辰創始者です。
このクレポンを作ったのは2代目廣瀬辰五郎です。

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ちりめん浮世絵(クレポン)は江戸時代(1860年代)から少数ですがヨーロッパに渡りそれを手にした人は宝物のように大事にしました。

浮世絵の最大の理解者で作家、評論家のゴンクール兄弟は、1861年6月8日の『日記』に、パリの「ポルト・シノワーズ」で、日本のデッサンを手に入れたと書いています。

【織物と見紛うような紙に印刷された日本のデッサン(クレポン)を手に入れた[......]。私は、これまでに、これほどまでに非凡で、幻想的で、見事に詩的な芸術を見たことがなかった】

また詩人のボードレールは「朱色のさおぶちで縁どられた、子羊のなめし皮のようなものの表面に見られる(クレポンのこと)この効果のすばらしさといったら、私がそれを保障します」と書きました。
ところがファン・ゴッホが集めた1887年頃は3スーと言う、今の日本の価値でいえば150円くらいで売っていたのです。

ファン・ゴッホ書簡510                640
いまクレポン【版画】は1点3スーだ。例の90フランを払うと、手もとにあるものの他に、100フラン分来るから、新しい当方の手持は660点のクレポン(英語訳、日本語訳は650点)となる。
(French)
Maintenant les crepons nous coûtent 3 sous piece. pour 100 francs, si nous payons les 90 francs, en outreque tout ce qu’il y a nous reste, on aura un nouveau stock de 660crepons.

また、ちりめん浮世絵は玩具であり外国人のお土産として人気があったが芸術的な価値はない、と言うのが明治時代から現代までの評価なのでした。

吉田映二著 『浮世絵辞典』 画文堂 より
これは普通に摺り上げた版画を棒に巻いて揉んで縮めたもので、画面一面を細かい縮緬皺としたもので、大判錦でも中判位の大きさに縮まっている。これは版画としての鑑賞でなく、ひとつの工芸品または玩具であって、色調描線もまったく別物となってしまう。】
これは天保(1830年代)以後行われたもので、 草双紙の表紙に用いられたものがあるが、一枚絵にもしばしば用いられ、役者の大首絵や広重の「江戸百景」にも縮緬絵がある。 明治時代になると、外人がこれを好むことから輸出向きに製作したものも生じた。】
ただし、この時代には手で揉んだ原始的な手法ではなく、機械を用いたらしく、その縮緬皺も細かいけれど一様で、なんらの面白味も味わいもないものである】

青木千代麿著 『ちりめん絵とちりめん本』 紙の博物館 より
発祥は文化文政頃と伝えられているが、確かなことはまだ調べがついていない。
ちりめん絵や殊にちりめん本は、幕末から明治にかけて来朝した外人達に珍しがられた。
機を見るに敏な商人は、わが国のお伽話しや風俗等を英訳し、これをちりめん本と称し売り出した。この異国の溢れた本は外人達の土産物として好評を博した】

このように、ゴングールやボードレールが絶賛したちりめん浮世絵に対し、日本では価値がないと批評されるのはなぜでしょう?
ファン・ゴッホだけではなくマチスやボナールと言った色彩派の画家たちもクレポンを愛し、その影響を受けて絵を描いたのに、日本では芸術品では無く玩具扱いだったのです。

マチスの『画家のノート』から抜粋
【「色彩はそれ自身で存在し、特有の美を具えています。そのことを私たちに啓示してくれたのはド・セーヌ街で何スーかで買っていた日本の縮緬絵(クレポン)です 。
(中略)ファン・ ゴッホも縮緬画には夢中になっていたでしょう。ひとたび日本の縮緬画によって目の曇りを拭い清められた私は本当に色彩をその感情表現力のゆえに受け入れることができるようになったのです」(A rtPresent, no2, 1947) 】

マチスはこれほどクレポンを評価していたのです。私は長い間、マチスやファン・ゴッホの評価と吉田映二氏の評価の大きな違いの謎の答えを探していましたが、その答えがいせ辰だったのです。

ここでいせ辰の歴史をいせ辰のホームページ人形の鯉徳のホームページから抜粋をします。
いせ辰は、錦絵などの版元だった江戸"伊勢惣"から独立した広瀬辰五郎氏(初代辰五郎)により、千代紙・おもちゃ絵の版元として1864年、東京神田に創業。
千代紙とは布地などにある伝統的な文様とか、自然や時代の生活をテーマにした絵機微で、奉書紙に木版手摺りしたものをいいます。

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いせ辰代々

初代辰五郎は、鷺沼村(習志野市)の農家から江戸日本橋、堀江町の団扇問屋、伊勢屋惣右衛門に奉公し刻苦便励の結果のれん分けをしてもらい、同じ堀江町の団扇河岸に錦絵と団扇制作の問屋を開いたのが元治元年(1864年)。江戸末期の世の中で頂いたのれんを守った。

二代目辰五郎(芳太郎)は江戸、日本橋に育っただけに何事にも自負するところがあり、父とともに苦楽を分け、明治三年(1870年)江戸名所地図に描かれた神田弁慶橋(元岩井町19番地)に店を移し、文明開化に注目すると、築地居留地や開港の横浜外国商館に千代紙細工や錦絵そのほかを売り込み、商売に活路を開き、日本の紙芸を遠く欧州に輸出した。その間、河鍋暁斉、柴田是真という著名浮世絵師との交際も深く、その公私にわたる生活趣味は三代目に引き継がれた。

三代目辰五郎(鐘三郎)は明治十一年生まれの神田っ子。幼児より錦絵蒐集に魅せられ、また歌舞伎好きで、劇聖九代目団十郎、五代目菊五郎その他名優揃いの観劇は欠かしたことがなかった。江戸趣味のこと、芸能に関するものに私生活全てをかけたといってよい。同好の士、清水晴風、淡島寒月、井上和雄、石井研堂等の交遊、錦絵の鑑定に一見識を持っていた。異色の自主出版として石井研堂と共著「錦絵の改印考証」「地本錦絵問屋譜」そして、江戸千代紙代表作の復古的出版「千代紙百種、鶴の巻」「宝船集」がある。初代から引き継がれた江戸千代紙作りに専念するかたわら、二代目を受け千代紙と同じ手法で和紙に江戸風俗を手摺りにしたナプキンを作りドイツ系の商館を通じ欧州に売り込み、店も大いに発展した。

三代目辰五郎の時代には江戸千代紙制作の手法をアレンジし、日本の名所を手摺りにしたナプキンなどを輸出し大いに発展。(※その影響もあってか近年、ゴッホ作"ダンギー爺さん(Le Père Tanguy)"という題名の絵画の中に、いせ辰が制作したナプキンの図柄が描かれていたことが発見され、話題となっています。)

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なんと有名なタンギー爺さんのバックの浮世絵がいせ辰のクレポンだったのです。
この左下の浮世絵は長い間、歌川広重 (2代目)の「東都名所三十六花選 入谷朝顔」だとされていたのです。

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しかし、似てはいるけどそっくりではありません。
アエラ2005年58号によると『1999年のある夜、フランスの画商、ヤン、リュールは、いつものように市で浮世絵の束を買い求めて自宅に戻り、ぱらぱらとめくって内容を軽く確認した後に床に就いた。だが、うとうとし始めたその瞬間に突然、一枚のちりめん絵が意識の中でクローズアップされた。はたと目を開いたリュールは飛び起きて、再び束を手に取り、慌ててめくりなおした。
「ああやっぱり」
意識の片鱗にへばりついていたタンギーの右ひじ後方の花の絵は、リュールの手元にあるちりめん絵の束の中に紛れた一枚の朝顔の浮世絵と、ぴったり一致したのだ。
このちりめん絵が、後にアルルのゴッホ展で展示されたことを知った日本女子大の及川茂教授(比較文化論)らの仲介で、浦上記念館へ。』
と言う風に今は浦上記念館にあるようです。

