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写楽の正体

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     1、6代豊国

1986年のシンポジウムで当時83歳の6代歌川豊国が下記のことを述べました。

「私は歌川家の末裔で、父は明治期、横浜に住み開化絵を得意とした歌川国鶴でございます。国鶴は四代豊国の弟子で五代を継ぎ、私は昭和になって六代を襲名いたしました。
我が家に、初代豊国のライバルだった写楽について、代々、伝承として伝わったことをご披露申し上げます。写楽は、数奇な運命にもてあそばれた浪速出身の欄間の彫師・庄六という男でございます」

これは浮世絵ミステリー・パロディ ㉚ 吾輩ハ写楽デアル 中右 瑛
六代目豊国老が語る「浪速の写楽伝」に載っているのを抜粋をしました。
その抜粋には下記のごとくの説明がついています。

「ナントナント! 写楽が浪速の庄六とは? 会場はざわめき始めたのである。豊国老はいたって真面目な顔で、人を驚かす。
豊国老は歌川家に伝わる「写楽伝説」を語り続けたのである。歌川家の伝承を要約すると次のようになる。
摂津佃村に住む26歳の庄六は無類の女道楽者で、不義の恋に堕ち、大阪から江戸佃島に駆け落ち。奇しくも実母と再会、その亭主が営んでいた日本橋の履物商「東国屋」を継ぐことになった。
生来の絵好きから浮世絵師を志し、歌川豊国に入門を乞うたが、庄六の足の指が六本だったことから断られ、その後、十辺舎一九の紹介で蔦屋と親しくなり、写楽というペンネームで役者絵を出版したのだ。ペンネーム「東洲斎写楽」は「東国屋庄六」をもじったものという。
豪華な雲母摺りの役者絵を出版できたのは、大商人としての財力があったから。すなわち、自費出版だった。ところが販売にあたって富籤を景品につけたことから法に触れ、処罰され、出版不可となった。
加えて中風に見舞われ、床に臥す。失意のドン底の写楽は二年ののち、自宅の物干し場から墜落して死んだ。享年42歳。写楽はついに自殺して果てた…という。
「六本指の男」の登場はショウゲキ的でミステリアス。ドラマチックでもある。あまりの唐突な話に、皆、唖然として聞き入ったのである。
豊国老の話は大変面白く迫力がある。しかし口伝だけに矛盾も多く、何の物証もない。微に入り細に入った実に詳しいドラマチックな写楽の生涯とエピソードの数々。フィクションなら大いに結構。
「これが我が家に伝わる〈写楽伝説〉でございます。私は子どものころから口づてに、祖父や叔父、父から聞き及んでおりました。祖父の友人だった坪内逍遥先生も、三田村鳶魚先生も、この話は知っているハズです。が、明治・大正時代は、写楽が誰であろうがドーデモよかったのでございます。ところが近頃、写楽が重要人物となり、様々な別人説が飛び交い始めました。しかしながら〈豊国が写楽?〉ナンテとんでもないことです。これだけははっきりと言えます、〈豊国が写楽?〉ナンテ決してあり得ません」
声を張り上げて、豊国老は〈豊国が写楽?〉説を否定したのである。
豊国老は近々、この話を本にまとめて出版するという。」

6代豊国はこの2年後に『歌川家の伝承が明かす「写楽の実像」を6代・豊国が検証した』を出版します。

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このシンポジウムでの6代豊国の発言は真剣に取り上げてもらえていないようです。
写楽ではっきりしているのは『寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)1月にかけての約10か月の期間(寛政6年には閏11月がある)内に、145点余の作品を版行している』ということです。
初代豊国は明和六-文政八(1769-1825) に活躍をしました。
写楽が浮世絵を発行した1794年では、豊国は25歳。
25歳の若造の豊国に写楽が弟子入りをした、というのは、明らかにおかしい。
こういうところが口伝の弱いところです。
おそらく豊国の師匠、歌川派の開祖、歌川豊春(享保20年〈1735年〉 - 文化11年1月12日〈1814年3月3日〉)に入門を申し込んだのでしょう(後日6代豊国の本を読み違うとわかる)。

写楽の実像P167
さて、ここで東洲斎写楽の号だが、当初、庄六の画号をどうするかが問題となった。庄六は、豊国と親しい一九や京伝に、歌川一門の名で出版して良いかどうか打診している。豊国は”門人が多すぎて困っている。遠慮してほしい”といったとも、快諾したともいわれている。

実は庄六は幕府御用の下駄屋であったので歌川一門も幕府御用の特権を得ていたので二重登録を危惧して断ったらしいのです。

これはのちに書いていきますが、初代豊国と写楽はとても仲が良い友人になります。
推理しますと、入門を断られた写楽に同情した豊国が写楽を励ましたのだと思いますし、豊国の絵は写楽に似ているのがたくさんありますので、写楽死後、写楽の絵を真似たのかもしれません。
それが、写楽、豊国説にもなったのだと思います。

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     2、雲母摺大首絵

口伝をどうとらえるか?
口伝ですから証拠はありません。
とはいっても写楽の正体の証拠などないのが実情です。
写楽が有名になったのは、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが「増補浮世絵類考」などをもとに写楽研究を進め、明治43年「SHARAKU」を出版してからです。
6代豊国が言っているように明治、大正時代、写楽はそれほど有名ではありませんでした。
だから写楽の正体などどうでもよかったという豊国の言は間違ってはいません。
実際、明治の浮世絵商は写楽を評価していなかったし、嫌いだという浮世絵商もいました。
ただ、写楽の第1期の浮世絵は、豪華な雲母摺り大首絵です。
この雲母摺り大首絵はそれだけで価値があり、写楽という有名ではない絵師の作品でも残され、それが外国人の目には止まり買われたと推測はされます。
明治の中頃の1890年代は、パリで人気があった浮世絵師は歌麿です。
北斎や写楽ではないの? と誰もが思うでしょう。
北斎は有名でした。
おそらく歌麿より有名で、浮世絵師では一番有名でした。
ただ、その有名は『富岳三十六景』などの錦絵ではなく『北斎漫画』の評価ゆえの有名だったのです。
ファン・ゴッホが1888年のアルルで北斎の『神奈川沖浪裏』を手紙に書くまで北斎の錦絵に関しては誰も文献として残していないのです。

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下記に明治、大正の浮世絵の価格表を載せます。

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明治28年(1895年)からのところを見てください。
写楽は雲母摺と断られています。
これは写楽という絵師の名前の価値ではなく雲母摺大首絵の価値です。
つまり、明治28年から写楽の雲母摺に価値が出たということです。
歌麿や春信は明治19年から価値が出ているので、9年遅れているし明治28年は他の古浮世絵にも価値が出始めているのに、写楽は雲母摺でなければ、まだこの時期でも価値がなかったのでしょう。
雲母摺なんて大御所の浮世絵師か、歌麿でしか見ないのに写楽は第1期で雲母摺大首を28点も出すのです。

             歌麿 雲母摺☟

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雲母摺は、後にぜいたく品とされお上により禁止にされました。
それ故、全面的な雲母摺は無くなり、晩年、大御所となった広重の『名所江戸百景』でも、パラつかさせる(点々と光る)雲母摺しか使っていません。
つまり、人物のバック前面に雲母摺を施すのはこの時代の大御所か人気絵師の浮世絵にしかないので、きわめて数が少ない故、価値があったのです。
ましてや大首に至ってはもっと数が少ないのです。
大首とは上半身の肖像です。
写楽の2期以降は大首はほとんどなくなり全身図が主になります。

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浮世絵が印象派やファン・ゴッホ、ゴーギャンに影響を与えたことは有名です。
しかし、その浮世絵は幕末の浮世絵であって、写楽などの1700年代の古浮世絵ではないのです。
古浮世絵がパリに現れたのは1883年で、その頃には、印象派の絵は確立されていますし、古浮世絵は値が高かったのでファン・ゴッホやゴーギャンは、買えませんでした。
パリで浮世絵を扱っている店は幕末や輸出用の浮世絵を前面に出し、値段の高い古浮世絵は奥にしまい、金持ちだけにしか見せませんでした。
これは、今の浮世絵を売っている店でも同じです。
1880年代に売り出されていた古浮世絵は高いといっても現代日本価値でいえば数万円でしたが1890年代から高騰していきます。
そして、輸出用の浮世絵、縮緬絵や幕末の浮世絵は100円~300円でした。
日本での、浮世絵の値段の表を見ますと1886年に晴信中判、歌麿大判が2~3円で後は値がついていません。
この価格の事情は、もともと古浮世絵は屋台でどれでも1銭で売っていました。
それが、お雇い外国人のベンケーというあだ名の外国人さんが、屋台で歌麿を買い、その時に売り手が値段を言うときに言葉が通じないものですから指1本を示したら勘違いをし、1枚10銭で買い、その後もその勘違いが通り、歌麿なら1枚10銭でベンケーは買ったので、いつの間にか古浮世絵は1枚10銭になったのです。
1878年の古浮世絵10銭という価格が、ベンケーが歌麿につけた値段というわけです。
古浮世絵の中でも歌麿が特別で、その後、錦絵を作った晴信も認められて歌麿と同じく値段がついたのでしょう。
そして1890年ころには表にはありませんが、古浮世絵には価値ある価格がついています。
幕末や輸出用のの浮世絵、縮緬絵の40~100倍の値段は付けられていたはずです。
ファン・ゴッホがパリに現れた1886年には前記したように晴信中判、歌麿大判が2~3円でした。
パリでは数万円の値段なのでファン・ゴッホは100円~300円くらいで買える安い幕末、ちりめんの浮世絵をたくさん買ったのでした。
1886年に、北斎の『富岳三十六景』や広重の『保永堂版東海道五十三次』は値がついていません。
1895年に揃い(シリーズ全部の絵)で 『富岳三十六景』が50円、『保永堂版東海道五十三次』に至っては揃いで10円なのです。
これは清長、晴信1枚の値段と一緒です。
『保永堂版東海道五十三次』は55枚ですから、清長、晴信の55分の1の値段だったということです。
1枚20銭くらいということです。
最も幕末の浮世絵が5厘ですから、それに比べれば40倍もしていますので、1890年代に『保永堂版東海道五十三次』は価値が出たということでもあります。
写楽は1枚15円ですから、幕末の浮世絵や北斎、広重の浮世絵よりは高額ですが、晴信、清長とはそれほど変わっていないし、雲母大首絵ということを考慮すれば、晴信や清長より格下になっています。
歌麿は安いのでも30円ですから、写楽は歌麿には到底及びません。
そしてそれは、大正時代前半までは、それほど変化はありません。
それ故、6代豊国の言は間違ってはいないのです。

 3、ファン・ゴッホとモネの浮世絵コレクション

印象派やポスト印象派の画家たちの多くは、浮世絵ファンであり浮世絵コレクターでした。
ただ、死亡などによりそのコレクションは離散してしまった人が多かったのですが、ファン・ゴッホとモネが集めた浮世絵は、現在でもその浮世絵コレクションが残っており、ファン・ゴッホのコレクションは、オランダの国立ファン・ゴッホ美術館に所蔵されており、モネのコレクションは、フランスのジヴェルニーにあるモネの邸宅に所蔵されています。

ファン・ゴッホの浮世絵コレクションは幕末の浮世絵と輸出用の明治のクレポン(ちりめん浮世絵)が主で、1700年代の古浮世絵は存在せず、初代豊国とか五渡亭国貞はあるのですが、1800年代前半の作品であるし、状態が悪いので、これらは幕末の浮世絵と同じ価値しかないとされている代物です。

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だからこそファン・ゴッホがコレクションできたともいえるのですが。
それに比べ、モネの浮世絵コレクションは横浜絵、幕末、明治のコレクションとともに古浮世絵もたくさんあります。
これは1890年代にはモネの絵が売れるようになり、モネも多少のお金は持てる身分となったからでしょう。
モネの古浮世絵コレクションの数を記すと、晴信2、清長3、歌麿37、春潮1、栄之6、栄昌1、永理1、写楽3、北斎19、豊国4となります。
北斎が多いのは『北斎漫画』によって、印象派のメンバーにとっての北斎は別格だからだったのでしょう。
そして、それよりも多いのが歌麿です。

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モネは歌麿の浮世絵には影響を受けてはいません。
それでも、歌麿人気によりモネも歌麿をたくさん買い込んだのだと思います。
それも、この頃、歌麿の偽物がたくさん出回っており、浮世絵の目利きの友人に確かめてもらいながら買っています。
現在でも、偽物ではないの? という歌麿が多く本物として出回っているのですが、モネコレクションの歌麿は本物なので真贋の目安になります。
写楽は3枚で大首は2枚ですが、残りの1枚も雲母摺りです。

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3枚という数字は、晴信、清長と同じで、大首雲母摺だから買ったというのが推測できます。
もし、この1890年代に写楽が有名ならもっとたくさん買い込んでいたでしょう。
おそらく歌麿の大首雲母摺が、値段が高騰して買えず、写楽で我慢したのだと思います。
つまり、これを見ても明治時代では写楽が特別な絵師にはなっていないし、写楽のデフォルメの肖像画に注目も集まっていなかったと思われます。
モネと言えば子供のころカリカチュアを描いて、それを売りパリに出ていく資金にしたほどです。

           モネのカリカチュア☟

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モネが写楽のデフォルメの肖像画に注目していたら、もっと買い集めていたでしょうし、何かしら写楽について言っていたと思います。
つまり、これを見ても写楽が注目されたのはかなり後だということが分かります。

     4、写楽とは?

