名所江戸百景

歌川広重の代表作と言えば切手やお茶づけのおまけとして有名な保永堂版東海道五十三次だと思っている人が多いと思いますが、広重の代表作と言えば『名所江戸百景』なのです。

切手

名所江戸百景☟

名所江戸百景

一般的には,広重の最高傑作とされているのは『東海道五拾三次』(保永堂版,天保4-5,1833-1834)です。
それに比べ『名所江戸百景』は、濫作・駄作が多いとも評されてきました。しかし,19世紀末のジャポニスムでは,その独特な遠近法によって,西欧絵画の空間認識にさらに重大な影響を与えたことも事実なのです。
例えば、同じ日本橋をテーマに描いていながら,天保の頃の『東海道五拾三次』と安政4(1857)年に描かれた『名所江戸百景 日本橋江戸ばし』の視覚性は大きく異なっているのです。

江戸橋日本橋1

『日本橋江戸ばし』では,風景を見る目線は,日本橋の欄干越しに,下流側に架かる江戸橋を見ています。
前景に大きくクローズアップされた棒手振が売り歩く,盤台の中の鰹。
欄干の間から見る日本橋川沿いの魚河岸の風景など,極端に誇張された遠近法が印象派に影響を与えたのでした。
そして、そのクローズアップされた初ガツオと言えば、『女房を質に入れても初鰹』と川柳に詠まれるほどの貴重魚で、初鰹を食べれば750日長生きすると言われていました。
江戸時代は、この日本橋に魚河岸があったので、名所江戸百景の『日本橋江戸橋』では、魚屋が朝早くからカツオを仕入れ、すぐに街に繰り出し、新鮮なカツオを一刻も早く売ろうと走り去る姿を一瞬のクローズアップで読者に分からせようとしています。
それに比べ、東海道五十三次の『日本橋』は朝の慌ただしい光景をそのまま描いているだけです。
それは写生であり工夫は感じられません。
19世紀のアカデミー絵画と同じように技量だけに頼った描き方です。
それに比べ、名所江戸百景の『日本橋江戸橋』は印象派の絵のように、どのような構図で描けば、絵で印象を訴えることができるかを考え描いています。

広重が『名所江戸百景』を描いたのは最晩年還暦の前から62歳で死ぬまでの2年半で、全部で118枚描きましたが、広重死後、『赤坂桐畑雨中夕けい』は2代広重が描きました。

2代広重画の『赤坂桐畑雨中夕けい』☟

赤坂桐畑雨中夕けい

又、「上野山志た」「市ヶ谷八幡」「びくにはし雪中」は広重死の1ヶ月後に出版されているため、これらも二代広重の筆が入っているとする説が有力です。

3枚1

名所江戸百景は118(+『赤坂桐畑雨中夕けい』と表紙)枚という大作ですが、百景以上の連作は浮世絵史上初の試みでした。
連作が終了した後にセット販売され目録が作られましたが、その目録には一世一代の文字が入りました。

一世一代

一世一代とは、一生のうちにたった一度のことなのですから、この『名所江戸百景』が広重の代表作ということになります。
広重の一世一代という大作なので『名所江戸百景』には様々な技法(摺り)が入れられているので浮世絵技法の集大成でもあります。
その技法を載せます。

きめ出し

キャプチャ

布目摺

布目摺り

雲母摺

雲英摺り

空摺

空摺り

正面摺

正面摺り

拭きぼかし

拭きぼかし

一文字ぼかし

一文字ぼかし

あてなしぼかし

あてなしぼかし

板ぼかし


板ぼかし

又、普通の浮世絵は摺りが10度(10摺り)以下なのですが名所江戸百景は20度から30度と飛びぬけて摺りが多いのです。

名所江戸百景は、一見するとほのぼのとした風景が描かれているように見えます。
ところが、名所江戸百景が描かれた4ヵ月前に安政の大地震が起こっているのです。
それ故、世情はほのぼのとしているような状況ではなく復興に苦労している時期なのです。
そのうえ、安政の大地震の2年前には黒船来訪、その翌年に
日米和親条約締結と江戸は大混乱していた時代なのです。
とてもほのぼのとしていた時代ではないのです。
それでは、なぜ広重はほのぼのとした江戸の町を描いたのでしょうか?
実は、名所江戸百景は江戸の町の復興の姿を描いた絵なのです。
復興した場所を広重は描いていたのですが、絵からはみ出でいる場所は、まだ復興されていないというのも数多くあるのです。
なぜそのような描き方をしたのか推測すると、大地震で倒壊した建物を描いた出版物はお上から罰を与えられる可能性があり、100景という大作が途中で出版禁止になるのを恐れたのかもしれません。
それ故、細心な注意を払い広重は絵を描くのですが、その描き方の裏を読めば、広重の描きたいことが分かるように演出されている絵がとても多いのです。
例えば
『湯島天神坂展望』は湯島天神本社は被災を免れたのですが、「地震焼失図」によれば、見下ろす下谷周辺の市街地は、被害が最も激しかった地域の一つで、画角からはずされた不忍池左手の下谷茅町、池之端七軒町、右手の上野広小路周辺の町並みは、広範に焼失したのでした。
また女坂は崩れ、下の茶店も残らず潰れましたが、それは坂の向こうに隠れて見えないのです。
この冬、仮屋住まいの被災者も多い中、30センチの積雪を見た日もあったというのですから、『名所江戸百景の湯島天神坂展望』に描かれていない周りは大震災の爪痕がまだ残っていたのです。

湯島

そして『月の岬』では、客と遊女が海を眺めながら食事をしていたと、障子の影が遊女の姿をしているのでわかるようになっています。
これは浮世絵で遊女を描くことが禁止になったための工夫です。

月の岬

現代でも発禁の出版物はあります。
それ故、少し前までは、出版人はぎりぎりの線でヘアーヌード写真集などを出していました。
江戸の浮世絵事情も同じようなもので、描くと発禁処分になりそうな絵は読者には分かるように工夫して描いていたのです。

そして『名所江戸百景』の最大の特徴は、稲賀繁美氏が言う中景脱落の絵です。
これはファン・ゴッホが模写した『亀戸梅屋鋪』に代表される、前景をクローズアップした絵です。

模写

名所江戸百景に描かれる前景のアップの絵は前景で場所を特定させ後景に意味を持たせる絵がしばしば出てきます。
例えば「芝うらの風景」では前景に浅瀬を航行する船のための目印の澪を描き芝浦だとわからせ、後景に『浜御殿』という将軍の別邸をさりげなく描いています。

芝浦

将軍の別邸をメインに描けばお咎めがあるやもしれぬので、あくまでメインは芝浦の風景としているのです。
この絵も大震災で
『浜御殿』の海側の石垣が崩れたのが、修繕されたからなのか、もしくは見分のため、将軍家斉が『浜御殿』にお成りがあったことを描いている絵なのです(家斉は絵の描かれた2月2日に『浜御殿』に行った)。




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