明治維新は1868年です。
いせ辰の創業は1864年なので池田屋事件の年です。
新撰組の頂点の年ですが幕末でもあります。
浮世絵の世界で言えば、幕末の浮世絵の三大巨匠の三代豊国が亡くなったのが1865年なので、ほぼそのころです。
他の二人は国芳が亡くなったのは1861年で広重が1858年です。
幕末の三代巨匠の時代が終わりその弟子達の時代に完全に移った頃でもあります。
そんな年にいせ辰は生まれ、団扇と錦絵制作を始めました。
錦絵とは多色刷りの浮世絵のことです。
いせ辰は伊勢屋惣右衛門から独立したわけですが江戸時代の浮世絵の版元にその名前はありません。
伊勢と名のつく版元は多く25もあります。
私のクレポンコレクションの中にも伊勢兼の版元のが何枚かあります。

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またいせ義もあるのですが、いせ義と言う版元はありませんのでいせ長かもしれません。

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いせ辰の名はありませんが廣瀬辰五郎の名で版元の名として記載はされています。
廣瀬辰五郎は初代いせ辰です。
廣瀬辰五郎のクレポンも私は持っています。

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いせ辰のクレポン(ちりめん浮世絵)は33枚持っています。

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浮世絵は海を渡り欧米にほとんど行ってしまった、と殆どの人は思っているでしょうが、それは正解です。
今、日本にある浮世絵のほとんどは里帰り品なのです。
では、欧米で浮世絵人気はいつから有ったのでしょうか?
殆どの研究家は1867年のパリ万博に浮世絵が出品してからだと答えるでしょう。
はたしてそうなのでしょうか?

    ジャポニスム

江戸は黒船来航により横浜港を開き鎖国は幕を閉じ、1867年のパリ万博には浮世絵も出展されジャポニスムブームが起きました。
この万博で出品された浮世絵は、浮世絵文献資料館によると5500枚だと言われています。

浮世絵文献資料館より抜粋
【錦絵の収集を担当することになった外国奉行の依頼を請けて、江戸町奉行が浮世絵の供出を呼びかけた町触である。
肉筆・版画・版本を問わず、絵柄も美人画・風景画、加えて春画も可という間口の広い呼びかけであった。役所仕事であるから、収集品のリストは作成されたとは思うのだが、実際どの程度集まったものかよく分からない。ただ下掲慶応三年二月付「博覧会出品目録書」によると、実際にパリに贈られた浮世絵関係については、『江戸名所図絵』や『北斎漫画』のような版本類が合計28部、錦絵が5500枚と記載がある。しかし肉筆類については出品されたとは思うのだが、画題や画工名は分からない。また春画が実際に送られたかどうかについてもこの目録上からはよく分からない。なお幕府(外国奉行)が浮世絵師に命じて画かせた肉筆浮世絵は別にあり、これについては絵柄や画工名が分かっている。(下掲「四 浮世絵画帖の件上申書」参照)ここに云う肉筆は市中から調達したものである。ところでこの豊国は元治元年に亡くなった三代目で初代国貞である(四代目豊国は明治三年頃二代目国貞が襲名した)〉】

また、芳艶、芳幾、国周、芳虎、芳年、立祥、芳員、貞秀、2代国貞、国輝らに浮世絵の肉筆画を描かせ画帖にしたようです。
そして、徳川昭武が錦絵200枚を贈答用として持って行ったそうです。
内訳は、源氏絵七十九枚 江戸名所絵三十枚、東海道絵五十五枚、富士各(ママ)所絵三十六枚です。


この万博でジャポニスムブームは起こり、浮世絵ブームも起こったかもしれませんが、前衛画家による浮世絵ブームは一段落した頃だと思います。
マネにしろ印象派の画家にしろ、浮世絵の影響からの絵は、1867年にはもう描き終えていたのでした。
ジャポニスムという言葉は美術評論家ビュルティが1872年に言いました。
ジャポニスムというと、浮世絵が主体のように思いがちですが、浮世絵技法とジャポニスムはわけて考えた方が良いと思います。
ジャポニスムは日本全般の趣味で、欧米人が熱狂しましたが、浮世絵技法は前衛芸術家に影響を与えました。
モネが1878年に『ラ・ジャポネーズ』という絵を描きましたが、これはジャポニスムの影響を受けて描いた絵です。
浮世絵技法の影響の絵ではありません。

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この『ラ・ジャポネーズ』のバックにはたくさんの団扇があります。
これは重要ですから覚えておいてください。

この1867年のパリ万博でジャポニズムは起こりましたが、浮世絵人気が爆発ということはありませんでした。
特に、後に印象派の画家と呼ばれる前衛画家たちは1860年前後から浮世絵と接し、その影響で新しい絵画を生み出していたからです。
1860年代に浮世絵を売っていた代表的な店はドゥソワ夫妻の店です。
1860年代前半には、浮世絵を前衛画家たちに売る店(代表的な店がドゥソワ夫妻の店)がパリにできていました。
それは、横浜港が1859年7月1日(安政6年6月21日)に開港したことが大きいと思いますし、ドゥソワ夫妻は日本に行っていたのですから当然、浮世絵も持って帰れたわけです。
開港したからと言って直ぐに貿易が始まったと言うわけではないでしょうが、1862年にドゥソワ夫妻の店には浮世絵が届くシステムができていたと思います。
つまり、パリの第1次の浮世絵人気は前衛画家たちの人気であり、とても小規模のものでした。
日本の伝統美術とヨーロッパ美術におけるその影響著から抜粋
【1861年に 横浜港から輸出した品物の中でもっとも多い商品は、生糸で68%、 次いで茶17% 、銅 4% 、そして漆器1% で、残りの商品はそれぞれ1% 以下でしかなかったのです。
特に絵画や版画は最も量が少なかったようです。
なぜならコレクターが輸出しようとした浮世絵はほとんどが古浮世絵で輸出する時の値段がはっきりせず税金を決めるのが大変だったからです。
それに比べ、新品の浮世絵とか団扇は輸出が楽だったようです】
ここに書かれているように1860年代に輸出されたのはごくわずかの幕末の浮世絵と横浜絵、団扇だったようです。
『ラ・ジャポネーズ』に描かれたたくさんの団扇もそれを表しています。
1867年のパリ万博で6000枚くらい浮世絵がパリに渡りましたが、それは特別に多い数ではありません。
何しろ欧米に渡った浮世絵は数十万枚から100万を超えるくらいあったからです。
1万枚にも満たない枚数で浮世絵人気が爆発したということはないでしょう。
一部の熱狂的なファンが爆発したならわかりますが。
イセ辰も1864年に創業しましたから、ヨーロッパで浮世絵人気が爆発したのなら大儲けをしたでしょう。
しかし、大爆発を起こすのは1890年代なのです。
1867年のパリ万博から30年ほど後の時代なのです。
1890年代の浮世絵の大爆発の前にファン・ゴッホはパリに来ました。
そしてビングの店で1万枚の浮世絵を見てその中からクレポンを探し、現在ファン・ゴッホ美術館に19枚のクレポンがあります。
1万枚の中にたった19枚しか無かったかと言うと、そんなことはないでしょう。
友人のベルナールを始め、周りの人に上げてしまったのもかなりあると思います。
オーヴェールでのファン・ゴッホの葬式の時に、弟のテオが「壁に飾ってあるファン・ゴッホの絵を好きに持って行って良い」と言った時にクレポンもあったらしく、ガッシェ医師の息子がクレポン2枚を、持って行ったということもあったそうです。

下と同じようなクレポン2枚をガッシェ医師の息子が持って行ったようだ

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それでもファン・ゴッホが集めたクレポンは、全部で数十枚と言ったところでしょう。
1万枚から見ればとても少ない数です。
ビングの店に大量に浮世絵があるということは浮世絵人気が爆発したのかと思いがちですが、そうではなく、まだ爆発はしていませんでした。
特に幕末や明治の浮世絵は3スーから5スー(150円~250円)と言う安値で売られてても一般には浸透してませんでした。
だからこそファン・ゴッホはビングの店から委託で浮世絵を預かり商売しようともしていたのです。
ただ、1883年にビングが発見した古浮世絵(1700年代の浮世絵)はじわじわと人気は出ていました。
この古浮世絵の発見は、日本に来たお雇い外国人のおかげなのです。
明治維新で欧米に追い付こうと明治政府はたくさんのお雇い外国人を日本に迎えます。
お雇い外国人は日本で勤務が終われば自分の国に帰りますが、その時にお土産を買って帰りました。
そのお土産に浮世絵は軽くてかさばらないので最適でした。
浮世絵は絵草子屋で売っていましたが、中古の浮世絵は夜店で売っていました。