写楽をウィッキペディアで見ると『現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年〈1763年〉 - 文政3年〈1820年〉)とする説が有力となっている。 』となっています。
この斎藤説をはじめに唱えたのが『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑です。

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1844年に記した増補浮世絵類考『浮世絵類考は、江戸時代の浮世絵師の伝記や来歴を記した著作で、浮世絵師の便覧とも言える』に、写楽は「俗称斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す、阿波公侯の能役者也」であると記してあるのです。
この定説を完全に崩したのが島田荘司著の『写楽 閉じた国の幻』です。
この小説は小説の形を取っていますが論文と言って良いでしょう。
まだ販売されている本なのでここに詳しくは書きませんが、かなりの文献を調べて斎藤十郎兵衛説は否定していますし、この本を読む限りは完全に否定でしょう。

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1844年と言えば初代豊国は死んでいます。
北斎は84歳と高齢なので『増補浮世絵類考』を見ることはなかったか、見ても相手にしなかったかでしょう。
写楽の正体に関しては斎藤十郎兵衛以外にもたくさん出てきます。
しかし、この斎藤十郎兵衛説だけが、文献が残っていて他は推測です。
その文献と言っても島田氏が崩しているので写楽の正体に関しての文献は無いのです。
6代豊国の口伝はどうなるのか?
もし、100年後も写楽の正体のことを論文で書く人がいるとしたら、この6代豊国の『歌川家の伝承が明かす「写楽の実像」を6代・豊国が検証した』の本は文献となるでしょう。
島田氏の『写楽 閉じた国の幻』を読む限り、写楽の正体(本を読んでください)は、島田氏の推測の人物か、6代豊国の口伝の人物となります。
そして、これは明らかに島田氏の方が有利ですし、このままいくと6代豊国の口伝は闇に隠れてしまう可能性が高いです。
何故なら、6代豊国には権威もありませんし名声もないので、いずれ闇に消えてしまう可能性があるのです。
そんなことはない、本物なら残る、という人もいるでしょうが、これは歴史と同じです。
強い者、勝った者の歴史が後世に残るのであり、どんなに真実でも弱者や負けた者の歴史は消されていくか消えて行ってしまうのです。
それが証拠に、あれだけの資料を調べ、友人、編集者が協力をしてくれた島田氏の『写楽 閉じた国の幻』の中に6代豊国の口伝は一切入っていません。
島田氏が6代豊国の本を知ってはいたが無視をした、とも考えられますが、それはないでしょう。
耳に入らなかったのだと思います。
もし読んでいたら、おそらく中身を変更したか、本を出版しなかったかもしれません。
つまり、6代豊国は著名人でもないし権威もないので世間が信用せず、それ故、主張も広まらないのです。
初めのシンポジウムでの6代豊国の言の反応をもう一度読んでください。
【「六本指の男」の登場はショウゲキ的でミステリアス。ドラマチックでもある。あまりの唐突な話に、皆、唖然として聞き入ったのである。
豊国老の話は大変面白く迫力がある。しかし口伝だけに矛盾も多く、何の物証もない。微に入り細に入った実に詳しいドラマチックな写楽の生涯とエピソードの数々。フィクションなら大いに結構。
「これが我が家に伝わる〈写楽伝説〉でございます。私は子どものころから口づてに、祖父や叔父、父から聞き及んでおりました。祖父の友人だった坪内逍遥先生も、三田村鳶魚先生も、この話は知っているハズです。が、明治・大正時代は、写楽が誰であろうがドーデモよかったのでございます。ところが近頃、写楽が重要人物となり、様々な別人説が飛び交い始めました。しかしながら〈豊国が写楽?〉ナンテとんでもないことです。これだけははっきりと言えます、〈豊国が写楽?〉ナンテ決してあり得ません」
声を張り上げて、豊国老は〈豊国が写楽?〉説を否定したのである。】
明らかに、この書き手は6代豊国を茶化しています。
見方によっては馬鹿にしていますし、口伝を全く信用していません。
もし6代豊国に権威か名声があったら、このような茶化したことを言うでしょうか?
特に『口伝だけに矛盾も多く、何の物証もない。微に入り細に入った実に詳しいドラマチックな写楽の生涯とエピソードの数々。フィクションなら大いに結構。』は、写楽の正体に関してはどこにも証拠はないし、それ故、矛盾と言えるものを探し出すのさえ困難です。
そして極めつけはフィクションなら大いに結構と言っています。
口伝をフィクションなら大いに結構と言うこと自体が馬鹿にしています。
口伝を尊重し、その裏付けを探すのが研究者であるし、研究者でなければ応援するのが人でしょう。
この書き手は6代豊国を完全に詐欺師扱いをしているのと同じです。
6代豊国も権威と名声は人一倍ほしいと思ったでしょう。
だからだと思いますが、6代豊国は『90歳を過ぎてから、平成8年(1996年)より3年間、大阪府立桃谷高等学校の定時制夜間部に通った後、平成11年(1999年)の4月、東大阪市の自宅に近い近畿大学の法学部(二部)法律科に入学、浮世絵に関する論文により博士号を得ることを目標にし、勉学に励んでいた矢先、平成12年11月11日、急性心疾患により自宅で死去した。享年97。』となりました。
シンポジウムなどの講演会をしても口伝が広まないし、本を出版しても広まりません。
それ故、浮世絵(写楽)の論文を書くために大学に入ろうとするのです。
中卒なので、定時制高校に通いますが、90歳を過ぎていますから一時期マスコミにも取り上げられていましたし、大学時代もマスコミが取り上げていました。
6代豊国は自分の口伝が無視をされ続けられた原因は権威だと思ったのでしょう。
そして、その権威は確かに世の中で幅を利かせているのです。

    5、世界三大肖像画の嘘

写楽はレンブラントやベラスケスと一緒に世界三大肖像画の一人だとドイツの美術研究家ユリウス・クルトが「SHARAKU」で書いた、というのが定説になり、誰もが写楽を世界三大肖像画の一人と記します。
しかし、これは違うということをウィッキペディアでは載せています。
以下ウィッキペディアから抜粋をします。

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【世界三大肖像画家(せかいさんだいしょうぞうがか)は、レンブラント(オランダ、1606年 - 1669年)、ディエゴ・ベラスケス(スペイン、1599年 - 1660年)、東洲斎写楽(江戸時代中期、生没年不詳)の3人である…と巷間言われているが、厳密に検証するとどうも疑わしい。

1910年、ドイツの牧師Julius Kurth(1870年 - 1949年)が、著書Sharakuの中で、写楽を「レンブラントやベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家」と称賛し、これがきっかけで大正(1912年 - 1926年)頃から日本でも(写楽の)評価が高まった、という説明をよく聞く。

1930年代、経済学者で日本浮世絵協会会長の高橋誠一郎(1884年 - 1982年)が「世界三大肖像画家」として写楽を紹介した用例が見られる。
1968年、日本浮世絵協会が編集した『浮世絵名作選集〈第4〉写楽』の「はしがき」に、「世界中の人々から、レンブラントやベラスケスと並んだ世界の三大肖像画家として絶賛され、仰がれている」と記載がある。ただし、クルトのSharakuにそのような記述があるとは一言も言ってない。
実際のところ、クルトは写楽を世界三大肖像画家と言ったのだろうか。後述の様に多くの識者が疑問を示している。にもかかわらず、2013年の電子書籍に「クルトが世界三大肖像画家として紹介」という記述が残っている。

Sharakuの1910年初版、1922年改訂増補版、及び1994年の日本語訳版『写楽 SHARAKU』のいずれにも、クルトによる序文と本文に「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する記述は見られない。
日本語版『写楽 SHARAKU』においては翻訳者定村忠士による解題に「世界三大肖像画家」への言及はあるが、これは一般論として述べたものであり、クルト自身の文章を引用したものではない。

1995年、定村忠士は別の書籍で次のように述べる。実際に『写楽』にあたってみると、そんな言葉はどこにも書かれていない。クルトは『写楽』以外にも『日本木版画史』(一九二五~二九年)など浮世絵に関する論文を多数発表している。おそらくそのどこかで、こうした趣旨の言葉を書いたものが、いつのまにやら『写楽』のなかの言葉として語られるようになったと推察するが、 少なくともこうしたまことしやかな紹介のしかたでは、どこまで本当にクルトの『写楽』を吟味したのか、まことに覚束ない。私には、写楽論議の危うさがここに現れているように思えてならない。

2012年、中嶋修は「調べることができた中で」と断った上で「レンブラント、ベラスケス」という言葉が入った写楽論文の初出は1920年の仲田勝之助によるものであろうとした。

2009年、佐々木幹雄も、1925年の仲田勝之助の著書『写楽』を引用し、
写楽に関する功臣は何と云っても独逸のクルト博士である。…(略)…一九一〇年…(略)…彼の詳しい研究“SHARAKU”をミュンヘンの一書肆から公刊した。それ以来である、写楽が一躍レンブラントやベラスクエスにさえ比肩すべき世界的大肖像画家たる栄誉を負うに至ったのは。

ドイツ語で書かれたクルトの原文を理解できなかった後世の研究家たちは、仲田個人の見解である「それ以来である」以下の記述をクルトの説と勘違いし、「クルトが認定した三大肖像画家」説が一人歩きを始めてしまった、と述べる。

とこのようにウィッキペディアでは、写楽が三大肖像画とはクルトの書いた『Sharaku』には書かれていないし、1920年に仲田勝之助が勝手に言ったのを、後世の人々がそのまま流用し、定説になってしまった、としています。
つまり、写楽を世界三大肖像画だとは誰も言っていないのです。
それを世間の名声ある人々が言うものだから、いつの間にか定説となってしまったのです。
『ゴッホの愛したクレポン』や『幕末の浮世絵が印象派を創った』でも同じなのですが、ちゃんと研究しないで論文や本を出す人の中には定説をそのまま信じて書いてしまう人が多すぎます(これは私もなのでいつも反省しています)。
写楽に関しての大きな定説は、この三大肖像画と写楽は能役者斎藤十郎兵衛くらいで、能役者斎藤十郎兵衛説に関しては、おかしいと思い、他の人が写楽だ、と発表する人が続出しているので、こちらの定説は定説とは言えないかもしれません。
だから写楽に関しての定説は、三大肖像画くらいだからまだいいのですが、ファン・ゴッホに関してはたくさんの定説が覆されているのに、未だに過去の定説を本に載せている人もいます。
ただファン・ゴッホの場合は、三大肖像画のようにウィッキペディアに定説が違うとはでていません。

     6、 6本指の写楽の謎

幕末に最大派閥となった歌川派は一門の資料をまとめて置いてあり、それを頭領の許しがあれば描き写せると6代歌川豊国《明治36年(1903年)-平成12年(2000年)》 に教えてもらいました。
6代豊国はそれをおじいさんから聞き、おじいさんは2代豊国とか3代豊国から聞いたそうです。
6代豊国によれば、広重の有名な出世作『保永堂版東海道五十三次』は写楽の下絵を元に描いたそうです。
写楽は謎の絵師とされていますが、6代豊国によると上方の欄間師が江戸に上がってきた者だそうです。
その途中、東海道を写生して来たそうで、写楽と仲の良かった豊国(初代)が写楽の描いた下絵を預かったそうなのです。
写楽は2階の窓から落ちて死んだそうな。
ちなみに、写楽と北斎と豊国は仲がよかったそうです(囲碁仲間)。
三代豊国(国貞)は一門の弟弟子広重を可愛がっており、まだ名が売れていない広重にこの写楽の下絵で東海道の浮世絵を描かせたそうなのです。
広重は写楽の下絵だと承知していたので絵の中に足の6本指を描き込みました。
なぜなら、写楽の足の指は6本指だったからです。

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この『保永堂版東海道五十三次』には司馬江漢の絵を広重が模写したという話もあります。
司馬江漢と言えば鈴木晴信の弟子として浮世絵師になり、その後、平賀源内の紹介で西洋絵画を知り小田野 直武(平賀源内の弟子) に師事し長崎で大量の油絵を見て、東海道も風景を写生して旅した人物なので広重の元絵となる絵を描いたというのもあり得そうですが、江漢の肉筆画帖の絵(おそらく偽物)は、広重の東海道を西洋絵画で描こうとしている絵にしか見えません。
江漢の本物の富士の図とはあまりにもかけ離れた絵のように思われます。
私は偽物だと思います。

何しろ、広重の東海道を真似して描こうとしているので、構図にどうしても無理が生じているようにも見えます。

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写実を重んじた江漢があり得ない構図を描くわけがないし、箱根の二子山のようにどう見ても写実の山ではないというのも描いています。

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広重画では、芦ノ湖と二子山を描いているのですが江漢図(おそらく偽物)は山が岩のようになっています。この箱根図は二子山をデフォルメしているので有名なのですが、江漢はデフォルメはしないはずです。
実はこの広重の『保永堂版東海道五十三次』は三代豊国(国貞)も描いているのです。
別名『美人東海道』という前面に美人画を描いてバックに53次の風景を入れている中判の浮世絵です。
本来ならバックの風景画に広重の名前が入らなくてはいけないのに、入っていないので、すべて三代豊国が描いたことになります。
するとそれは盗作なのか? と疑問を持ち何人かの研究者が持論を書いています。
その中で誰もが認めているのが、この時に売れっ子の三代豊国が広重の絵を盗作をするわけがない、ということです。
すると、広重が三代豊国の絵を盗作したのでは、という答えを導く研究者もいます。
これも、歌川派の資料をもとに三代豊国も広重も描いた、とすれば納得できるのです。

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ある研究者によると、三代豊国の『美人東海道』と広重の『保永堂版東海道五十三次』は全ての絵が同じではなく、後半の絵は違っている、それは盗作したと訴えられたから他の絵にしたと述べてます。
ところが、三代豊国は『美人東海道』だけではなく、その後『役者東海道』にも同じように『保永堂版東海道五十三次』を役者のバックに使っているのです。

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訴えられたのなら、もう二度としないと思うのですが、また同じように『保永堂版東海道五十三次』を使ったのです。
『役者東海道』も『美人東海道』も『保永堂版東海道五十三次』を使った絵もあります。
実は同じ絵をコピーするというのは、同じ一門、特に師と弟子ならばよくあることなのです。
それに、北斎漫画をコピーして浮世絵にするのもあります。

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『保永堂版東海道五十三次』に関しては『東海道名所図会』からコピーしたという研究もあります。

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確かに似ている構図はありますが偽?江漢、『美人東海道』、『役者東海道』のようにそっくりと言うわけではありません。
写楽の下絵は他に『近江八景』があり、それも広重は描いています。

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絵を勉強している人が見れば、広重の『保永堂版東海道五十三次』と『近江八景』と他の広重の絵はかなり違うのが分かるはずです。
『保永堂版東海道五十三次』と『近江八景』は絵に雰囲気があります。
どちらかというと北斎風の風景画です。しかし、他の広重の絵は漫画的なのです。
同じ絵師が描いたとは思えないのです。

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保栄堂版と行書版、隷書版を見れば、明らかに保栄堂版は行書版、隷書版と違うのが分かると思います。
同じ絵師が描いた絵には見えないはずです。
しかし、行書版、隷書版は同じ絵師が描いたと思うはずです。
明らかに行書版、隷書版と保栄堂版は絵の雰囲気が違います。
広重の後の代表作『名所江戸百景』は行書版、隷書版と同じ雰囲気の絵に見えます。
近江八景は保栄堂版東海道五十三次と同じような雰囲気に見えます。