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その夜店では中古の浮世絵を1枚1銭で売っていました。
新刊の浮世絵が1枚1銭~5銭だったので1銭もお金を出すなら新刊を買った方が良いと言われそんなには売れていなかったようです。

『紙魚の昔がたり』 から抜粋をします。
【竹田恭次郎の叔父(元禄堂、吉田金兵衛、通称吉金)は明治中期の浮世絵商の草分けの一人で、もともとは銅の原板を金槌で叩き、薄く引き伸ばす商売をしていました。
明治10年に鹿児島戦争があり、その後不景気になってしまったので、仕事が無く、そこで前から趣味であった錦絵(浮世絵)や三文本(赤本)を夜店で売ることにしたのです。
明治12~13年の頃、そこに外国人でベンケイさんと言われている人が錦絵を買いに来ました。
ベンケイさんとはフランシス・ブリンクリーのことで、ブリンクリーが言いづらく、ベンケイと呼ばれていました。
そのベンケイさんが叔父の錦絵を見て「コレ1枚イクラデスカ」と訊いたのですが、言葉が分からないので指1本を出したところ錦絵を50枚抜き取り5円を払いました。
指1本とは1銭のつもりだったので50枚で50銭、おつりを4円50銭、返さなければならない。
どうしようと思った時にはベンケイさんはスタスタ去ってしまいました。
まごまごしていたので、どうしようもなく店じまいをして早々に帰ってしまいました。
これは儲けたと思いましたが、また会うと厄介なので、今度は違うところで店を開きました。
当時は、夜店を開くところはいくらでもあったのです。
するとまたベンケイさんがやってきて30枚ほど錦絵を取り出して3円置いて帰っていきました。
そこで、これは1枚10銭で買ってくれていると分かったのです。
次にベンケイさんが来たときは、こちらも落ち着いていたのでどんな錦絵を買うのか見ていたら、全て歌麿でした。

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ベンケイさんは「これいくらでも買います」と言うので「揃えておきますから毎日買いに来てください」と言いました。当時は古錦絵がいくらでも買えたのです。買えるところは屑屋の建場で屑物が集まるところです。屑屋の建場は下谷にも浅草にも神田にもどこにでもあり、おそらく五町か十町の間に一軒はありました、紙屑類の問屋です。古浮世絵は、この問屋から千住の紙漉場に持っていって窯うでにしてしまうのです。だからその建場に、荒縄で縛った古錦絵がいくらでもありました。古錦絵は1枚1枚で売るのではなく1貫目15銭か25銭で売っていました。古錦絵は画帖になっており1貫目で100~200枚古錦絵がありました。】

ここに書かれているように、明治12~13年の頃は中古の浮世絵は買い手もいなかったので屑屋が回収して千住の紙漉場に持っていって窯うでにしてしまっていたのです。

   興福寺の五重塔が15両で落札

     (現代価格で100万円もしない)

日本が明治時代になると日本の美術品は海外に多く流れるようになり、特にお雇い外国人たちはそれに寄与したはずです。
前記した、ベンケイ(フランシス・ブリンクリー)もお雇い外国人でした。
ベンケイが夜店で歌麿を探していた時には、まだ浮世絵を買いあさる外国人は少なかったと思います。
だから、ベンケイに売るために浮世絵を扱っている商人は浮世絵を集めました。
同業者は、そんな浮世絵どうするんだと不思議がっていましたから、当時、ベンケイ以外の外国人が浮世絵は漁っていなかったと推測できます。
ただ、このベンケイよりも前にテオドール・デュレが1871年に日本に来て浮世絵を買っています。

その話を渡邊 啓貴氏の『日本文化ブームのルーツ ジャポニスムの時代 』から抜粋します。
【アンリ・セルヌスキ(チェルヌスキ美術館の基礎)とテオドール・デュレ(デュレは、アンリ・セルヌスキとともに、アジア旅行に出かけ、1871年10月25日から1872年2月まで、当時外交官以外の外国人の入国が禁止されていた日本に滞在した。歌川広重の浮世絵に描かれた東海道を旅し、日本美術への関心を深めるとともに、浮世絵を収集した。このことは、後のフランスにおけるジャポニスム発展に寄与することとなった)を嚆矢(こうし)として、エミール・エチエンヌ・ギメ、ジークフリート・ビングらが1871年から80年にかけて来日し、直接買い付けを行なった。】

また、エミール・エチエンヌ・ギメはフランス政府より「極東学術調査」ということで日本、中国、インドの各国を回り宗教を調査しました。
明治9年(1876年)に来日したギメはあらゆるものを買い、現在、その収集品はフランスのギメ美術館で展示されています。
そしてビング(ファン・ゴッホが浮世絵を買った店のオーナー)も明治の初め、1875年に日本に来ているのです。
余談ですが、ファン・ゴッホの伯父のヨハネス・ファン・ゴッホは1860年と1868年に来日しており、伯母の夫アブラハム・スフラウェンは長崎海軍伝習所で教えていた人物なのです。
話を戻しまして、ファン・ゴッホに浮世絵を売っていたビングは、1882年に歌麿などの1700年代の古浮世絵を探し当てています。
ベンケイが夜店で吉田金兵衛 が売っていた歌麿を買ったのが明治12~13年(1879~1880年)です。
ここから推測するとベンケイにより古浮世絵の値が上がり始め(明治12~13年)、多くの露天商が古浮世絵を売り始め、それをビングが見た(明治15年)のではないかと考えます。
ある意味、ベンケイが古浮世絵を救った人物といえます。
明治初期は、明治維新が行なわれたので、参勤交代が無くなり、廃藩置県が明治4年に行われました。
そのため、地方の大名は江戸に大きな屋敷を持つ必要が無く、また持つ財力もないので、財産を処分していきます。
このときの処分が古道具屋に国宝級のものが山と積まれた時代で、それを狙って外国人が買い集め、それが世界の東洋美術館に収まっているのです。
廃藩置県の他に廃仏毀釈による寺の仏像などもたくさん売りに出されました。
何しろ国宝級でも庶民が買えるレベルだったのです。
国宝・五重塔(興福寺の五重塔)も一時売りに出されたと言う伝承もあります。

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東京美術大学第5代校長を務めた正木直彦氏の『回顧七十年』から抜粋します。
【廃仏毀釈の際にこの興福寺の五重塔を取り壊すということで入札が行われたと言うのだ。これをある人が十五両で落札した。廃材を何かにしようと考えたのだろう。ところが壊そうとすると足場を組むなど余計な費用がかかるため落札者が逃げてしまった。仕方がないのでときの奈良県令で廃仏家として有名だった四条隆平は、五重塔の周りに薪を積んで焼き払うように命じた。しかしながら類焼を恐れた町民が、焼き払うのはどうかご勘弁願いたいと愁訴したため、困った四条は火を付けることもできない。やがて四条が県令を辞めると命令はさたやみとなり、五重塔は命拾いをすることになったという。】

もう一つ廃仏毀釈のエピソード。

高村幸太郎の父、彫刻家、高村光雲の『幕末維新懐古談』から抜粋。
【1875年、羅漢寺の維持管理が困難になり蠑螺堂は取り壊されることになる。御堂の中にある百羅漢は売りに出され、これを買ったのが古金買いを専門とする下金屋だった。観音の彫刻にはいずれも金箔が存分に使ってあるから、火をかけて焼き、残った灰をふいて残存する金を採ろうと言う算段である。
噂を聞いた光雲が駆けつけ、何とか燃すのを思いとどまってくれと頼むが、若造の話を一蹴する下金屋であった。そこに光雲の師匠の高村東雲が駆け付け交渉したら下金屋は値段を吹っ掛けてきた。結局、一体あたり1分2朱、5体で1両3分2朱(30円)を払い引き取れた。しかし残りの九十五体は焼かれてしまった。】