7、『歌川家の伝承が明かす「写楽の実像」を6代・豊国が検証した』

私が6代豊国と会ったのは、はっきり覚えていないのですが30年以上前で1989年前後だったと思います。
確か6代豊国が86歳前後だったと思います。
その頃、6代豊国は絵が売れず生活にも困っていましたので5~6点は絵を買った覚えがあります。
倉庫にしまっているのと、本土に置いてきたのではっきりは把握していませんが。

            6代豊国の絵☟

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1年くらい我が家に何回も来てもらい、泊まって面白い色々話してくれました。
その後、私は引っ越しをしたのと、家を作るので忙しくなり、数年後に原因不明の病気にかかり、寝たきり生活になってしまったので会うことはありませんでした。
6代豊国は86歳だというのに、頭ははっきりしていたし、おしゃべりも普通でした。
だからコミュニケーションは問題なくできていたし、本を書くのも問題なく書けるように見えました。
その後、90歳を過ぎてから定時制高校に通い、大学まで進学するのですから、86歳の時はもっとしゃきっとしていたのです。
6代豊国と出会ったときにはもう『歌川家の伝承が明かす「写楽の実像」を6代・豊国が検証した』は出版されていたので、私もその本を読みました。
今回、この『写楽の正体』を書いているのですが、6代豊国の本はどこかに行ってしまいないのです。
倉庫を丹念に探せば出てくるかもしれませんが、大変なのでアマゾンで探し注文をしました。
それ故、ここまで書いてきた内容は記憶をもとにして書いています。(ただし、本を読んで直したのもあり)
本に書かれた内容なのか、6代豊国から聞いた話なのかははっきりしません。
ここまでに書いてきた以外で記憶に残っているのは、初代豊国と北斎、写楽、そしてもう一人、歌舞伎役者(名前は忘れました)の4人は仲が良く、4人とも背が高かったそうです。
そして写楽と北斎は浮世絵師の中で一目置かれていて、線の北斎、円の写楽と言われていたそうです。
そして今、アマゾンから本が来たので読み直します。

8、『歌川家の伝承が明かす「写楽の実像」を6代・豊国が検証した』を読んでみて

30年位前に6代豊国の『歌川家の伝承が明かす「写楽の実像」を6代・豊国が検証した』は読んだのですが、今回読み直してみて、そのほとんどは忘れていました。
当時は、写楽についてそれほど興味もなかったので『そうなのか』というレベルで話を聞いていたし本も読んでいました。
今回読み直してみて、85歳のおじいちゃんが書いたものとは全く思えず、脂の乗り切った40代の人が書いたように感じるほど文章がなめらかであるし、検証もしっかりしていました。
実はこの「写楽の正体」を書こうと思ったのは、フェイスブックで友人(私とも島田氏とも友人)が島田氏の投稿をシェアし、そこに『小説もそうだが、よいものができる時はたいてい苦労がない。困ったことにあんまりすらすらできるから、これはもうきっと、どこかに存在する話に違いない、自分は思い出しているだけなのでは? と不安になる。『写楽、閉じた国の幻』などがそうだった。』と記してあり、思い出したものをすらすら書いたのが『写楽、閉じた国の幻』なのかと気になり、直ぐにkindleで買い読み始め(夜中の1時半だというのに)読み終えた後に島田氏に6代豊国のことを教えてあげたいと思ったからです。
『写楽、閉じた国の幻』は、前後編2巻でしたが、丸々1日で読み切り、詳しく調べたなあ、これは小説ではなく論文を小説にしたのだろう、特に写楽は斎藤十郎兵衛だという定説を完全に崩したのは称賛ものでした。
しかし、そこからが6代豊国の話を聞いている私とは決定的に答えが違ってきます。
島田氏は6代豊国の本も存在も知らなかっただろうと考え、私なりにそれを伝えようとし、その後に「写楽の正体」をフェイスブックに1話ずつ連載しましたが、それは繋がりませんでした。
さすがに著名人や権威のある人に対してはしつこいことはしません。
北山研二先生のように2年後にメッセージの返事が来るなんて言うこともありますけど(笑)。
ただ、著名人や権威のある人に論文を読んでもらおうと論文を郵送したり、ウェブのアドレスを送ってもほとんど返事はもらえません。
本人に届いていないのかもしれませんが、ウェブで調べられるアドレス(大学の住所やフェイスブックのメッセージ)しかわからないので、一般人としては、それ以上の努力はプライドがズタズタになるのでしません。
島田氏に伝えようとして「写楽の正体」を書き始めたのですが、ここまでくるともう一度6代豊国の本を読まなければと思い、先ほど読み終えました。
30年前と感想は全く違います。
6代豊国は本を書く前は写楽について伝承以外ほとんど知らなかったそうです。
写楽を調べようと考えたのは80歳で、5年かけてこの本を完成させました。
80歳から研究するというのも凄いし、記憶力が欠落していないことも驚きです。
私自身は写楽について読んだ本は島田氏の『写楽、閉じた国の幻』と『歌川家の伝承が明かす「写楽の実像」を6代・豊国が検証した』の2冊だけです。
それで写楽を語るのは詐欺みたいなので、できればそれぞれの本を読んでほしいと思います。
ただ、私はファン・ゴッホと印象派のことは徹底的に調べました。
特にファン・ゴッホのことでいえば、とても詳しく調べているようで、実は全く本質を分からないで、結論を出し、それで本を出版している人を、何人か見つけ、著名人や権威があるがゆえにその本が評価されたり賞をもらったりしているのを見つけました。
ファン・ゴッホ研究者としてはとても悔しい思いをしました。
その例でいくと、今回の6代豊国も私と同じかなと感じました。
6代豊国の「写楽の実像」を読めば写楽問題は解決すると思います。
伝承もあるし、6代豊国はかなりのところまで調べ上げています。
そして、その調べも、浮世絵の本家で育ったのですから、浮世絵とか歌舞伎などのことが完全に身についているうえで書いているのを感じるから、安心してその論理が理解できるのです。
本ではまず歌川家と歌川一門の説明から始まっていました。
6代豊国の歌川豊国は戸籍上の名前であり、明治の戸籍法により旧和田姓であったが歌川に変えたそうです。
そして、祖父、国鶴は文化元年(1804)生まれ、父、2代国鶴は嘉永5年(1852)生まれ、6代豊国は明治36年(1903)生まれなので、祖父の話が父、叔父(5代豊国)に伝わり、6代豊国は祖父、叔父、父から話を聞くことで200年前の話が聞けたそうです。
歌川家、歌川一門の流れの説明が書かれていたのですが、この説明文書だけでも歴史的資料の価値があります。
6代豊国によれば歌川派の資料は膨大にあり、三田村蔦魚氏や坪内逍逄氏が豊国の研究をするために6代豊国の家に訪れていたらしいのですが、大正時代の関東大地震で全て焼失してしまったそうです。
歌川の説明が一通り済むと写楽の謎の追及が書かれていました。
歌川の伝承はこの通りでございます、というだけを書いてあるのではなく、現状の写楽研究がどのようなものであるか一通り書かれていました。
とても85歳とは思えない研究です。
そこにはドイツの美術研究家ユリウス・クルトを始め、能役者斎藤十郎兵衛や写楽斎のことも調べてありました。
本文のP74、75に『私に言わせれば、これだけのものを豊国、歌麿、北斎などといった一応名の知れた作者のダミーとして出せるものではないということである。はっきりいって、隠し通せるものではないということである。
当時、版元の蔦屋と関係のあった京伝や馬琴、南畝、一九らは、写楽のことを当然知っていた。その写楽が、無名の人物ならともかく、名の通った画家のダミーならば、確実にそのことはなんらかの記録に残されているはずである。それがまったく存在しないのは、写楽はやはり一介の素人の可能性もあり、あるいは無名の絵師であったということである。この点からすれば、私は断言する。写楽は写楽である。
のっけからこう記するのは気のひける話だが、文献上はほとんど決め手を欠くのも、無名の一市井人であるからだ、ともいえるのである。
なお、ついでながら、絵師ともっとも関係の深いのが彫り師であるが、その記録は役者絵にはまったく記されていない。ただし、絵本類には、その奥書に記されているのもあり、ともかく写楽と同時代人の彫り師の名をあげてみよう。
小西新八、小泉新八、朝倉権八、能代柳湖、山口清蔵、伊勢屋亦二郎、井上治兵衛、樋口源兵衛らである。ひょっとしたら、これらのなかに写楽画を彫った人物がいるかもしれない。』と記してあり、彫り師のことまで調べ上げて書いているのです。

9、「写楽の実像」を読んでみて(その2)

実は、ここまで書いた後に、詳しく書くのならもう一度、島田氏の『写楽、閉じた国の幻』を読み返そうと、読み返したら、驚きの文章が載っていました。

【今 は故人となった版画家、 池田満寿夫氏は大首絵 に着目し、大きな顔、小さな手、バランス発想には無頓着に為したこの異様な迫力は浮世絵描きに手馴れた 専門家ではないと考え、先のおびただしい別人説の中からまずプロを排除した。ここまでは私も賛成できる。素人という言い方でよいかどうかは別として、少なくとも、浮世絵世界に精通してはいない人物と感じる。さらに言えば、歌舞伎世界にも精通していないように、私は感じる。
池田氏が残した人物は、蒔絵師の飯塚桃葉。狂言作者 の篠田金治。戯作者の十返舎一九。能役者の斎藤十郎 兵衛。欄間彫師の庄六。歌舞伎役者の中村此蔵の六人 になった。】

この文章で何が驚きかというと、池田氏が残した人物に欄間彫師の庄六が入っているのです。
欄間彫師の庄六は6代豊国の「写楽の実像」を読むか、6代豊国から話を聞かなければ出ない名前です。
そこで『これが写楽だ―池田満寿夫推理ドキュメント』と『されど写楽』をアマゾンで注文しました。
本の内容によっては島田氏も6代豊国の「写楽の実像」を読んだことになります。
ちなみに池田氏の推測は『池田氏は蔦屋の食客、十返舎一九と、蔦屋と親戚 筋にあたる 歌舞伎役者、中村此蔵、この 二人の合作が写楽だ、と指摘して みせた。』ということらしいのです。
私は写楽研究をした人なら、6代豊国の「写楽の実像」を読めば、6代豊国説を取るか、相当な反論、反証をを載せると思うのです。
無視ができる本ではないと思うのです。
私が島田氏と6代豊国の本を読んだ結論は、6代豊国の本に軍配をあげます。
それ故、島田氏は6代豊国の本を知らなかったという結論を出し、今回の論文を書いたのです。
池田氏の本を読んで、納得のいくような内容が書いてあり、それを島田氏も読んで欄間彫師の庄六を本の中に入れなかったというのなら納得はするのですが、ただ、無視をしたというのなら根本からこの論文の意味が崩れてしまいますが写楽の正体に関してはこのまま書き続けます。

10、『写楽の実像』と『写楽、閉じた国の幻』の検証

「写楽の実像」は序章、1章、2章、3章、終章とあり、序章では歌川家や歌川一門のことが書いてあり、1章で写楽研究で常識のことが書かれています。
その常識というのが『浮世絵類考』と『諸家人名江戸方角分』いうもので、『浮世絵類考』は、ウィッキペディアによれば『江戸時代の浮世絵師の伝記や来歴を記した著作で、浮世絵師の便覧とも言える。浮世絵研究の基本的な史料である。寛政年間に大田南畝が著した原本に、複数の考証家が加筆して成立した。 』というものです。
『諸家人名江戸方角分』は、寛政・享和・文化期の江戸の文化人の住所別一覧表といったもので、総数は約1000名に上ります。諸家(文化人)というのは、編纂者の区別に従うと、学者、詩人、画家、書家、本歌師、連歌師、俳諧師、狂歌師、戯作者、浮世画、篆刻家で、それぞれ表示マークが決めてあります。これは人名の頭に付記するもので、同じ人に複数のマークが付いていることもあります。住所区分は40余りで、日本橋から始まって、江戸城を西に廻り、さらに北へ行って東部へという方向で地名を上げ、そこに人名を列記しています。

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以下、『浮世絵類考』の成立事情をウィッキペディアから抜粋をします。

寛政2年(1790年)頃、大田南畝が浮世絵師に関する考証を行う。

寛政12年(1800年)、笹屋新七(邦教)が系譜を加え、享和2年(1802年)、山東京伝が追考した。

文政2 - 4年(1819年 - 1821年)、式亭三馬が補記し、加藤曳尾庵が加筆した(「曳尾庵本」という。37名の浮世絵師が掲載される)

天保4年(1833年)、渓斎英泉が補記し『無名翁随筆』として86名の浮世絵師を掲載。

天保15年(1844年)、斎藤月岑が『無名翁随筆』を補記し『増補浮世絵類考』とした。

慶応4年(1868年)、竜田舎秋錦が『新増補浮世絵類考』(127名収録)を編集した。

*以上の典拠は仲田勝之助校訂『浮世絵類考』(岩波文庫、1941)の解説による。
この『浮世絵類考』は写楽研究者なら常識なので、研究者の誰もがこのウィッキペディアに書かれていることは常識として備えています。
ただ、写楽研究をしていない一般人には何のことかわからないと思います。

この『浮世絵類考』で重要なのは大田南畝が『浮世絵類考』のことを記したのは6代豊国によると、寛政6年(1794)までで、写楽の浮世絵が発行されたのが寛政6年(1794年)5月から寛政7年(1795)正月までなのですが、大田南畝が『浮世絵類考』に写楽のことを「これまた歌舞伎役者に似顔をうつせしが  あまりに真を画かんとて  あらぬさまにかきしかば  長く世に行われず  一両年にて止む」と書かれているのです(島田氏は、南畝版は、加藤曳尾庵本によれば、寛政のはじめころに書かれているんです。西暦でいうと1790年頃ということになります。そういうことなら1794年の写楽の登場より前になるのです)と記しています。

島田氏と6代豊国とでは大田南畝が『浮世絵類考』の年代が違います。
ウィッキペディアの成立事情では『寛政2年(1790年)頃、大田南畝が浮世絵師に関する考証を行う』とされていて、成立時ではなく考証したのが1790年と記してあります。
どちらにしろ、写楽が世に出る前に大田南畝が『浮世絵類考』には写楽のことが記してあるというのは両者とも同じです。
つまり大田南畝は写楽のことを知らないのに『浮世絵類考』には写楽のことが書かれているということです。
これはどういうことかと申しますと、大田南畝ではなく他者が写楽のことを書いて付け足したと思われます。
この矛盾点は6代豊国も島田氏も指摘しています。
このことは、写楽研究では常識なので、写楽研究をしている人にとっては誰もが分かっていることです。
『浮世絵類考』というのは、正式には文政元年(1818)に完成したものだと言われています。
これも常識なので6代豊国も島田氏もそのように書いています。
さて、問題なのは『浮世絵類考』が大田南畝以外にも、のちの時代に色々な人が継ぎ足していて、そこに写楽のことも次ぎ足されているのです。
何人もの人が継ぎ足した『浮世絵類考』ですが、その中に写楽のことも継ぎ足されています。

文政2 - 4年(1819年 - 1821年)、式亭三馬が補記した記述に「三馬按ルニ 写楽号東洲斎 江戸八丁堀ニ住ス 僅ニ半年余行ハルノミ」と書かれていて6代豊国によると『按ルニ』とは、「聞いた話だが」とか「どうやらこういうことらしいのだが」などという推量の語らしいのです。

島田氏は三馬の記述に関して【『写楽号東洲斎江戸八丁堀に住す』という記述が『浮世絵類考』に加わっているようなのです】と記しています。

三馬は聞いた話、つまり口伝として写楽が八丁堀に住んでいたと記したのです。
もうこの時点で口伝ですから、6代豊国の口伝の方が信頼性があるのが分かります。

ただ、この八丁堀の元となったのは6代豊国によると、歌舞伎役者である瀬川富三郎(三世)著の『浮世絵類考』という書から得たものと言えて、そこには八丁堀のところに、『号写楽斎 地蔵橋』と記されてあって、浮世絵師のマークとすでに死亡している記号が記されてあるのだそうです。

これは島田氏の本にも書かれており、島田氏の方は【『浮世絵類考』という人名長(帳?)が、国立国会図書館に眠っていたいたんですが、昭和51年に、九州大学の中野三敏という助教授が、この文献に『写楽斎という号の人物が、江戸八丁堀の地蔵橋に住んでいた』、という記述があることを発見したんです】と書かれていました、ただ中野三敏のことは6代豊国も書いていますので、写楽研究では常識なのだと思います。

この三馬の記述で写楽は八丁堀に住んでいた、となり、クルトの「写楽は能役者で八丁堀に住んでいた」につながっていくのです。
口伝ですが。

そして一番重要な継ぎ足しが、天保15年(1844年)、斎藤月岑のもので、その中に6代豊国の本から抜粋すると
「天明寛政年中ノ人   
俗称 斎藤十朗兵衛 居 江戸八丁堀に住す 阿波候の能役者なり 号 東洲斎   
歌舞伎役者の似顔をうつせしが あまりに 真を画かんとて あらぬさまにかきせしかば 長く世に行われず 一両年にて止む(類考Z)
三馬云 僅に半年余行わるゝのみ
五代目白猿、幸四郎、半四郎、菊之丞、富十郎、広治、助五郎、鬼次」
と記されています。
そして6代豊国は月岑が、三馬の八丁堀を基にそのあたりを散策し、阿波候の屋敷があり、その近隣に金春流の斎藤十朗兵衛が住んでいたのを見つけ斎藤十朗兵衛をモデルにしたのだろうと推測します。

島田氏は『「嘉永7年、1854年に出版された「本八丁堀辺之絵図」という地図を見ると、地蔵橋のたもとに斎藤与右ヱ門という人の家があるんです。これは確かに阿波候の能役者の家です、間違いありません。というのは、能役者の斎藤家は、代々十郎兵衛、与右衛門、十朗兵衛、与右衛門と交互に名前を継ぐ習慣のある家柄なんです。だからこの与右ヱ門は、写楽時代の十朗兵衛の息子と思われます。そして文政元年、1818年頃に書かれた「江戸方角分」には、写楽斎という名前が見えている。
さらに近年になって、埼玉県の越谷市の浄土真宗本願寺派、法光寺の過去帳から、八丁堀地蔵橋の斎藤十朗兵衛一族に関する記事がたくさんみつかったんです。
これらの事実を総合すると、消えた写楽の素性や行方を調べた誰かが八丁堀地蔵橋のたもとに写楽斎という絵師が住んでいることを知って、東洲斎写楽と間違えた。
続いてこのあたりの地図を調べ、地蔵橋のたもとにあった斎藤家を、写楽の家だと思ってしまった。そしてこの斎藤家の職業が能役者だったため、写楽斎も能役者だったと思ってしまったゆえに東洲斎写楽もまた能役者になってしまった、そういう誤解の経路が疑えるんです』と記しています。

斎藤十朗兵衛に関しては6代豊国も島田氏も同じようなことを書いているのですが、島田氏の方が詳しく書いていますね。
まとめると、八丁堀地蔵橋のたもとに写楽斎という絵師が住んでいて、それを東洲斎写楽と間違えた、ということらしいのです。
しかし、なぜ写楽斎が斎藤十朗兵衛になったかというと、島田氏によれば、八丁堀は同心、奉行所勤めのお役人が住むところで、お役人でないのは、斎藤十朗兵衛だけだったらしいのです。
島田氏の調べはこれ以降も進み『斎藤月岑という人は、江戸神田の町名主だったんです。だからそういう彼なら過去の町内事情にも通じているだろうし、必要ならいくらでも過去の記録が当たれるだろうということで、彼の「増補浮世絵類考」の記述がとりわけ信頼をかくとくしたんです。
でもこれいろいろぎもんてんがありましてね「江戸方角分」に記載されている写楽斎には、この時点ですでに故人を示すマークがついているんです、文政元年の時点で、写楽斎は。
ところが、先の法光寺の過去帳では、八丁堀地蔵橋の斎藤十朗兵衛は、文政3年に58歳で没しているんです。「方角分」の書かれた翌々年です。ということは、文献資料を信頼する限りではこの二人は明らかに別人なんですよ』
『さらに、阿波候お抱えの能役者、斎藤十朗兵衛は、寛政12年1800年か、その翌年の享和元年までは、南八丁堀にあった阿波藩のお屋敷の中で暮らしていた、と先の法光寺の過去帳には書かれてあるんです。つまり写楽が現れた寛政6年には、十朗兵衛はまだ八丁堀、地蔵橋のたもとの家には越してきていないんです』と記してありました。

11、『写楽の実像』と『写楽、閉じた国の幻』の検証(その2)

『浮世絵類考』と『江戸方角分』のことを書きましたが、写楽研究をしていない人ではない限り、何を書いているのかわからないと思います。
私自身も1回、本を読んだだけではわからなかったし、このように書いていって、理解しているくらいです。
また、『諸家人名江戸方角分』に関しては島田氏の本の方を抜粋しましたが、6代豊国の本にも当然ながら載っています。
また、『浮世絵類考』では、これ以外にも長喜の記述が載っています。
そして『浮世絵類考』が文政4年(1822)に写楽の記述が二つに分かれるのです。
この二つに分かれる前の記述を6代豊国の『写楽の実像』から抜粋をします。

大田南畝の第一版の後に、いくつか追記が入るのですが、写楽の記載は同じでした。
大田南畝の写楽の記述をⒶとします。
次に第5版、文政4年(1822)、に式亭三馬による注が入ります。
これは先に書いた通り、写楽が八丁堀に住んでいた、と記されています。
これをⒷとします。
天保15年(1844)に斎藤月岑が「増補浮世絵類考」を出し、AとB、それに斎藤十朗兵衛は阿波候の能役者なり 号 東洲斎 と記されています。
ここまでは『写楽の実像』に書かれているのをまとめて書きましたが、次からは抜粋をします。

『ところが、やはりいろいろ研究する人もいるものだ。『類考』には違う道すじがある、といわれる人が現れた。あの北斎が写楽だというのである。それも、ちゃんと文献にある—と。由良哲次氏(故人)の論がそれであり、『類考』の道すじが、つぎのように記されているのだ。
原典は南畝のⒶである。
この南畝のⒶが、近藤正斎という人によって、『浮世絵考証』(享和2年)という書物となって表れるのである。近藤正斎とは、有名な探検家近藤重蔵である。
この『考証』も、写楽に関しては『類考』Ⓐそのままである。
ところが、文政4年(1822)になると、その写楽についての記録が変化するのである。
①画名何ト伝哉 薬研堀不動前通り 隅田川両岸一覧の筆者俗名金次
     イニ写楽斎トモアリ(イとは異本のこと)
     東洲斎ト伝
②写楽 東洲斎と号す俗名金次
 Ⓐの記事に加えて、
  隅田川両岸一覧の作者にてやけん堀不動前通りに住す。

①を坂田本と呼び、②を嵐山本と呼ぶらしい(これらを神宮本ともいう)。『類考』は文政4年まで誰の筆になってもおなじだったものが(写楽に関してであるが)、この年を経て、一方は「八丁堀」へ、他方は「やけん堀」に変化していったのである。
北斎説を取る由良氏は、「隅田川両岸一覧」の作者である北斎を持って写楽といい、一方、渡辺保氏は、金次から、劇作家・篠田金次をもって写楽とした。』

おそらく、10章と11章は難しくて、ちゃんと読める人はいないと思います。
ただ、写楽研究ではこの10章と11章を知ることは常識なのです。
そして、島田氏は写楽八丁堀説を1854年に出版された「本八丁堀辺之絵図」と、法光寺の過去帳において写楽斎と斎藤十朗兵衛は違う人物であり、阿波候の斎藤十朗兵衛が八丁堀に住んでいた時期と写楽が浮世絵を発行した時期が違うと突き止め、写楽斎も斎藤十朗兵衛も写楽とは違うと突き止めました。
6代豊国も違う説明でしたが、写楽斎も斎藤十朗兵衛も写楽とは違うという結論は同じです。

12、『写楽の実像』から読む写楽とは誰か?

ある意味10章、11章は飛ばしても構いません。
定説となっている写楽=斎藤十朗兵衛は違うということだけだからです。

6代豊国は口伝が全て同じではないということに苦労をし、推理をしていきます。
口伝で一番大きい違いが、叔父(5代豊国)は「写楽は下駄屋だった」といい、父(2代国鶴)は「写楽は上方の欄間師」だというのです。
6代豊国は、口伝を聞いていた時はその矛盾をただ受け入れていましたが、ちゃんと調べなおした後、すべてが納得する結論が出ました。
「写楽の実像」は276ページとそれほどのページ数ではないのですが中身は濃いし読みやすいです。
「写楽の実像」の第1章では歌川家と歌川一門、そして写楽研究では常識なことが書いた後に写楽はプロかアマかが書いてありました。
写楽は10ヶ月で141枚の浮世絵を書いたわけですからアマのわけがない、だから名のあるプロが写楽と名前を変え描いている、というところから写楽別人説があり、6代豊国は10か月で141枚描くのは特別なことではないと書き、叔父5代豊国は1日十数枚の挿絵を描いていたと記します。
これは、浮世絵の絵が版下絵だけだという、絵としては特殊なものなので、それ故たくさん描けるのですが、それが一般の人には不思議なのかもしれません。
版下絵とは墨で描いた絵(線画)で、それを彫り師が板に張り付け彫っていき(墨版)、摺の版数だけ摺師が墨版絵を摺り、その墨版絵に絵師が色を入れる、色指定ですね。

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つまり絵師の仕事は墨で描いた絵(デッサン画のようなもの)と色指定だけなのですから1日で2枚程度ならアマでも可能なのです。
逆に言うと、短期間の仕事は絵師よりも彫師、摺師の方が大変で、彫師、摺師の手配の方が重要なのです。
だから短期間で沢山の浮世絵を出版するというのは、絵師ではなく版元というプロデューサー(かかるお金も含めて)の力量が重要なのです。
写楽の浮世絵を出版した版元は蔦屋です。
この時期、蔦屋といえば有名な版元で力もありました。
何しろ、歌麿を世に出したのは蔦屋なのですから。
蔦屋といえば飛ぶ鳥を落とす勢いの版元といわれたのですが、写楽の浮世絵を発行した時期は少し事情が違っていました。
写楽の浮世絵が発行されたのは寛政6年(1794年)です。
その 7年前の天明7年(1787年)に松平定信が老中に就任したのです。
松平定信といえば田沼意次です。
昔は善が松平定信で悪が田沼意次でしたが、最近は逆の評価になっていると思いますし、私なんかは絶対に松平定信が悪ですね。
何しろ松平定信は徹底した引き締め、贅沢禁止政策をしましたから。
それは、現在のデフレ政策と同じで金融引き締め、消費税拡大です。
バブル時代が田沼意次の時代で、それ以後のデフレ時代が松平定信の時代といったとこでしょうか。
定信の政策により「写楽の実像」では『江戸の華といわれた歌舞伎も厳しい状況に置かれた。とくにその興行権を握る「本櫓」が、不況のあおりをうけて軒並み倒産した。本櫓といわれる江戸三座の中村座、市村座、森田座は、すべて「控櫓」にその興行権を移譲していた。控櫓とは、本櫓が危機に陥ったとき、かわって興行をなす臨時興行主である。
歌舞伎の歴史のなかで、すべてが控櫓となったのは、写楽出現の年、寛政6~7年のみである。
写楽の絵はすべて、控櫓の都座、桐座、河原崎座の舞台にあった。
寛政改革は出版界にも大打撃を与えた。出版を許されていた林子平の「海国兵談」も発禁、恋川春町は「鸚鵡返文武二道」で捕縛、自殺した。山東京伝は「富士人穴見物」で松平定信を揶揄、「仕懸文庫」ほかでついに50日間の手鎖の実刑を受けた。さらに狂歌界の大立物・大田南畝は筆を折り、官界に逃れた。』と記した。
その後に関東大震災後の政策や江戸の三大改革はデフレ政策で、文化の華が開くのはインフレ時であると「写楽の実像」では書き、その後に蔦屋のことを書いていきます。
バブルの時代に「写楽の実像」は書かれたのですから、その時にデフレ政策を書くというのは凄いことです。
何しろ、戦後生まれの者はインフレしか知らず、デフレという名前は知っていても、それがどういう世界なのかは理解できていませんでした。
6代豊国は関東大震災を経験しているからデフレも経験し、デフレの向かう先は戦争であり、デフレは文化を殺すということを身をもって知っていたのだと思います。