明治時代に格安で日本の美術品が渡ってしまったエピソードを『流失した日本美術の至宝』から抜粋。
【先の光雲の話によると名人の手による観音像一体の価格が大正11年の価値で6円、現在価格だと3万円程度だった。
雪舟の印金表装の掛物が、最も高いものでも1円50銭で買えた。
5円の値が付いた円山応挙の大幅はとんと売れずに残ったままである。
蒔絵を装飾した、縁が錫製の香合が、50銭から1円。
蒔絵の硯箱を燃やして地金を採る道具屋もいた】

明治政府は廃仏毀釈も推し進め、その結果、寺から、これも国宝級の仏像が古道具屋に山と積まれ、これも外国人が買い集め、世界の東洋美術館に収まっています。
だから、外国の商人は浮世絵を求め日本に来たのではなく、これらの工芸品を求め日本に来て、ついでに浮世絵も買ったのです。
おそらく、ビングの初来日の時でさえ、1700年代の古浮世絵は夜店で売っていたはずです。
何しろ、古浮世絵を扱う浮世絵の店はこの時期にはなく、夜店、もしくは古道具屋くらいにしか古浮世絵は売る場所がなかったのです。
普通に考えれば、浮世絵の古いのは古道具屋(骨董屋)にあると誰もが思いがちなので、そこを探すのが順当なのでしょう。
確かに、古道具屋にも浮世絵は置いていたでしょうが、それほど多くは置いていなかったはずです。
現代でも、骨董店で浮世絵が売っているところはまれなはずです。
浮世絵は、新品なら絵草紙屋で売っており、古いものは夜店だったのです。
そして、その夜店の中から、浮世絵を本格的に売る者が出てきました。
それに夜店では浮世絵より古本の方がメインだったのです。
それ故、古本屋が浮世絵を扱うようになり、その古本屋から浮世絵専門店も出てくるのです。
その古本屋にセドリと言う、本屋を駆け回り、良さそうな本を買い、他の本屋に売る商売をしている人たちがいました。
荷物を背負い、歩き回る人たちが古本以外にも浮世絵が面白いとなり、セドリから浮世絵を扱う人も出てきました。
つまり、古道具屋よりも古本屋や夜店の方が浮世絵はたくさん売っていたのでした。
明治の初めに来た外国人は廃藩置県、廃仏毀釈により古道具屋に詰めかける外国人が多かったでしょう。
だから、夜店で売る古浮世絵を見つけることができなかったのかもしれません。

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ちょっと横道にそれましたが、この明治12~3年頃(1880年)はとても重要なのです。
お雇い外国人が浮世絵を買い始めたので浮世絵人気が出たのです。
『お雇い外国人は延べ3000人ほどで、ピークの明治9年(1876年)には500人以上が来日している。いずれも極めて有能だったが、そうした人材を招聘(しょうへい)できたのは、高い給料を支払ったからである。』
お雇い外国人が浮世絵を買わなければ、浮世絵により印象派の革命は起こりましたが、浮世絵が世界的な美術品になることはなかったでしょう。
浮世絵と言えば北斎の『神奈川沖浦浪』ですが、おそらくこの浮世絵も有名にならずに終わったでしょう。
何故なら、1880年、富岳三十六景はまだパリに渡っていなかったからです。
そんなことはない、北斎は印象派の画家の誰もが認めていた浮世絵師だという人も出てくるでしょう。
それは間違いではありません。
この1880年頃でいえば、浮世絵師で有名だったのは北斎と広重です。
しかし、北斎で有名なのは『北斎漫画』と絵入り本の挿絵だけだったのです。
マネを始めとした印象派のメンバーが目にしたのは北斎漫画と広重を中心とした幕末の浮世絵だったのです。
1867年のパリ万博のときも広重の次の世代の浮世絵しかパリに運ばれていないのです。
ベンケイが1700年代の歌麿を買い占めたおかげで他の1700年代の古浮世絵も売れるようになり、屑屋から回収した浮世絵も古浮世絵ばかりではなく幕末や明治の浮世絵も大量にあったのでしょう。
そしてそれらをヨーロッパにたくさん輸出をし始めたのです。
ただ、幕末や明治の浮世絵はヨーロッパ人に人気がなく、売れゆきもそれほどではないため、これ以上送ってくるな、なんていうこともありました。
古浮世絵は店の見える場所にはおかず、奥の部屋で特別なお客だけ見せるか、お客の家に行って見せるかしていました。
それでも1880年代は、古浮世絵を1枚、数万円で買えました。
それが1890年代からどんどん値を上げ庶民には手が出ない値になっていくのです。
但しそれは古浮世絵に関してです。
表を見ればわかる通り、大正に入った1915年でも幕末の浮世絵は1枚1銭なのです。
つまり、ほとんど値が変わっていないのです、そしてそれは現代まで続いています。
北斎の富岳三十六景も1895年にやっと揃いが(46枚)50円の値が付きますが、それは歌麿1枚と同じ値なのです。
浮世絵は高かったとほとんどの人が思ってしまっていますが(これは印象派やファン・ゴッホ研究者でもそう書いている人がいます)、1880年代まではそうではなく幕末の浮世絵に関しては物凄く安かったのです。
だからファン・ゴッホ美術館にある浮世絵は、ファン・ゴッホでも買えた安い浮世絵ばかりなのです。
しかし、浮世絵の値を上げたのは欧米の知識人と金持ちです。
芸術家たちではありません。
印象派の画家は幕末の浮世絵に影響を受け、ファン・ゴッホは安い値のクレポンに影響を受けたのでした。

   逆転の発想

もし、マネや印象派の画家たちが幕末の浮世絵ではなく1700年代の浮世絵を目にしたら絵画の革命は起こったでしょうか?
現代の人は歌麿や写楽、清長、晴信等、1700年代の古浮世絵の値が高いから良いものだと思っている人もいるのではないでしょうか。
逆に幕末の浮世絵は値が安いから価値がないと思っているのではないでしょうか。
そんなことはない、私は値に関係せず、1700年代の古浮世絵が良いと思っている、幕末の色彩のハデハデな浮世絵は好きになれない、と言う人もかなりいると思います。
そのような人は欧米の金持ちや知識人と同じ感覚を共有しています。
まあ、普通に考えればそう思ってしまうのですが、これが芸術家なら違ってくるのです。
幕末のハデハデな色彩に惹かれ、それよりももっとハデハデなクレポンの色彩に惹かれるのです。
特に1860年代から後の前衛画家たちの課題は色彩でしたので、ハデハデな浮世絵ほど惹かれたのです。
これを勘違いしている知識人、金持ちが多すぎるのです。
それ故、幕末の浮世絵は芸術ではない、退廃してしまった浮世絵、レベルが下がった浮世絵などと言う研究者が多いのです。
そういう人はポップアートは永遠に分からないでしょう。
マチスなどの色彩の絵も永久に分からないでしょう。
実は幕末の浮世絵こそ浮世絵の頂点に立つ浮世絵なのです。
もちろんお金の世界では知識人と金持ちが、幕末の浮世絵価値無しとしていますので幕末の浮世絵はアウトな浮世絵にされてしまっていますが。

        模造版画

欧米の金持ちが浮世絵に興味を持ち始めたころ、『紙魚の昔がたり』からの抜粋でも書きましたが、ベンケイに歌麿の浮世絵を売っていた吉田金兵衛が、歌麿の浮世絵が無くなってきた時に自分で浮世絵を作りベンケイに売ります。
その話を金兵衛の甥っ子が言っています。