下記、松平定信の政策を「写楽の実像」から抜粋

『出版物に対する(特に風俗出版を中心に)干渉である。蔦屋はこれによって大打撃を蒙ることになる。山東京伝の逮捕による連座で、私財半減、書籍・版木の処分である。寛政3年のこの事件が、蔦屋を役者絵出版に走らせることになる—という説が一般的である。これは、布令にある。
「一枚絵之類は、画のみに候はば、大概は不苦候」

(この時期、絵本は取り締まりが激しかったのですが、浮世絵という一枚絵はたいがいは発行しても大丈夫ということです)

を逆手にとってのことというのである。
そこで蔦屋は、役者絵の画家を物色し、歌麿がそこに上げられた。有望な新人豊国が和泉屋から役者絵を出すということを知ったからだというのである。
ただし、私は(6代豊国のこと)そうは思わない。従来、豊国は蔦屋から出版されていないといわれていた。しかし、豊国はこのとき、すでに蔦屋から何枚かの絵を出しているのである。』

6代豊国の「写楽の実像」では、P79まで上記のことが書いてありP80で一般識者の説が載ります。

『蔦屋が歌麿に役者絵を依頼したかどうか不明である。ただし、もし蔦屋がこの布令を逆手にとろうとして役者絵出版に踏み切るつもりがあったなら、豊国でも歌麿でも出せたと思えるのである。
一般の識者の説を続けよう。
蔦屋は、歌麿にそれを依頼し、ことわられたといわれている。それまで蔦屋が独占的に歌麿を支配していたのが崩れ、歌麿は、商売敵の鶴屋からも出版したのである。鶴屋からの出版は美人画である。この間の事情はもちろん不明だが、役者絵をことわられたこと(かどうか真相は不明であるが)より、鶴屋からの出版のほうが、蔦屋のとってはショックだったといえまいか。
役者絵に関しては、すでに勝川派も鳥居派も手をつけていた。あえていえば、写楽や豊国が最初ではない。ところが勝川や鳥居は、本櫓の森田座・中村座・市村座に関係していた。その本櫓三座が時をおなじくして倒産、その興行権は控櫓 
に移っていたのである。
写楽の絵は、たしかにこの間隙を縫って登場する。二流どころといわれた和泉屋も、豊国を使って寛政6年正月、写楽よりも5ヶ月早く、河原崎座の「御曳花愛敬曽我」を発表している。
蔦屋は、この期に歌麿で役者絵をと考えたが、歌麿にふられ、ついに新人・写楽を登用した—というのが識者のアウトラインである。』

この本櫓、控櫓はなじみのない言葉で難しいかも知れませんが、島田氏の『写楽、閉じた国の幻』では、これが肝になります。
島田氏の『写楽、閉じた国の幻』は小説ですから、この本櫓、控櫓のくだりから推理小説が始まります。
それに比べ6代豊国は、この辺はさらりと書いています。
6代豊国からすれば、本櫓、控櫓のことより、この時期の蔦屋の状況の方が重大だとし、山東京伝の事件により、財産が半分になり、版木も抑えられてしまい、資金が涸竭したときに写楽登場となる、としていきます。

13、江戸出版事情

蔦屋が活躍したの頃の江戸の出版事情は本(草双紙)が中心で、その本が貸本屋に卸されていました。
私たちは江戸の出版物といえば錦絵(浮世絵)だと考えますが、主流は本(草双紙)なのです。
印象派時代のパリでも、北斎は錦絵で有名になったのではなく、『北斎漫画』や絵本(草双紙)で有名になったのです。
蔦屋にしても錦絵で頭角を現したのではなく、本(草双紙)でした。
そして蔦屋が出版した本といえば、誰もがあげるのが吉原のガイドブック「吉原細見」です。
6代豊国よると、江戸には500軒も貸本屋があったそうです。
ただ、これは店としての軒数だと思います。
貸本屋の業務は店でお客を待つのではなく、自ら本を担いでお得意様を回ることでした。
その人数は、文化5年(1808)で6500人、そして一人が持つお得意様は170軒から180軒といわれています。
本の貸代は新刊で24文、古本で16文だそうで、大体新刊本の値段の10分の1の値段設定だったようです。
つまり、新刊の値段は240文というところなのでしょう。
ちなみに、井原西鶴の「好色一代男」の値段は8巻で1700文です。
江戸時代、ソバ一杯の値段は16文だと言われ、浮世絵の値段もソバ一杯だと言われていますが、普通はそれより少し高く20文か24文です。
江戸時代は4の倍数の価格が多く、特に16文から24文がお手頃価格でした。
お酒1合も20文か24文でした。
おそらく、浮世絵の価格は貸本代1冊の価格から出た価格だと思います。
浮世絵の販売は200枚が最低枚数です。
人気が出れば2摺り3摺りと出していきます。
これは今の出版事情と同じです。
『名所江戸百景』や『富岳三十六景』の人気作品は1万枚摺られたものもあります。
ただ、人気作品は何千枚といったところでしょうし、ほとんどの浮世絵は1摺り200枚で終わったかもしれません。
6代豊国は、写楽の浮世絵にかかる費用が、彫り、摺り、和紙と合計すると現在の価格で1枚20万円くらいとよみました。
浮世絵の売値が24文だと200枚で4800文です。
ソバ一杯が16文だとすると、現代だとソバは600円くらいでしょうか?
仮に16文を600円とすると4800文は18万円です。
つまり総売り上げが18万円だということは、作る代金はその50%くらいではないかと考え、それだと9万円です。
現在も浮世絵は復刻版が売られていますが、1枚13,000円です。
200枚完売すれば260万円です。
現代と江戸時代では職人の手間賃が大きく違うのでしょう。
江戸時代の浮世絵1枚の絵師の代金が6000円ですから、摺師も彫師も最低賃金しか払われていないと思います。
つまり、浮世絵は本と違い大きな商売にはならないのです。
だから写楽の浮世絵も数枚出版したというのなら、それほどのお金はかかりませんし、売り上げも大したことはありません。
大体、浮世絵師は浮世絵の絵を描いただけでは生活はできません。
1枚6000円なら、最低、1日2枚描かなくては生活ができないでしょう。
それ故、浮世絵師がお金を稼ぐのは本の挿絵とか、カレンダーの絵とか、絵の受注を色々したのです。
その中で、一番大きいのは春画です。
春画は絵師ならばみんな描いています。
北斎も歌麿も豊国も広重も。
描いていないのは写楽だけです。
何しろ、浮世絵は出版のメインではなく、浮世絵師も、浮世絵の絵を描くだけでは生活ができなかったのです。
蔦屋が出版した錦絵の絵師を6代豊国の本から抜粋しますと、
歌麿(149)、勝川春潮(8)、北尾政美(1)、鳥居清長(38)、勝川春英(4)、栄松斎長喜(29)、鳥居清政(1)、歌川豊国(8)北斎(8)、窪俊満(7)、写楽(141)です。
歌麿と写楽が飛びぬけて多いです。
それでも、歌麿の149枚を200枚完売として、売り上げを計算すると715,200文、現代価格だと2682万円です。
井原西鶴の「好色一代男」の値段は8巻で1700文で、これに冊数(最大6500冊ですが5000冊とします)を掛けますと、8,500,000文、現代価格だと318,750,000円です。
つまり本がベストセラーになれば3億円以上の売り上げがありますが、浮世絵は、歌麿の総売り上げでも2600万円なのです。
この辺のビジネス感覚を知らないで浮世絵研究、写楽研究をしている人もいるかもしれません。
現代では、浮世絵は欧米の主要国立美術館に所蔵されている日本の誇る美術品だとされています。
だから、写楽の浮世絵が発表されたときは、ほとんどの出版関係者が注目をしたと勘違いをしてしまいます。
しかし、写楽は10ケ月で141枚の浮世絵を出したことは確かに多いのですが、売り上げで考えれば本1冊の売り上げと変わらないのです。
つまり、よほどの関係者でなければ写楽に注目をしていないということです。
それ故、写楽のことが文献にほとんど載っていないというのは当たり前なのかもしれません。
それでも歌麿、北斎、豊国という、蔦屋の時代の代表的な絵師は写楽をもの凄く意識しました。
北斎や豊国は写楽のことを身近なものに話し、それが口伝となり6代豊国まで続いています。
なぜか?
それは歌川に残されている「名人の極意は、北斎の捨て定規。写楽の輪と教えられた」という言葉です。
捨て定規というのは、線を描くときには定規を使いますが、定規を使った線は固く感じ、線で様々なものを描くのが難しくなります。
ところが北斎の線は定規を使っていないような線に見えるのです。
だから雨の線は雨のように見えるし建物の線は建物に見えるのです。
決して定規を使っていないというわけではないのですが、定規を捨てて(使わず)描いた線に見えるということです。
写楽の輪は円を描くのがうまいということなのですが、ただうまいのではなく、写楽の円は立体的な円に見えたそうです。
それ故、歌川では「名人の極意は、北斎の捨て定規。写楽の輪」という言葉が弟子に伝えられていったのでしょう。
つまり豊国は写楽を認めていたということです。
というより、尊敬していたでしょう。
実際、豊国の役者絵はしばらくの間、写楽の模倣であり、それが豊国が写楽だという説も生まれる原因にもなりました。

14、歌麿

歌麿が写楽に対して頭に来ていたという話は有名です。
6代豊国は歌麿と写楽のことに関してどのように書いたかをまとめたのを載せようと思いましたが、難しいです。
歌麿は『文読み』で写楽と蔦屋の悪口を書いた、ということなのですが、これだけだとどのような悪口なのか? と気になってしまいます。
そこで本文P130からP134まで全文抜粋をします。

【歌麿の謎の「文読み」

写楽と相対となったのは歌麿である。歌麿を写楽だという説もあるが、残念ながらやはり無理だろう。作風がまったく異なっている。歌麿といえば美人画だが、その作品は美人を描すことはあっても、似せるという意図がまったく考えられていないのである。歌麿の美人画はすべておなじ顔をしている。少なくとも素人にはそう見える。
写楽は似せることを主とした。その誇張はあっても、役者のもつあからさまな姿を描くことにあったといってよい。
歌麿はここに自らの作風を論じる。
「夫れ吾妻にしき絵は江都の名産なり 然るを近世この葉画師専ら蟻のごとく出生し只紅藍の光沢をたのみに怪敷形を写して異国迄も其恥を伝る事の欺かはしく 美人画の実意を書てこの葉どもに与ることしかり」と。
これは『錦織歌麿形新模様』のうちの「煙管もつ女」に記された「文読み」である。
歌麿のいうには、わが国の錦絵というのは、江戸の華である。しかるに昨近は、とるにたりない木っ端絵師が蟻のように登場し、紅藍の光沢をつけたあやしい絵を描いて、その恥をさらすこと外国まで伝える。まさになげかわしいしだいである。
美人画の本質、錦絵の本来の姿を、この歌麿が描いてやるから、この木っ端絵師ども、参考にするがよい、というのである。
この作品は寛政9年のものといわれる。紅藍の光沢をたのみにあやしき形を写している木っ端絵師とは、誰か。まさしく写楽そのものなのである。歌麿は、なぜこのように、写楽を意識したのか。
もともと歌麿は、蔦屋重三郎によって発見された。過去に、蔦屋で出版された誰よりも、歌麿の数は多い。その数は149枚といわれ、他の清長や長喜などに比してもくらべるものもないくらいである。ところが、歌麿と蔦屋のあいだにソゴが生じた。どうも歌麿が蔦屋だけでなく他の版元からも注文を受けて描きだしたためといわれる。
歌麿独占に破れた蔦屋は、写楽を発見する。そして短期間に、歌麿に近い作品数を発表した。それが自費出版か否かは別として、歌麿の自尊心を揺り動かしたことはおそらく大いにありうる。
この「錦絵歌麿形新模様」は3枚1セットである。「煙管持つ女」「うちかけの太夫」「浴衣の女」である。そしてそれぞれ、文読みがある。

画像28

「煙管もつ女」は前記したが、他には、
「凡美人を画にみす身と云事有は唯容愛と美相のふたつなり、されば面作うつくしく媚に愛を含すればおのずから賢人の心動きまた形嬋娟にして風情有時は人情伝染するものなり、ねがわくば予が筆意の艶と不具のうつし絵とて猶諸君子の貴評を伝」(浴衣の女)。
「筆意の媚うるはしく墨色の容顔たをやかなればたとへ麁画のつづれ草筆の素裸を画とも予が活筆は姓施なりまた紅藍紫青の錦をまき紅粉にてかの不艶君を塗かくせども唐画の浅ましさは日追て五体の不具を顕し其情愛をうしのふにおよぶ依て予が筆料は鼻とともに高し千金の太夫にくらぶれば辻君は下直なるものを思ひ安物を買いこむ版元の鼻ひしげをしめす」(うつかけの太夫)。
この3部の「文読み」は、おそろしく歌麿の自負心、自尊心の高まりを示すものである。
安物を買いこむ版元とは、いうまでもなく蔦屋のことであろう。そして安物とは「写楽」のことである。
おなじく彼の作品「おはん長右ェ門」の文読みには、つぎのように書かれている。
「予が画くお半長右エ門は、わるぐせをにせたる似づら絵にあらず、中車は美男の家なり、粂三郎は当時の娘がたなり、いづれ両人のうつくしき舞臺がほと、かはゆらしき風情とを晝て、誠に江戸役者の美なるを、とつうらうらまでも知らせまほしくいささか筆を述ぶるのみ」
この「わるぐせをにせたる似づら絵」が写楽のそれであることは、いうまでもない。
歌麿は、写楽を異常と思えるほど意識している。その理由は、これらの文読みに見られるものだが、それ以上に写楽を素人だからと見たのかもしれない。
蔦屋に発見され、蔦屋によって育てられた歌麿が、蔦屋と多少気まずい関係にあったとしても、やはり蔦屋を意識したのだろう。そんなおり、画風も異なる一介の素人が、誰もなしえなかった黒雲母摺役者絵28枚を一挙に出版したのである。素人作家が全集をだしたようなものである。嫉妬と憎しみが彼をして写楽に向かわせたのであろう。】

長い抜粋でしたが6代豊国がどのように本を書いたかの参考にはなると思います。

15、写楽の伝承

『写楽の実像』の2章の最後に写楽の伝承を一通り載せています。
まとめたのを抜粋しようとも考えたのですが、後世のために全文抜粋をしておきます。
今なら6代豊国の『写楽の実像』をアマゾンで中古本が買えますが、いずれ無くなってしまうかもしれませんからね。