『紙魚の昔がたり』 から。
【徳川時代の絵草紙屋が破産すると版木が売りにでます。
また、古板(版木)を売買交換する板市が文化文政以前からありました。
その板市が明治になっても引き継いでいました。日本橋の池の尾と言う席でよくあったそうです。
それを叔父が買いまして、摺ってベンケイさんのところに持っていったら1枚5銭で売れたそうです。
その頃は、歌麿も値上がっていて1枚1円になっていました。
これが今日の模造版画です。
その後、版木も作り(明治の後版と言うこと)歌麿12枚揃えを60銭で売りました。
今日では二版とか三版とか言われますが、そんなものはありません。再版だけです。】

つまり、浮世絵の偽物、模造版画は金兵衛によって作られたと甥っ子が言っているのです。
浮世絵にはその時代、時代に同じ絵を新しく彫って摺る模造版画とは違う復刻浮世絵があります。
現在でもそれは続いていてアダチ版画は有名です。

         アダチ版画☟

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これらの復刻浮世絵は偽物とは呼ばれません。
模造版画とは江戸時代に作られた浮世絵として売るものです。
だから偽物です。
ちなみに、アダチ版画の『凱風快晴』は売値が13,000円です。
これが模造版画なら6000万円なんて言う価格をつけるでしょう。
写真で見る限り木目がないと江戸時代の本物かアダチ版画か素人には分かりづらいと思います。
吉田金兵衛は模造版画を作るにあたって、いい加減な仕事はしなかったでしょう。
本物そっくりに作ったはずです。
インク(色材)も明治に使われたインクではなく江戸時代の天然の染料や顔料を使ったはずです。
だからこそ、浮世絵の目利きとなっているベンケイも買ったのでしょう。
ベンケイが見て偽物だとはっきりわかるようでしたら、ベンケイは安くても買わなかったはずです。
おそらくベンケイも、収集だけではなく、収集した浮世絵の転売も考えていたでしょうから。
しかし、これにより、古い浮世絵(初期、中期の1800年以前の浮世絵)、特に歌麿の偽物が世の中に出回り始めたのです。
それも、巧妙に作られていますから素人には分からない浮世絵が出回ったのです。
この模造版画のことでもう一つの例を載せます。

『流出した日本美術の至宝 ──なぜ国宝級の作品が海を渡ったのか (筑摩選書)』中野明著から抜粋

【フィッシャー夫妻が見た贋作の現場
フリーダは浮世絵の偽物について記している。それは昔の古い版木を用いて新作の浮世絵版画を摺るというものだ。古い版木でもていねいに色付けさえすれば、まだ何回かの刷りには耐えられるという。また、もっと手の込んだものになると、新しい版木に昔の図柄を彫るケースもあったと言う。これらの版木を用いて古紙に摺れば「古い版画」の出来上がりである。〈中略〉フリーダは「わたしたちは、この手の浮世絵が一箱にわんさと積み重ねられているのを目にしたことがあると述べている。〈中略〉吉金が複製版画を始めたのは1889年か90年頃だというから、フリーダが見たのも吉金の仕事だったかもしれない。】

実は、明治の日本の浮世絵商として一番有名な林忠正は、古い浮世絵の偽物がたくさん出回っていたために、本物の古い浮世絵には自分の判子を捺していたのです。
これは、先輩の若井兼三郎 が本物の浮世絵に判子を捺していたのを真似したのだと思います(林忠正の妻は自分が全て判子を捺し、若井の判子も自分が捺したと証言はしているが事実関係は分かりません)。
そして、その林忠正と交流を持っていたモネはその林忠正と若井兼三郎 (わか井をやぢ)の判子が捺してある浮世絵を手に入れています。
モネは古い浮世絵を手に入れるためにイギリス人で浮世絵の目利きの友人に鑑定をしてもらい、林忠正以外の店、例えばビングの店でも買っていたと思われます。
だから、モネの浮世絵コレクションを見ると、本物の歌麿の浮世絵がどういうものか分かります。

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このモネが古い浮世絵を収集していた時期に吉田金兵衛、もしくは他の誰かが作った模造版画も出まわっていたでしょう。
新しく作ったのだから、色は綺麗で摺ったばかりの浮世絵だったに違いありません(吉金の模造版画の紙は煤水をつけて古い紙に見せていました。他に緑茶に浸して古色の紙にみせるとか、江戸時代の紙を使っていました。江戸時代の紙を使った浮世絵は、現代で偽物判定をするのは難しいでしょう)。
本物なら絶対に欲しくなる浮世絵ですが、モネは、模造版画のことは林忠正や浮世絵の目利きの友人から聞いていたので、例え綺麗な浮世絵でも手を出さなかったのだと思います。
中野氏の著作では模造版画の成立が1889年か90年頃だと描かれていますが、そうなると林忠正の判子は分かりますが、わか井をやじの判子は時代がずれているように思えます。
しかし、1890年代でも浮世絵の仕入れに関して若井健三郎が林忠正を手伝っていたというのならありえます。
そうでなければ、1880年代には吉金以外が作った模造版画が現れたということになります。
実は、私は30年くらい前にヨーロッパの浮世絵コレクターを何人か訪ね歩いて、古い浮世絵をたくさん見せてもらったのです。
その時に、ある浮世絵コレクターが自慢して見せてくれたのが、ファッションピンクが鮮やかに載っている歌麿の浮世絵でした。
10枚以上あったように覚えています。
今まさに摺ったような浮世絵でびっくりしたものです。
浮世絵は外光にさらしていると色が落ちてきます。
だから、壁などに貼った浮世絵はボロボロになってしまいます。
美術館で浮世絵を展示する難しさは専門の人ならよく分かっていることです。
だから、今まさに摺ったように見える浮世絵が残っているなんて奇跡のように思えますが、実はそうでもないのです。
江戸時代、明治時代の日本の浮世絵コレクターは、買った浮世絵を桐のたんすなどに仕舞い、数がそろうと切手のアルバムのように、浮世絵をアルバムに貼って保存します。
それを画帖と言います。
画帖ならば光に触れないので摺った当時の色を保存できるのです。
だから現在でもきれいな浮世絵がたくさん残っているのです。
それだけ、浮世絵コレクターがたくさんいたのでしょう。
それでも、モネが浮世絵を収集していたのは1890年前後で、歌麿の浮世絵ならば100年くらい経っています。
だから多少の色落ちはしていたかとも思います。
もしモネが偽物の浮世絵を買ったのなら、モネコレクションに1枚くらいは色落ちしていないファッションピンクの歌麿があったはずなのです。
1890年前後のモネは綺麗な歌麿の浮世絵は高いので買えなかった、とも考えられるのですが、もし買えるお金が無くても、林忠正ならモネの絵と浮世絵を交換してくれるから、手に入れることは可能だったはずですし1890年前後は、歌麿の値段は数万円だったので買えたはずです。
林忠正やビングの店にはファッションピンクの歌麿は置いてなかった可能性もありますが、林忠正とビングで25万枚の浮世絵を日本からパリに持ってきたのですから、たいていの浮世絵はあったはずです。
だから、当時の浮世絵の目利きは模造版画を見極めることができ、ちゃんとした店は偽物を置かなかったのかもしれません。

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しかし、現在その浮世絵が出てきたら、偽物ではなく本物だと浮世絵の目利き、つまり浮世絵商は断定してしまうかもしれません。
江戸時代の和紙とインクを使われたら現代では区別のしようがないでしょう。

   粗悪な偽造品の浮世絵

模造版画の話はクレポンとは直接かかわりがない話でしたが、同じ版木の話で下記の話はクレポンと関係してきます。

「古錦絵の相場」から。
【江戸時代の錦絵が、新しく珍重せられるようになったのは、明治14~15年からで、今では一枚の錦絵に千円、二千円を擲つ西洋人も出て来て、大景気を呈している。
それで品不足となったので、評判のいい絵には、偽造品を拵える。といって沢山作り過ぎては分かってしまうものだから、三十枚か、せいぜい四十枚で、板木焼棄てる。しかし偽造品はやはり偽造品で、正のものと較べると、色がどきつく、紙がこわく、画面に味いを欠いた結果を来している】