【伝承の語る写楽の生涯

浪速の欄間の彫り物師

宝暦年間、大阪は摂津の西郊、場所は不明だが、欄間の彫り物師に一人の男子が誕生した。名を庄六といった。家業は欄間の彫り物職人だが、もとは佃の漁師であったらしい。そのためか、この庄六は”佃出身だ”と後に語っている。佃は神崎川の洲で、摂津でも有名な漁師村であった。なお、そこには欄間職人の住んだ記録はない。庄六は長男であり、のちに弟が一人生まれる。庄六は家業を修むぶく、業をつむ。弟の生まれた年、京都の大工の息子が内弟子として入ってきた。名は甚助とか甚一とかいったらしい。年は庄六より一回り年長であった。庄六は欄間の彫り物修行に明けくれた。欄間職は、もちろん天分もあろうが、努力が第一である。その努力とは、作画である。1枚のスケッチを描いても、それが平面的であってはならない。すべて立体的なスケッチが必要なのである。さらに重要なことは、木目の読み方である。材料が朴や桐材なら問題はないが、桜、杉、松材ともなると彫刻の形と材料、材質のアレンジは、いっそうむずかしくなる。大工と違い、彫り物師には一種の美的センスが必要なのである。庄六は一日じゅうスケッチに出歩くこともあった。実務は父と内弟子に任せ、神社仏閣に出かけたりした。風景画も大きな修行である。庄六が12歳のころ、内弟子の甚助と母がねんごろになった。道ならぬ恋とて、いろいろ悶着もあったろうが、この二人は京都に逃れた。京都で二人(実は弟を含め三人)は、行商に出たりしていた。何の行商か不明だが、のちの話では、下駄の直しだったともいわれる。また、為替などの操作をしていたともいわれるが、実のところは金貸し業で、いわゆるヤミ金融であったようだ。京都は典型的な消費都市で、下駄商も悪くはなかったのだろう。遊戯関係にもあたりをきかせたのかもしれない。数年のち、彼ら三人は江戸に出た。理由は不明である。ただし、江戸でも下駄商であった。残念なことにこのとき、庄六の弟は死んでいた。

竹本座に通う

一方、残された庄六は、母の失踪後、堀江の材木商に丁稚奉公に入っていた。14歳のときだということである。このあたり一帯はいわゆる材木街で、欄間の彫り物師になろうとするとかならず材木店の見習い奉公に出された。彫り物師にとって、材質こそが命だからである。母の失踪のショックは、父にもっとも大きくのしかかる。父は、庄六が二十歳になる前に死んだ。これより先、庄六は一端の欄間の彫り物師となっていた。奉公は二年限のものであったので、16歳のころには、帰っていたのだろう。父の死によって家財は整理された。というより叔父がおなじ欄間職人だったので、叔父方に身を寄せては、ということであった。叔母は義太夫の三味線弾きで、竹本座の公演に通っていた。庄六はそのため、三味線の箱持ちの役で、竹本座に通うことになる。庄六はここで人形浄瑠璃の動き、所作、頭、衣裳について丹念に写生する。ときには食べるのも忘れて、いろいろな仕種を追っていった。このため、叔父とたえず衝突することになる。仕事に身が入らないのではなく、いわゆる得意先の注文や決まりの形と異なった彫りをしようとするからである。叔父のもとで修業していた庄六は、叔母のところに義太夫の三味線を習いにきていた一人の娘を知る。この娘は、従兄弟の許嫁であったのだが、ここで二人は恋仲になる。もちろん許されるわけのものでない二人は、叔父の家を出るしかない。庄六とこの娘は、江戸に向かうのである。ただし、この件は信用しがたい。父は話ができすぎている、”梅堂国政翁の作り話だ”と私に語った。庄六が江戸に出た動機は、不明である。たしかに14歳で堀江の材木商に丁稚に出ていた。材木商には一種の相場師的なところがある。江戸は火事が多い。もちろん京大阪もそうであるが、そのたびに相場が変動する。そのあたりにないかありそうである。たしかに庄六の江戸行きは26歳ごろである。江戸に自分の実母が暮らしていることは知っていたが、もちろん頼るつもりはない。自分を捨てた母であり、義父である。庄六は佃島に居をかまえる。佃島はいうまでもなく、庄六の生地・摂津佃村の住民が移り住んだ場所である。それよりも前、江戸に着いた庄六は、吉野屋という宿屋に泊っている。そこは宿屋でありながら一方で口入稼業をしている。職をたのもうとして話をしているうちに、その主人が”下駄商の甚兵衛”なるものを知っていることが分かった。下駄商の甚兵衛とは、見習職人の甚助である。つまり庄六の義父であった。ところで、庄六はなぜ江戸に下ったのか。これは不明である。材木商との関係は、丁稚時代を含め、江戸に下るまで商売上つづいていたので、あるいはそれかもしれない。だが、もう一方で、彼のスケッチ好きが、江戸に走らせたのかもしれない。大げさにいえば、芸術的好奇心であろう。

下駄屋甚兵衛

佃島に住んだ庄六は、とりあえず、欄間や水屋の彫刻でなんとか糊口をしのぐ生活を行う。仕事は深川や木場に多く、そこに住むつもりであった。
ところが、ひょんなことから、実母・義父(甚助→下駄屋甚兵衛)との交流がなり、結局、下駄屋を手伝うこととなった。といって居候というわけにもいかず、欄間の仕事も行う。下駄屋というのは、上は大名家のものから下は宿の下駄まで種が異なる。特に歌舞伎役者などは、そこに贅をつくした。庄六の目は、歌舞伎に向けられる。

下駄屋甚兵衛は金貸し業もしていた。一方、庄六は、江戸と上方との相場の差を甚兵衛に話したりもした。
金と銀の換金も含め、江戸・上方の経済不均衡は、田沼政治の拡大政策下でどうしようもなくなっていた。金貸し業はその点、敏感である。「下駄屋甚兵衛書上書」が勘定奉行配下、関東郡代に提出された。
この書は、田沼政治の見直しを訴えた者であり、松平定信の寛政改革の嚆矢となった。
庄六は、このころ歌舞伎に入れこんでいた。庄六の主張は、リアリズムであった。鳥居の役者絵は「瓢箪足ミミズ画き」である。たしかに力強いが、物足りない。鳥居は市川団十郎を得意としたが、それは団十郎ではない。まったく似てないというのが庄六の主張である。庄六は鳥居は下手だという。
甚兵衛は、貸本業もはじめた。神田錦町、日本橋通三丁目に店を開いたという。それは、金融のカタであったらしい。この貸本屋では下駄もあつかった。というより、下駄屋の一角が貸本屋であった。
庄六には、神田錦町の店があたえられた。その店の名を庄六は、東国屋と名づけた。
庄六と甚兵衛が確執を起こすようになったのは、母の死以来である。もともと年齢が20近く違っていた甚兵衛と庄六の母である。理由の最大のものは、たぶん女であろう。
庄六は貸本屋を商っていた。もちろん下駄屋もである。そして歌舞伎の楽屋に出入りする。貸本屋としても、下駄屋としても、お得意様であるからだ。
そんなある日、庄六が通っている歌舞伎の楽屋に十辺舎一九が顔を出したのである。

一九との再会

一九と庄六は、すでに見知りのあいだであった。
一九は駿河の侍であって役用で大阪の天満に出ていたのだが、そこで武士をやめ作者を志していた。一時期、材木屋の番頭をしており、名は市久といった。庄六も彫の材料である材木の研究のため2年ばかり材木商に丁稚に行っていた。庄六と一九の出会いは、この材木屋であった。さらに数年たって、庄六は叔母の関係もあって、竹本座に通いつめていた。作家を志していた一九もまた何度か竹本座に出入りしており、二人は旧交を暖め合った。一九と庄六の出会いは偶然だという。
一方、下駄屋甚兵衛は、通三丁目の店を拠点に、版元(出版社)になることをもくろんでいた。彼は、蔦屋を通じて馬琴、北斎、京伝を知った。とくに馬琴が下駄屋の入り婿であり、おなじ元飯田町に住んでいたため、その関係は早かった。また蔦屋の仲間というか、スポンサーすじの石川雅望もわけ知っていた。
豊国についてはまだ知らなかったようだが、のちに甚兵衛との関係ができた。
一九との出会いは、庄六に何をもたらしたか―。
一九は、庄六のスケッチを見て驚いた。これはものになると思ったのだろう。
一九は歌舞伎関係に仲間が多い。とくに関西系の役者とのつながりは、一九の上方でのつきあいからきている。役者とのつきあいの深い一九を版元の蔦屋に紹介したのは京伝であるが、蔦屋が役者絵を出したいという気持ちもあって、一九にそのことをただすと、一九は即座に庄六の名をあげた。
十返舎一九は、大阪の流行狂言作者・並木五瓶の江戸行きのための先発隊であったようだ。
一九は庄六に蔦屋の窮状を訴えた。庄六にはそれが、京伝筆禍事件による蔦屋の身代半減、闕所処分であることがわかった。庄六は、蔦屋が歌麿で使った黒雲母版による役者絵にしたかったのだが、それでは経営は成り立たない。
蔦屋はそこで、庄六の絵を見て驚きながらも、これは売れない、といった。もし出すなら、売れなかった分は引きとる条件ではどうか、ともちかけた。
庄六は二つ返事で了承した。
自分の作品を出してもあえるなら、ということもあった。一方、麹町・平河町で義父が出版社をしようとしていることへの対抗意識もあった。
蔦屋は下駄屋のことは知らないふりをした。
庄六のこのことを知っていたのはこのとき、一九と蔦屋だけであった。
作業は一九と庄六が共同で行った。
第一回は二八枚、黒雲母版であった。この発行に、びっくりしたのは、北斎である。北斎は”あれは誰だ”と執拗に蔦屋に問いつめた。北斎は、とても激しやすかった。この庄六の絵にショックを受けていた。すでに彼も役者絵を描こうとしていたが、その才はなかった。負けずぎらいの彼が、庄六の絵に競争心をあおられたのは当然であった。
もう一人、ショックを受けた人物に、歌麿がいた。歌麿は写楽と蔦屋との関係が、自分が役者絵をことわったからだと、本心で信じていた。実は、写楽のこれが自費出版のようなものだとは、知らなかったのである。
庄六が下駄甚の関係者である、と北斎が知ったのは、かなりのち、といっても写楽の作画が終わった寛政7年ころであった。馬琴が知ったのも、どうやらその前後である。北斎や馬琴にしろ、京伝にしろ、写楽が新人であることを知って驚いたのは、誰かの覆面ではないかと疑っていたからである。
北斎が写楽をして「あの下駄屋の……」と、ちょっと馬鹿にしたいい方をしたのは、ずっとのちのことである。
写楽の絵にもっともショックを受けたのは、北斎、歌麿もさることながら、実は豊国であった。
豊国も役者絵を本文としていたからである。豊国は写楽より若かったせいもあって、写楽絵に近づけようと努力をした。
正直なところ、初代豊国作画は、写楽の模倣に近い。似ているという説は、真似をしたといったほうがいい。
ところで、豊国と北斎と写楽は囲碁仲間であったという。これは、梅堂国政翁の話だが、北斎と写楽がどの程度のつきあいがあったのか、わからない。北斎は、それでも写楽の碁は下手くそだと語っていたという。
私が子供ころ、三田村鳶魚先生がうちに来られ、父の2代国鶴に豊国のことで調査をし、史料を集めておわれたことは、序章でふれたとおりである。先生は源蔵豊国のことや、豊国の娘のことを調べておられた。写楽のことで父が先生になにか話していたのを記憶しているが、鳶魚先生は、あまり興味を示さなかった。今にして思えば、写楽より豊国のほうが明らかに著名であったのである。

東洲斎写楽を名乗る

写楽の作画で気づくだろうが、第一期は実に多くの人物を描いている。有名無名とりそろえたものであり、当然のことながら売れないのである。そこで第二期からは当時の流行役者のみを描くようになった。さすがの蔦屋も注文をつけたのだろう。
さて、ここで東洲斎写楽の号だが、当初、庄六の画号をどうするかが問題となった。庄六は、豊国と親しい一九や京伝に、歌川一門の名で出版してもよいかどうか打診したともいわれている。
歌川一門というのは、寄人講でできていて、幕府あて、その一門の名簿を寺社奉行に提出していた。いわば登録制のようなものである。歌川一門は豊国の性格もあるのだろう。非常に穏健な、いわば親幕府的な立場にある。そのため寺社奉行からも興行の一切木戸銭免除などや、幕府御用の諸特権を得ていた。
ところで、庄六(このころ東国屋甚兵衛と名乗っていた)も、実は幕府御用の下駄屋である。当然そうなると二重登録になる。豊国はこれを危惧し、歌川の名を出すことをことわったという。
そこで「庄六」の名から「写楽」、はじめて住んだ土地「佃島」の地から「東洲」の号をつけることになった。
写楽の絵は売れなかった。役者絵というのは、第一に役者が買う。ヒイキ先にくばるからである。この役者が写楽の絵にクレームをつけたのだから始末が悪い。今でもそうだが、よく書いてほしい、描いてほしいというのが人気商売の常である。しかし、写楽の絵は美しさよりも、似顔絵的なものを強調していたのである。
そこで庄六は、蔦屋との約束どおり、その絵を引き取った。そして、自分の下駄屋の店でそれをさばこうと考えた。もともと写楽の絵は一種のブロマイドのようなものである。その絵を籤付きで販売しようというのである。1等は芝居の切符、枡、ひょっとして下駄もあったかもしれない。ただ、この作戦によって、写楽の絵はけっこう売れた。
しかし、こうなると非難も出る。もっとも目を光らせたのが、町奉行であった。奢侈禁令は、当時、頂点に達していたのである。

写楽の事故死

写楽の絵を買ったものにはクジをひかせて、当たると景品が出る―という売り方は「富籤の無許可販売」の罪にあたっていた。それほど犯罪性の高いものではないのだが、もともと目をつけられていたこともあって、寺社奉行が摘発したのである。
庄六(東国屋甚兵衛)の神田錦町の店は、閉鎖をくらった。蔦屋に類がおよばなかったのは、蔦屋が写楽と関係ないことを強調したからだ。蔦屋は先の京伝事件で懲りていた。蔦屋の写楽に対する沈黙は、それを物語っている。写楽は謹慎処分を命じられた。
こうして神田錦町の”東国屋”の店はたたまれた。そして佃島における庄六(=写楽)の隠遁生活がはじまったのである。
通三丁目の甚兵衛の店が、麹町平川町・衆星閣角丸屋甚助店になったのは、写楽処分ののちである。庄六と甚助は、交際を断っていた。写楽の素性は、豊国、北斎、馬琴にまで知れたが、それでも義父—義子の間柄だったことは、一九しか知らなかった。
蔦屋にとって写楽は、星であったと同時に、厄介な買い物であった。たいした類もおよばなかった写楽事件ではあったが、蔦屋はそれでも一切を語ろうとはしなかった。
寛政九年六月、その蔦屋は死んだ。庄六はその葬式には出席していない。庄六もまた病んでいたのである。病名は中風だというが、詳しいことはわからない。庄六はかつてスケッチをしていたのか、風景画も多く残されていた。
同じ年の七月七日、庄六は物干しから落ちて、死んだ。写楽の死をいちはやく知ったのは、一九であった。一九はまず豊国に伝えた。
豊国は、写楽の遺品を集めた。それより先、豊国は写楽に何度か会っていた。
豊国は、写楽のことをライバルだとは思っていなかった。むしろ”師”くらいに思っていたようである。豊国も写楽も、蔦屋のことはあまりよく思っていなかった。豊国も庄六とおなじく職人の出であった。その点で庄六に対しての接し方は、鄭重であった。豊国は師に豊春をもっていたが、作風への影響は、庄六=写楽から多く受けていた。
豊国は才能にかけては、北斎や歌麿に遠くおよばず、独創性にしても写楽の比ではなかった。ただ、人の意見を聞き、人と争わず、さらに天分に近い研究熱心の人であった。その点ではすこぶる正直な人であった。庄六のスケッチは、豊国にあずけられた。彼は熱心にその手法を学んだ。
ただ、彼もまた名を上げる。そんなときにあって、豊国は、写楽の名を一言半句も出していない。一九もまたそうであった。ただ、歌麿や北斎は、その行方を気にしていた。
北斎は、写楽の浪速言葉を嫌っていた。だが、それは写楽を意識してのことである。同化性・協調性の極度に弱い北斎が、役者絵描きを無視しつづけていたからである。
北斎は後年、広重の絵を見て、写楽登場のときと同様のショックを受けた、と語っている。
北斎のショックは正しかったのである。写楽のことは、その死後二、三年も経ずして語る人もなくなった。馬琴にしても、庄六の義父・下駄甚こと角丸屋甚助とのつきあいが始まっても、あまり聞こうともしなかった。石川雅望も語っていない。豊国や京伝も、あるいは豊広も、角丸屋甚助と関係したが、写楽との記録はない。
甚助は、庄六のことをなんと思っていたか不明だが、快く思っていないのは、写楽が甚助にとって過去につながっていたからかもしれない。

北斎・豊国らと碁を打つ写楽

北斎が歌川の伝承の鍵を握る人物であることは、この稿にあって一貫されたものである。ここで、私がその北斎について聞かされてきた話を記したい。
すでに述べたように、「北斎の捨て定規」なることわざが伝えられてきた。定規によって寸法を割り出す方法である。
このことについては、すでに記録も残っている。ここにその一部を載せてみる。

或画工の話に、浮世絵の専門語に、割出し、一に割物といふあり、即角物と丸物の割合にして、幾何の術によらざるを得ざるものをいふ。これは名手にても、腕と筆との工合のみにては、描き難きものなり。北斎翁は、よくこの割出しに精しかりし。絵草紙問屋某が、或人の嘱託にて、豊国(1世)の許に至り、絹地へきりこ燈籠を描かんを請う。豊国諾して直に描き始めしが、暫くありて筆を投して曰く、容易に似て、容易にあらず、緊急の需に応し難と。某止むを得ず、去りて北斎の許に行き、描かんを請う。翁直に答えて、割物なれば、明日来るべしといひ、約の如く描きたり。後に豊国これを聞き、嘆して曰く、北斎に及ばざること遠しと。又翁一商某の家に来り、紙鳶を描くべしといいて、大なる鯰、大なる瓢箪など、筆にまかせて描き出たし。これを切り抜き、骨を貼付し、糸目をつけてあげるべしといふ。某其の言の如くしてあげたるに、中心其の所を得て、左右に傾くことなかりしと、これ割物に精しきにあらざれば、なを能はざる業なりと……。(『葛飾北斎伝』より)

左甚五郎伝に似た、名人たる北斎の名人たるゆえんを記した一説である。
後にこの話を聞いた写楽は、豊国と碁を打ちながら、割り物の講義を、豊国にほどこしたという。元は欄間職人の写楽にとって、このようなことは、たいしたことではなかったのである。その後の歌川一門は、写楽のこの手法をもって、割り物の便を得たという。
写楽の無許可富籤発行の裁きが瓦版になっていたと、北斎が祖父・国鶴に話し残しているのである。このことについては、北斎ばかりでなく、梅堂国政翁も語っている。
瓦版の出版に対しては、幕府の圧力が比較的に弱かったといえる。これは、幕府側が瓦版を一種情報操作の具に使ったふしもある。その表裏の壁に、うまくとり入ったのが、初代豊国を中心とした歌川一門である。
瓦版の絵の大部分は、したがって歌川一門の手になるものであった。歌川一派は、幕府の政策を是とする方針であり、それは豊国の体質にあったようである。歌川一門は、暗に幕府の扶持をもらい、幕府はその機関を利用したということである。
ただし、この写楽と東国屋甚兵衛、下駄屋甚兵衛の時代、豊国はまだ三十歳前で、一門の総師とはいえ、」幕府の情報操作にどの程度かかわっていたかは、詳ではない。
北斎の語った時代は、その後40年近いのちであり、この時期、歌川一門は、幕府関係に深くかかわっていたのは事実である。

16、伝承の補足

『写楽の実像』のメインは歌川の伝承なのですから、全文276ページのうち16ページだけを載せればいいのですが、6代豊国はその16ページのために、様々な角度から検証を書き276ページにもなりました。
そして、伝承以外にも6代豊国自身が推理したことも書かれており、それもここに補足として載せなければ、口伝だけでは矛盾したことや、よくわからない箇所も出てきます。
12章でも書いた叔父と父の口伝の違いは前章で理解できたと思います。
欄間師の庄六が江戸に下り義父の下駄屋を手伝ったから、欄間師とも下駄屋をやっていたとも口伝では残されていたということです。
写楽が十返舎一九だという説を取る人が多い。
六代豊国も説明を載せている。
一九説の重要な根拠に、三馬の『稗史億説年代記』に写楽は載せてあるのに一九の名前が載せられていない。
『稗史億説年代記』が刊行された享和2年までに一九の描いた作品は100点以上にものぼるのに?
と六代豊国は書き、一九が写楽本命でもおかしくはないと記します(もちろん後に伝承を書き、違うと説明はしますが)。
また、一九で重要なことを「写楽の実像」から抜粋します。

『写楽の作風のほか、写楽像を考えるうえで重要な足がかりとなったものに、一九が自画自作した『初登山手習方帖』がある。この作品は寛政八年刊で、写楽の消えた7年から考えると、最も近い作品である。この作品の中には写楽の「市川鰕蔵の暫」が凧として描かれている』
と書き凧の場面を書きます。

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凧には東洲斎写楽の名前があります。
だるまころころと転げて、カタリといかげをきっかけにむっくり起きて、「何奴だェ、」と言う。
(凧)「おいらもたこなら貴様もたこ、合わせて二たこ三たこたこ、ハテ地口でも何でもないことであったよなァ」
何の事はねえ、金毘羅様へ入った泥棒が金縛りというもんだ。

この「金毘羅様に入った泥棒が金縛り」とは、どういうことか。楢崎宗重氏の分析は、非常に興味深い。
「江戸の泥棒の隠語で、金毘羅さまを祀るとは、拘留処分を受けること。金毘羅さんの縁日は毎月十日なので、十日間の勾留をくらう意味だという。あるいはなんらかの罪科に問われ、写楽は作画生活中に十日間の勾留処分を受けたのではあるまいか。金しばり、とは金を与えてその人の自由を拘束する意であるから、写楽にとってなんらかの異変が起こったのかもしれない」
楢崎氏は、写楽が投獄されて筆を折ったという解釈をしている。』

このように一九は、写楽が10日間の投獄をされたことを『初登山手習方帖』に書いているのです。
写楽の浮世絵が発行終了後の翌年ですから、とても信憑性の高い文献と言えます。
また、東洲斎写楽の名前の由来も伝承だけでは、はっきりと、分からないと思います。
東洲とは東の洲です。
それは江戸の東の島という意味で庄六の住んでいた佃島を差し、斎とは書斎の斎のことでアトリエのことです。
つまり東洲斎とは佃島のアトリエということです。
写楽は庄六からの当て字です。
そして庄六という名前は、指六から来ていました。
庄六の兄弟は亡くなりましたが、弟が一人です。
兄弟二人なのになぜ六という数字が名前に入ったかと推理すると、足の指が六本あったからです。
六代豊国の本によれば、足の指六本はそれほど珍しくはなかったそうです。
この足の指六本は、6章で詳しく書きました。
写楽を師匠のように慕っていた豊国は、写楽死後、写楽の遺品を歌川に残し、その写楽の下絵を可愛がっていた広重に見せ、大ヒットした保永堂版東海道五十三次出版となり、広重も写楽の下絵なのだということを顕すために足の指6本を絵の中に入れた、ということです。
これは絵の詳しい人に見てもらえれば分かると思うのです。
私のような素人には、保永堂版と他の広重が描いた東海道の絵は、別人が描いた絵に見える、くらいにしか分からないのですが、プロの方なら技術的な指摘を見つけることができると思います。
このような、技術的な指摘を載せている論文が、写楽ではないのですが過去にありました。
私が印象派を調べ始めたころは、マネが浮世絵を絵の中に取り入れたのは「笛を吹く少年」が最初であったと思っていたし、それが定説でもありました。

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しかしネットで調べていくと、北山 研二先生の「なぜモダン・アートはモダン・アートなのか」の論文を見つけ、そこには『たとえば,《チュイルリー公園の音楽会》(1862),《草上の昼食》,《ロンシャンの競馬場》(1867),《1867年の万国博覧会》(1867)は,モチーフは現実的だが,諸形象(人や物)とそれら間の関係は少しも写実的ではない。遠近感はないし,ばらばらに配置される諸形象とそれらの間の関係が結合的ではなく,むしろ並存的重層的だからである。色彩にいたっては,中間色を排除して鮮やかな色斑の連続になっているからである。一元的な=唯一の視点しか要請しない統一空間ではなく,まるでそれぞれが固有の視点を持つ複数空間の並存なのだ。』

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と記され、これらの絵が浮世絵の影響によるものだとは書いてはいませんでしたが、明らかに従来のアカデミー技法でマネは描いたのではなく、浮世絵技法を取り入れて描いたとわかり、私の印象派の研究は飛躍的に進みました。
このように専門家が見れば、指摘できることが具体的に明らかにされるのです。
私のような素人は、なんかこの絵おかしいよなあ程度しか分からないのです。
そして、評論家や著名人は技術的なことより賛美とか自分の感想が主となってしまい、素人がそれを読んでも真のところが分からずじまいになってしまいます。
著名人や絵をちゃんとわかっていない評論家などが、風景画を前にして「さわやかな空気感が伝わってくる」「吸い込まれるような感じ」などの説明をよくします。
また「絵を見るときは何の情報も得ずに素直に見る」とか「本物をまず見る」とかがあります。
これらの絵の見方を言う人は信用してはいけません。
絵を分かっていないからです。
印象派以後の絵は、プロでも本物、偽物が分かる人は一握りです。
偽物が美術館にあっても誰も指摘できない(というわけではないのですが、指摘しても無視されます)のが現状でもあります。
マネの絵にしても、具体的に技術から専門家たちが指摘すれば、浮世絵の影響が誰でも理解できるのです。
それを抽象的な評論でごまかし、過去の定説を振り回すだけなのです。
そして、そのような人が書いた本が評判になり、読者も賛辞を送るのです。
何故なら、著名人、もしくは権威があるからです。
私は、私が書いた『ゴッホの愛したクレポン』も『幕末の浮世絵が印象派を創った」も今の世界では評価されないと、6代豊国の『写楽の実像』を読むと感じてしまいます。
なぜなら、6代豊国の『写楽の実像』が、まったく世間に評価されていないし、広まってもいないからです。
まだ、反論が出てくるのなら良いのです。
無視はさすがに問題です。
写楽を調べている著名人はたくさんいます。
その人たちが「写楽の実像」を無視しているのは、6代豊国が権威がないし、著名人、有名人ではないからです。
例えばグーグル検索で『写楽』と検索しても6代豊国ことは出てきません。
『歌川豊国』と入れても同じです。
2018年「小説新潮」10月号の特集で『大名絵師写楽』の著者・野口卓さんと、歌舞伎を中心とした江戸文化への造詣が深く、写楽についての著書もある渡辺保さんの刊行記念対談が収録されていましたが、目次を見る限りは6代豊国ことは出てきません。
まあ、6代豊国『写楽の実像』読めば大名絵師写楽なんて言う推理は出てこないでしょうが。
『写楽の実像』が発行されてから30年以上経っています。
このままだと完全に伝承は途絶えてしまう可能性があります。

17、私の見解 (1)

写楽を調べていろいろ分かりました。
ほとんどの人は定説をネットに載せたり、定説から得られる自分なりの解釈をネットに載せていますから、写楽で検索しても、どうでもよいことが書いてあるもので埋まってしまっています。
これは、印象派やファン・ゴッホを調べたのとはちょっと違います。
印象派やファン・ゴッホの場合は、専門的な論文がそれなりにウェブ上で見つけられるので、とても助かりました。
しかし、写楽に関してはほとんどありません、というか見つけられません。
つまりちゃんとした研究者が、写楽研究をネットには載せていないということでしょう(本はあると思います)。