吉田金兵衛の模造版画と話が似ていますが、結果としては全然違います。
吉田金兵衛が作った浮世絵は出来が良いので、明治時代ならば目利きでなければ分からなかったほどなのですが、今回の話は出来の悪い浮世絵なのです。
浮世絵の版木は売りに出されていたので、それを買い取った人が新たに浮世絵を摺ったが、摺師も版木の持ち主も素人同然なので、摺りが悪い浮世絵になったり、ひどい浮世絵は色版を重ねるときにうまく合わず、ずれていたり、紙もひどいのですぐに破けたりする浮世絵が作られた、と言うことなのです。
浮世絵を収集した人は、保存状態の悪い浮世絵とは違い、摺りのひどい浮世絵を見たことがあると思います。
その粗悪品の浮世絵を見たときに、後摺りだとこういうひどい浮世絵もあるのか、と思ったでしょう。
でも違います。
後摺りでもプロの摺師が摺ったのなら、そんなひどい商品は破棄するはずです。
摺りすぎてどうしても線が出ないようだったら、その場所を彫り師に頼んで修正するはずです。
日本の職人は仕事に対してのプライドはあったはずなのです。
だからプロの職人以外の素人が摺った浮世絵が摺りのひどい浮世絵なのです。
そんなひどい浮世絵でも買う人がいるとしたら、浮世絵を知らないお客さんだったでしょう。
だから、買う人も少ないので、おそらく完売はできなかったはずです。
そして、それだけいい加減に作るのですから、お金はかけません。
吉田金兵衛の作った浮世絵とは違います。
わざわざ版木も作りません。
安く買った古い版木を使い、安く摺って作ったのです。
そして、売れ残った浮世絵はクレポンにすれば売れるのではないかと粗悪なクレポンが誕生したのです。

とここまで脱線したようなことを延々と書いてきましたが、実はいせ辰の説明でこれらはとても重要なのです。

話をまとめますと、
①明治12~13年頃(1879~1880年)ベンケイさんが古浮世絵を1枚10銭で買い始める。
②江戸時代の錦絵が、新しく珍重せられるようになったのは、明治14~15年(1881~1882年)から。
③ビングが古浮世絵を発見したのは1882年、そしてその古浮世絵がパリに運ばれたのが1883年。
④徳川時代の絵草紙屋が破産すると版木が売りにでて、それを安く買い粗悪な浮世絵がたくさん出回ったのは、浮世絵人気が出始めた1882年以後だろうと推測できる。
⑤お雇い外国人がお土産品として選んだのがちりめん浮世絵(実はいせ辰のちりめん浮世絵)だったので粗悪な浮世絵をちりめんにして外国人のお土産として売り出した。
おそらくこの1880年から3~4年後に江戸では空前の浮世絵ブームがお雇い外国人のお土産として起きたのだと思います。
そして、いせ辰のクレポンもこのころ造られたのではと推測します。
初めに広瀬辰五郎のクレポンを載せました。
そこには明治11年(1878年)と記してあります。
古浮世絵ブームが始まる前です。

          廣瀬辰五郎のクレポン☟

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写真だけで見るとまあまあ良いクレポンに見えますがちゃんとしたクレポンから見ると程度が落ちています。
しかし、色は鮮やかです。
下のちゃんとした良いクレポンも1870年代の古浮世絵に比べればハデハデなのですが、上の廣瀬辰五郎のクレポンに比べれば落ち着いた色彩に見えます。

        ちゃんとした良いクレポン☟

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これがいせ辰のクレポンになるともっと程度が落ちます

         いせ辰のクレポン☟

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    イセ辰の印はないが同じようなクレポン☟

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この4点の源氏絵の3枚続きを見ると良いクレポンは細かいところも配慮してあり、作品としてのクレポンと言う感じがしますが、他の3点は単純化され、それゆえに色彩が浮き出て見えています。
廣瀬辰五郎のクレポンはいせ辰のクレポンよりは少しマシですが、良いクレポンに比べれば作品としての質は落ちます。
なぜでしょう?
質の悪いクレポンをイセ辰の店は売っていたのでしょうか?
実は、いせ辰の説明にもありましたが、いせ辰は団扇絵が専門の店で、錦絵も出しましたが、それは浮世絵の錦絵と言うのでは無く、団扇に描くような絵、玩具絵だったのです。
団扇に描く絵ならば色彩を前面に出し単純に仕上げます。
お金もそうかけません。
消耗品ですから、浮世絵のような作品とは違います。
つまり、目的が違ったのです。
ここでモネが描いた『ラ・ジャポネーズ』をもう一度載せます。

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バックの団扇の絵がいせ辰の絵と同じなのです。
浮世絵と似ていますが微妙に違います。
おそらく、彫りも摺りも微妙に違っていたと思われるし、ちりめんにするやり方も違っていたはずです(全く出来上がりが違うから)。
そして、版木を安く買い、外国人のお土産用として造った者たちも、このいせ辰の造っていた職人たちのところに仕事を頼んだのではないかと思うのです。
出来上がりが似ていて、違うのは版木を買って作ったのは版がボロボロだから線が薄くなっています。
それに比べイセ辰のクレポンは線がはっきりしています。
いせ辰では玩具絵として錦絵を廣瀬辰五郎の名で出していましたが、浮世絵ブームが来ると、いせ辰の名でたくさんの玩具のクレポンを出したのだと思います。
江戸時代、浮世絵は幕府に届け出を出して出版していました。
ところが玩具絵は消耗品ですから届け出はないので極め印もないのです。

             玩具絵☟

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最後の『イセ辰の印はないが同じようなクレポン』を見てください。
極め印どころか絵師の名前も題名も入っていません。
文字が一切入っていないのです。
団扇の中の絵と同じです。
浮世絵のクレポンではないから値段も安かったでしょう。
外国人が気楽に何十枚、何百枚と買っても大した金額ではなかったはずです。
ここで初めに書いた吉田映二氏と青木千代麿氏の見解の意味が分かったと思います。
これは版画としての鑑賞でなく、ひとつの工芸品または玩具であって、色調描線もまったく別物となってしまう。】
明治時代になると、外人がこれを好むことから輸出向きに製作したものも生じた。
ちりめん絵や殊にちりめん本は、幕末から明治にかけて来朝した外人達に珍しがられた。機を見るに敏な商人は、わが国のお伽話しや風俗等を英訳し、これをちりめん本と称し売り出した。この異国の溢れた本は外人達の土産物として好評を博した
確かにイセ辰のクレポンなら玩具なのです。
浮世絵商が生まれたのは1880年頃からです。
つまり、浮世絵商が生まれた時期のクレポンは、いせ辰のような玩具絵のクレポンか、版木を安く買って造った浮世絵が売れず仕方なくクレポンにした粗悪なクレポンだったのです。

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  大きいのが大判浮世絵で下の小さいのが良いクレポン☟

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そして、いせ辰の玩具のクレポンとか粗悪なクレポンがヨーロッパに輸出されたのです。
もちろん、輸出のときにちゃんとしたクレポンも混ざっていたでしょう。
ファン・ゴッホ美術館のクレポンを見ると浮世絵のクレポンは3枚あり、版木を安く買って安く摺りクレポンにしたのが1枚あります。
しかし、江戸のクレポンは1枚しかありません(上から3番目、一番左の堀尾茂助吉晴、1865年9月)。

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しかし、この浮世絵が出版されたのは江戸時代ですが、摺ったのが江戸時代なのかは分かりません(現物を見れば分かると思います)。
それにファン・ゴッホ美術館が後に手に入れたクレポンの可能性もあります。
ファン・ゴッホ美術館所蔵のクレポンの19枚のうち、江戸時代のクレポンは1枚あるか、もしくは全くなかった可能性もあります。
そのことから考えますと、ゴングールやホイッスラーが宝物としたクレポンは、1880年代にはほとんどなかったのでしょう。

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そして、ここに出てくるちりめん本は、明治18年(1885年)に長谷川武次郎が作った『ちりめん本』のことです。

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これは、外国人のお土産にちりめん浮世絵が人気があると、耳にしたか、それを見たかでしょうが、何しろ長谷川竹次郎が考え実行して造った本です。
ちりめん本は考えてからすぐ造れるものではないでしょうから、やはり1882~1885年あたりで、ちりめん浮世絵が外国人に人気があると出版界、浮世絵界でうわさが出たのでしょう。
その人気を作ったのがイセ辰のクレポンだったと思います。
もし、1882~1885年に江戸時代のちりめん浮世絵が市場にあったのなら、玩具とか後版などの話は出なかったでしょう。
確かにイセ辰のクレポンは新しく版を造っていますから、江戸時代にたくさん売れた源氏絵のクレポンだと、そのクレポンは後版で造った浮世絵をちりめんにしたと思ってしまいます。
これが江戸時代から続いている絵草子屋なら江戸時代のちりめんは同じ版の浮世絵から造ったと知っていたでしょうが、新興の浮世絵商たちですから、江戸時代のちりめん浮世絵の存在を知らず、
ちりめんの浮世絵=いせ辰のちりめん浮世絵だと思ってしまったのでしょう。
そしてその話が現代まで続き、浮世絵の第一人者の吉田映二氏さえ勘違いしてしまったのだと思います。
そして、普通に見ればいせ辰のちりめん浮世絵は一般的な浮世絵より大きく劣って見えます。
それ故、玩具扱い、と言うか、もともと玩具絵で造ったのだから当然なのですが、そのように定説がつくられ、江戸時代や明治時代の浮世絵のちりめんも同じだと思われてしまったのです。
それと、このちりめん浮世絵ブームを作ったのはいせ辰ではないかとも思うのです。
いせ辰は団扇が専門でしたでしょうが、もう一つ、千代紙も売っていました。
現在のいせ辰も千代紙がメインですから。
その千代紙をちりめんにしたのが外国人に受けたくさん輸出し、フランスではクレープと呼ばれていました。

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           千代紙のちりめん☟

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この千代紙のちりめんが人気が出て、いせ辰では錦絵のちりめんも出し、それが外国人に人気になりヨーロッパに大量のクレープが輸出されたのだと思います。
お土産として団扇が売っている店に外国人は行くでしょうから。
そして、広瀬辰五郎のクレポンが売り出されたのは明治11年(1878年)です。
ベンケイさんが古浮世絵の歌麿を買いあさる前です。
ですから、外国人がいせ辰の店にお土産を買いに行ったら、そこには広瀬辰五郎が作った錦絵と千代紙が売っていて、千代紙のちりめんが売れるので錦絵のちりめんを明治11年(もしくはその少し前)に造ったところ、好評だったのでたくさん作り、それが玩具絵と評されるちりめん浮世絵の誕生ではなかったのでしょうか。
外国人に錦絵の存在を教えたのも、いせ辰が関与していたかもしれません。
また、『二代目を受け千代紙と同じ手法で和紙に江戸風俗を手摺りにしたナプキンを作り』とありますが、この紙のナプキンは日本が世界で初めて作ったものです。
【・紙ナプキンは明治・大正時代にはこうぞ製の美濃紙を用いた。綿製のクレープした紙はもっぱら輸出向けだった。(オールペーパーガイド)
・紙ナプキンは明治初年に欧米から来日した貿易商が日本の和紙技術に着目して製造を依頼したことに始まる・・明治18年頃から岐阜を中心に美濃典具帖紙に木版手刷りの紙ナプキンの生産が行われ、盛んに輸出されるようになった。( 佐野熊ナプキン工場の軌跡)

岐阜の「紙兵」が明治12年に紙ナフキンの製造を手掛けたのが日本で最初とある。その数年前に岐阜市で勅使河原某が貿易商の着想による要望で創りだしたが、それはほんの内職的な製造であったようだとのこと。その後印刷つき紙ナフキンや、典具帖ナフキンが加工され、海外輸出も積極的に行われたとある。】
この紙ナプキンとクレポンを同一視している人もいますが、これは全くの別商品です。
紙ナプキンはとても大きく薄い紙で作られています。

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いせ辰のの説明のところに『いせ辰が制作したナプキンの図柄が描かれていたことが発見され、話題となっています』と出ていますが、これは違います。
ナプキンと千代紙と錦絵のちりめんはみんな違う商品です。
特にナプキンは再生紙で造られていますし、ちりめんにした皺もちゃんとしていません。
良いクレポンとは比べようもないほど違う物です。

   ファン・ゴッホ美術館のクレポン

クレポンがそんなに凄いの? とファン・ゴッホ美術館のクレポンを見た人は思うに違いありません。
何故なら、色彩が綺麗ではないからです。
しかし、これはファン・ゴッホがクレポンを壁に飾っていたために傷んでしまい色が落ちてしまったからなのです。
ファン・ゴッホが見たときはハデハデな色彩だったのです。

  クレポン研究会員所蔵☟       ファン・ゴッホ美術館所蔵☟

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  川上コレクション☟☝        ファン・ゴッホ美術館所蔵☟

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   クレポン研究会員所蔵☟       ファン・ゴッホ美術館所蔵☟

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  川上コレクション☟        ファン・ゴッホ美術館所蔵☟

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  川上コレクション☟        ファン・ゴッホ美術館所蔵☟

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  川上コレクション☟        ファン・ゴッホ美術館所蔵☟

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   川上コレクション☟        ファン・ゴッホ美術館所蔵☟

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   クレポン研究会員所蔵☟    ファン・ゴッホ美術館所蔵☟

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クレポンを見比べればファン・ゴッホ美術館所蔵のクレポンは色彩が落ちてしまったのが分かると思います。
しかし、ファン・ゴッホが見た色彩は左側の私とクレポン研究会員のコレクションのような色彩だったのです。
この色彩を見なければ、ファン・ゴッホが描いた絵の色彩を理解できません。
48年前に田中英道氏は「彼はアルルからの手紙ではっきりと「日本の版画のような濃淡のない色面にしたい」と,水彩の絵具をテオに頼む折にいっている。
原色に多少の白を交えて,ほとんど陰影を無視して描くアルルでの描法は,ドラクロワやアンプレッショニスト経由の日本版画の影響より,直接広重のこれらの色彩効果を学んだと考える方がよいのである。」と書いています。
クレポンの存在を知らなかった田中氏は印象派の色彩でもなく浮世絵の色彩でもない広重の色彩だと言うのです。
田中氏がいせ辰のクレポンを見たら「これだ!」と叫んだでしょう。

   1700年代の古浮世絵と幕末の浮世絵

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上のこげ茶の枠の中にある浮世絵は1700年代の古浮世絵(清長、晴信、歌麿、春章)です。
そして下の赤枠の中は幕末の浮世絵(三代豊国、広重)です。
上はしっとりした感じで下はハデハデです。
これを較べたときにあなたはどちらの浮世絵の方が好きですか?
1800年代のパリでは上の古浮世絵です。
しかし、1860年前後に後の印象派となる若者たちが手にした浮世絵は下の幕末の浮世絵なのです。
この幕末の浮世絵を見たときに初めに驚くのは色彩でしょう。
色彩の鮮やかさは新しい絵画を目指す前衛画家たちには、幕末のハデハデな浮世絵は啓示、道標に見えたと思います。
実際、マネがこの浮世絵の技法を使い『草上の昼食』を落選展に出品すると、一般人、知識人は嘲りましたが、前衛画家たちはマネの周りに集まったのです。
このマネの『草上の昼食』は色彩も鮮やかになりましたが、それよりも、それまでのアカデミー技法(透視図法や空気遠近法など)を無視した浮世絵技法で描いたので、一般人、知識人は嘲ったのに前衛画家たちは未来の絵だと思ったのです。

透視図法や空気遠近法を使えば下左のような絵になるのに、マネは浮世絵技法を使ったために右のように奥の女性を大きく描き、手前の服や帽子、バスケットなどを小さく描き、透視図法を無視して描いています。
そのために知識人、一般人は未熟の学生が描いた絵のようだと嘲られたのです。

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マネは同時期に同じように描いた『オランピア』を2年後のサロンに出品し、それは『草上の昼食』より反響が大きくスキャンダルとなり、ドガが言うにはマネはフランスで2番目に有名になりました。
もちろん馬鹿にされた有名です。
しかし、前衛画家はマネがよく行っていたカフェに集まり、その集団はカフェの名前から『ゲルボア派』と名付けられ、その『ゲルボア派』の中心メンバーが『印象派展』を開くのでした。
その印象派展で浮世絵の影響を受けて描いた画家たちの絵は、非難を浴び、そのメンバーが印象派と言われるようになりました。
このように幕末の浮世絵が印象派を創ったのです。
1700年代の古浮世絵は1890年代に知識人と金持ちが買いあさり、驚異的な値上がりをしそれは現代まで続いていますが、幕末の浮世絵は欧米の知識人、金持ちから嫌われ、現代でも価値がないままにされています。
フェネロサは、初めは浮世絵は下劣で芸術品ではないと言っていたのですが、後に浮世絵の良さが分かり浮世絵を保護します。
しかし、そのフェネロサでさえ北斎と1700年代の古浮世絵しか評価はしないで、幕末の浮世絵は下劣で芸術品ではないと言っていたのです。
欧米の知識人たちは1700年代の古浮世絵が最盛期の浮世絵だと考え芸術品とし、幕末の浮世絵は工芸品程度にしか考えていなかったのです。
だから幕末の浮世絵は250円で売られ、1700年代の古浮世絵は数万円から始まり暴騰したときには数千万円まで行ったのです。
数百円と数千万円の差が出たのですから、幕末の浮世絵を芸術品としてみたのは前衛芸術家たちだけした。
しかし、印象派以後の欧米の絵はハデハデな色彩の絵ばかりになりました。
これは1700年代の古浮世絵の色彩ではありません。
幕末、明治のハデハデな色彩なのです。
古浮世絵と幕末の浮世絵の並べたのを見て古浮世絵が良いと感じた人は欧米の知識人や金持ち達と同じ感覚を共有しています。
アカデミーの感覚です。
そしてそれは感覚の優れた特別な人か、勉強をした人以外は皆そうなので当然のことでもあります。
だから、古浮世絵が爆発的に値上がりしたともいえます。
しかし、それは金持ちと知識人が創った価値観です。
芸術ではなくお金の世界の価値観です。

 ちりめん浮世絵(クレポン)と大判浮世絵

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上の左がちりめん浮世絵(クレポン)で右が大判浮世絵です。
大判浮世絵は幕末の浮世絵です。
古浮世絵に比べれば幕末の浮世絵の色彩はハデハデなのに、ちりめん浮世絵はもっとハデハデになっています。
このちりめん浮世絵は1860年代にパリに現れています。
そしてそれを見た人たちは宝物のように思い最高芸術品だと感じていました。
ところが、このようにきれいなちりめん浮世絵は、1880年代にはあまりなかったのでしょう。
ファン・ゴッホのコレクションにも江戸のクレポンはありません。
もちろんファン・ゴッホも江戸のクレポンを手にしたことはある可能性があります。
それはベルナールなどの友人に上げたのだと思いますが、ゴッホコレクションに無いということは数がとても少なかったのだと思います。
ここで浮世絵がパリに渡った年表と価格を載せます。
1860年前後、パリで浮世絵を売る店が何件か出てくる。
この時期の値段は1枚2フラン~4.5フラン。
1870年代には明治になっていますので大量の浮世絵がパリに流れたと思われ、値段もガラクタ市で10サンチーム(0.1フラン)となっています。
1880年代はファン・ゴッホの買った価格で考えると3スーから5スー(0.15フランから0.25フラン)です。
マネやモネたちが買った時期が数も少なかったので一番高かったのです。
そして、1883年に古浮世絵がパリに現れ、ある意味、幕末、明治の浮世絵は工芸品扱いとなってしまったのです。
ビングが日本に渡り古浮世絵を探し当てますが、ビングは浮世絵を探しに行ったのではなく、仏像など古美術品を探しに行ったついでに古浮世絵を発見して、これは商売になると考えたのでしょう。
何しろ浮世絵はかさばらないので輸出には向いています。
しかし、今の日本の価値観から考えると浮世絵は1枚100円でガラクタ市で売っているのだからとても商売になるとは考えずついでに買ってパリに送ろうかと思っていたはずです。
それが古浮世絵の発見により、浮世絵が芸術からビジネスに変化したのです。
そしてその時は、良いクレポンを見つけるのは至難の業で、いせ辰のクレポンなら容易に見つけられたと思うのです。
それ故、ビングもクレポンを貴重とは思わず、1枚3スーで売るところに置いていたのでしょう。
と言うより,幕末や明治のちゃんとした浮世絵より下に見てたでしょう。

   良いクレポンとイセ辰のクレポン

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上の赤枠が良いクレポンで青枠がイセ辰のクレポンです。
どちらも色彩がハデハデに見えますが、よく見るといせ辰のクレポンの色彩は一つ一つの色が独立しているように見えます。
いせ辰のクレポンから比べると、良いクレポンはまだ色彩の調和があります。つまり良いクレポンは色彩が派手ですが絵にはなっているのにいせ辰のクレポンは色が強調しすぎていて子供がクレパスで描いた絵のようになっています。
だからほとんど99.99パーセントの人は良いクレポンの方が良いし、いせ辰のクレポンは玩具だと思うでしょう。
子供が描いたような未熟な絵を売っていることが信じられない、と印象派の時代のパリの人なら言うかもしれません。
しかし、マチスやファン・ゴッホはその色彩に注目したのです。
違和感を感じるからこそ絵だと思ったかもしれません。
馴染んでしまう絵は退屈な絵です。
だからアカデミーの絵は前衛画家から退屈な絵だと言われ続けられました。
次に明治の浮世絵の巨匠芳年の絵を見比べてください。
どちらの絵も芳年が描いていますが、彫りと摺りの違いでこんなにも感じが変わってしまうのです。

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この二つの絵を較べれば誰もが上の源氏絵の方が良いというでしょう。
芳年ファンからすれば下のいせ辰は「芳年の冒涜だ、燃やしてしまえ」くらい言うかもしれません。
印象派の画家たちが言われ続けられた言葉です。
しかし、色彩で見れば下の芳年の絵は単純な色彩だけで構成された凄い絵となるのです。
だからマチスは「色彩はそれ自身で存在し、特有の美を具えています。そのことを私たちに啓示してくれたのはド・セーヌ街で何スーかで買っていた日本の縮緬絵(クレポン)です 。
(中略)ファン・ ゴッホも縮緬画には夢中になっていたでしょう。ひとたび日本の縮緬画によって目の曇りを拭い清められた私は本当に色彩をその感情表現力のゆえに受け入れることができるようになったのです」
と言い、ファン・ゴッホはバンの複製のなかにある北斎の「草の芽」と撫子をすばらしいと思った。
しかし、どういわれようと、平板なトーンで彩色したどんなありふれたクレポン【日本の版画】も、ぼくにはリューベンスやヴェロネーズと同じ理由ですばらしいものなのだ。ぼくはそれが原始芸術ではないことを百も承知だ。しかし原始芸術がすばらしいものであるからといって、ぼくにはこのごろの言草のように、「ルーヴルへ行っても原始芸術から向こうは行けないね」という理由には少しもならない。
日本の版画の真面目な愛好家、たとえばレヴィ自身に、「この五スーのクレポン【版画】が私にはどうもすばらしいと思えてならないんですよ」と言おうものなら、相手はおそらく、いや、きっと少しむくれて、ぼくの無知とぼくの悪趣味を笑うだろう。まったく昔リューベンスやヨルダーンスやヴェロネーズを愛好することが悪趣味であったのと同じことだ。
と言ったのです。
これはいせ辰のクレポンに対して言ったのでしょう。
良いクレポンならレヴィも悪くは言わないはずです。

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