私が2週間余り写楽を研究しただけで、ネット上では、私は写楽研究の上位に入ったかもしれません。
もちろん6代豊国の『写楽の実像』が根本にあるからですが、その『写楽の実像』を参考にする人がいない以上(ネットにおいて)私の『写楽の正体』が写楽研究上位でもおかしくありません。
今回調べただけなのですが私なりに分かったことを記していきます。
まず誰もが思うのは、黒雲母摺の豪華な錦絵をなぜ名もない絵師が出せたかということでしょう。
このことに関しては、誰が考えても無名の浮世絵師に豪華な浮世絵を出させるわけがないと考えるのが普通だと思います。
今回の論文を書くきっかけとなった島田荘司著の『写楽 閉じた国の幻』を、もし無名の人の名前で出版したら、どれだけ売れるでしょうか?
私は1000部も売れないと思います。
そのような例があの有名なハリーポッターの著者がやりました。
ハリーポッターの著者、J・K・ローリングは
2013年、ロバート・ガルブレイス(英: Robert Galbraith)という男性のペンネームで『カッコウの呼び声 私立探偵コーモラン・ストライク(英語版)』(邦題)という探偵小説を出版しました。
ローリングさんの別名義による探偵小説は米出版社が4月に発売され、当初1500部しか売れなかったが、筆者がローリングさんだと分かると大騒ぎになり、30万部が増刷されました。
このように、無名か有名なのかは、本の中身に関係なく、出版するのに一番の重要なことです。
先ほどの島田荘司著の『写楽 閉じた国の幻』が無名の著者で出版したら1000部も売れないと記しましたが、これは『写楽 閉じた国の幻』の中身がそんなものだというわけではなく、写楽のことを書いても興味をもって買ってくれる人は1000人もいないということなのです。
私からすると、J・K・ローリングの
『カッコウの呼び声 私立探偵コーモラン・ストライク(英語版)』が1500部も売れたというほうが驚きです。
出版社を経営してた私からすると、無名の著者の本は、書店が置いてくれないから売れるわけがないのです。
置いてくれるとしても書棚に1冊置かれるだけで、平積みで置いてもらえることはあり得ません。
本当に1500部売れたとしたら、それは出版社の営業がとても強いことを示します。
おそらく、数字上1500部売れたとしていましたが、実際は売れていないで、書店が買取りしたのが1500部だった可能性もあります。
日本の取次の契約では買取りした本は返品できないとなっているので、買い取りを売り上げとしても良いのですが、現実は買取りの本を書店は平気で返品してきます。
知り合いの出版社が買取りを書店が多くしてくれたので、たくさんの本を書店に卸すことができましたが、まったく売れず、返品率120%なんて言うことがありました。
返品率はどんなに凄くても100%なのに、買い取りを返品してきたから120%なんて言うあり得ない返品が起こったのです。
一般の人は1500部しか売れなかったのかと思うでしょうが、私たちのような小さな出版社を経営していた者から見れば1500部も売れたのかとなります。
大きな出版社は書店に棚を持っているので、売れると見込んだ本は最初から1~2万部以上の売り上げを目指しますが、棚を持っていない出版社は、目標4000部なのです。
おそらく、J・K・ローリングの本を出版したアメリカの出版社は、売れなかったら実名公表を条件にしていたと私は思いますし、出版関係者はそう思うはずです。
何しろ無名の者が本を出すなんて、どんなに中身がよくても無理なのです。
無名の者は、何か賞を取る、もしくはある程度の部数が売れる人でなければ出版はできないのです(例えば大学の教授などは、生徒が買ってくれるということで出版ができる)。
現代の蔦屋のような出版社『幻冬舎』は無名の新人の本は自費出版しか認めていません(最近のことは知りませんが)。
そんなことはない、よい出版社は中身が良ければ無名でも出版する、という人もいるでしょうが、それはインフレ時、好景気の時ならあると思いますが、デフレ時、不景気の時はあり得ません。
そして、この写楽の浮世絵が出版された時期はデフレ時、不景気の時であったし、蔦屋が京伝事件で資産が半分になった後なのです。
これらのことを考えれば、有名絵師が写楽というペンネームで豪華浮世絵を発行することはあり得ないのです。
もし無名の絵師の浮世絵を発行するのなら、本の挿絵を1ヵ所描かせて評判を見るとか、どんなに凄い新人でも、人気役者の細版を数枚描かせて評判を見るところから始めるはずです。
この頃の役者絵は細版が主流であったし、大判なら売値が20文(写楽の浮世絵は豪華なので24文以上だったと思います)、細版なら8文なのですから失敗しても被害が少ないのです。
それ故、写楽の浮世絵は自費出版だった、はとても納得がいくのです。

18、私の見解 (2)

写楽の浮世絵が売れたか、ということも写楽研究者の中では議論になっていると思います。
その中で大勢を占めているのが異版があるのだから売れた、という人たちでしょう。
異版とは初摺りの浮世絵とは色とか絵が違うことです。

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初摺りは絵師が色指定をしますが、2摺以降は絵師はかかわらないので、版元や摺師の好きなように色を載せます、その結果、初摺りとは違う色の浮世絵ができます。
それが異版です。
また一部を彫りなおし絵の一部が違ってくるのも異版です。
もっとも、摺りすぎると版の一部がすり減ってしまうので、そこだけ彫りなおすこともあり、それが見た感じ初版と変わらなければ、それは異版扱いにはなりません。
版を急いで彫らなければいけない場合は版を二つに割り、別々の彫り師が彫り、彫り終わったらその二つの版をつなげて摺りに回すということもしていたのです。
浮世絵の版でどれくらい摺れるのか調べると、1万枚くらい摺れるという報告もあります。
昔は売れる浮世絵は2版、3版というように、後版があった、としていましたが、1万枚も摺れるのですから何かの事故がない限り後版はないのです。つまり版が違う場合は復刻版、偽物ということになるのです。
そういうことで考えると、異版という言い方も昔の言い方だと思います。
色が違っても版は同じなのですから、本来は異摺というべきなのだと思います。
それでも何かしらの事故により版を変えることはあります。
広重の名所江戸百景には、版が違う絵もありますから。
写楽の異版はふつうに考えれば売れたから増摺りをした、となるでしょうが、果たしてそうなのでしょうか?
美術評論家の瀬木慎一が、写楽の絵の140何枚のうち5分の1くらいに異版があると言っています(記しているのかな?)。
30枚弱も異版があるということは、やはり写楽の浮世絵は売れたのだろうか?
ここで私は6代豊国の伝承を踏まえて新しい仮説を出します。
写楽の浮世絵は自費出版ではなく、下駄屋甚兵衛が発行者となり蔦屋を発売元にしたのだろうと。
発売元、発行者は、出版関係の人なら理解できると思いますが、一般の人は意味が分からないでしょう。
写楽の義父の下駄屋甚兵衛は下駄屋と貸本屋を手掛けていました。
下駄屋と貸本屋は物を持ってお得意様を回ります。
大名屋敷から歌舞伎小屋迄。
つまり歌舞伎役者とは馴染みになっていることもあるのです。
そして貸本屋が次に考える商売が出版社です。
蔦屋にしても、もともと吉原の前に本屋を開き、そこから出版社も起こしました。
下駄屋甚兵衛もそれを狙っていたと思います。
実際、のちに下駄屋甚兵衛は出版社を起こし、蔦屋が亡くなった後の地盤(絵師)をほとんど引き継いでいます。
6代豊国は売れなかった写楽の浮世絵は写楽が買い取るということで浮世絵を発行した、としてますが、私は、写楽にそれだけの力がなかったとみています。
写楽が下駄屋と貸本屋をやれたのは義父から任されただけなので、よくて店長くらいの立場であったろうから、浮世絵を自費出版するところまではできなかったでしょう。

この写楽が浮世絵を出した時代は、美人画がもてはやされていました。
錦絵と言えば春信から始まりましたが、その春信が、谷中(台東区)の笠森稲荷門前の「鍵屋のお仙」を描くやいなやお仙見たさに男たちが殺到したのです。

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もともと浮世絵は『見返り美人』の作者として有名な菱川師宣によって始められたと言われていますし、浮世絵は美人画から始まったといっても過言ではないのです。

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それでも、浮世絵のベストセラーはこの春信の美人画から始まったと言えるでしょう。
しかし、春信の美人画は中版の浮世絵でした。
それを大判にした浮世絵で大成功したのが歌麿です。

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下駄屋甚兵衛からすれば、はやりの美人画より、馴染みのある役者絵の方が取り組みやすいと思ったのかもしれません。
そして歌麿が成功した美人画の浮世絵をそのまま役者絵でやれば売れるはずだと。

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それに、役者には固定ファンがいるし、役者自身がなじみの客や後援者に配るために買ってくれるので赤字になる心配がないと踏んだのでしょう。

役者をアップで浮世絵にしたのは勝川春章で、その弟子である勝川春好がこの流れを継承し、一七八〇年から一八〇〇年にかけて大判で頭と肩だけの半身像を描きました。

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下駄屋甚兵衛は、歌麿の成功、勝川春好の大首絵などから、歌麿と勝川派の浮世絵を真似したような役者絵が売れると踏んで、プロデューサーを庄六(写楽)にしたのかもしれません。
つまり、発売元の蔦屋には手数料を払い、摺師、彫師を紹介してもらうが、仕事に関しては全て写楽が取り仕切っていたのではないかと思うのです。
これは今の出版事情も同じです。
新しく出版しようとする人は取次との口座がないため、自ら書店と1軒1軒契約するか、取次の口座を持っている出版社に頼んで口座を貸してもらい、発行者と発売元を分けるやり方をします。
本の奥付を見ると、たまに発行と発売の二社が書かれていることがあります。

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現在、出版社を起こそうと考えても東販、日版の大手取次は口座を作ってくれません。
それ故、口座を持っている出版社に発売元を頼むしかないのです。
江戸時代も出版は奉行に届け出を出さないと出版できなかったので、一般の人が本を出すことは不可能だったのです。
蔦屋重三郎の時代は、6代豊国の本には『蔦屋重三郎ほか20人の組合が出版元として許されて、勝手な出版はできないようになっていた』と記されています。
だから下駄屋甚兵衛が浮世絵を出版したくても、勝手にはできなかったので、蔦屋に頼んだのでしょう。
そして、12章で書いた
本櫓の森田座・中村座・市村座は倒産し、その興行権は、都座、桐座、河原崎座の控櫓に移った、ということが重要で、役者絵とは役者を描くのですから、当然、役者とも親しくならないと描くのは難しいし、歌舞伎興行している興行主とも親しくなければ無理なのです。

写楽が出るまでの役者絵は鳥居派と勝川派が描いていました。
つまり、鳥居派と勝川派の絵師でなければ役者絵を描くのは難しかったのです。
それが、本櫓が倒産したので控櫓が歌舞伎をするとなると、控櫓に早くコネをつけたものが有利となるわけです。
おそらく、下駄屋甚兵衛や庄六は貸本や下駄の注文で控櫓に入り込んでいたのでしょう。
だからこそ、下駄屋甚兵衛はチャンスと見たのかもしれません。
この時代から幕末まで役者絵は歌川の天下になります。
豊国が、この写楽の時代に、その先駆けを行い、実績を作ったからです。
そして、役者絵はだんだん歌川に独占され、今のアイドルとカメラマンの関係と似たようになります。
つまり、アイドルは写真を撮ってもらうのに名のないカメラマンは相手にしないということです。
私が大昔、沖縄で斉藤由貴の写真を撮ろうと考えたとき、カメラマンは指定され、そのギャラは100万円でした。
たしか斉藤由貴のギャラも100万円でした。
もちろんそのカメラマンはプロダクション所属の人気カメラマンでしたし、年収は1億を超えていると言っていました。
私からすれば、いつも使っているカメラマンを使いたかったのですが(おそらくそのカメラマンなら10万円でOKしたはず)それならやらないとプロダクションから言われました。
私のところでいつも使っていたカメラマンも木之内みどり(60代以上でないと知らないだろうなあ)を助手に使っていたカメラマンなので腕は確かだったのですが。

写楽の浮世絵が登場する寛政6年(1794年)正月、和泉屋市兵衛から豊国による河原崎座の「御曳花愛敬曽我」を発表し、豊国が役者絵の中に入り込みます。
そして、同年5月、同じく和泉屋市兵衛から豊国による「役者舞台之姿絵」の連作が出版されたのです、とネットで調べるとそのように書かれているのを見つけたのですが、「役者舞台之姿絵」が正月から発行されたという記述もありますので、これはもう少し調べた後に訂正して載せると思います。
それに、リブカー美術館の下記の浮世絵は、役者舞台之姿絵・やまとや 豊国
(「御曳花愛敬曾我L寛政六年三月河原崎座」)と書いてあるので、おそらく正月からだと思います。

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歌川豊国の連作「役者舞台之姿絵」が話題となり、役者と言えば豊国となっていきます。

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ただ、「役者舞台之姿絵」の初期は役者の顔がやさしく見えます。
写楽の浮世絵が出る前です。
それがだんだん写楽の絵に似てきます。

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しかし、写楽も春好に似ている気がします。
写楽より春好の大首絵の方が先に出版されています。

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春好、春英、豊国、写楽の4人の絵師は寛政6年から寛政7年(1795年)にかけてバトルをしますが、結局、豊国に軍配が上がります。
素人目にはこの3人の絵師の大首絵の違いがよくわからないのですが、歌川の伝承に写楽の輪とあり、豊国が写楽を師匠のように見ていたのだから写楽の絵はプロから見たら凄かったのでしょう。

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写楽は春好の大首絵、そして歌麿の雲母摺を合わせたような絵でデビューをしました。
庄六は、絵師+プロデューサーでもあります。
初めての浮世絵作り、何もかも新鮮で、おそらく彫師、摺師の仕事場にまで行って眺め、指示をしていたと推測できます。

摺りあがった浮世絵を見て違和感を感じたら、すぐに直しを指示した可能性があります。
「色を変えてくれ」
「この模様はいらない、俺が削ってしまおう」
など、あった可能性があります。
それならば、異版がたくさんできた理由が納得できます。
歌川の伝承では写楽の浮世絵は売れ残り、そこで富籤をつけて売ったら、売れた、となっているのですから、売れて増摺りとは考えづらいのです。
もちろん、異版が出た30枚くらいは初摺りが売れて増摺りした可能性もあります。
それだとしても大半は売れ残ったのですから、やはり売れなかったのでしょう。

19、私の見解 (3)

庄六(写楽)は貸本や下駄を見せるために控櫓に出入りし、役者とも仲良くなります。
知り合いもたくさんできただろうし、その伝手から浮世絵を出すとなると、主役の役者以外の絵も描いていきます。
6代豊国の『写楽の実像』のP93には写楽が描いた役者の登場回数とランクの表が載っています。

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ランクEやDまで描いています。
写楽の絵は役者そっくりに描いたから役者に嫌われた、というのが定説ですし、6代豊国もそのように書いています。
しかし、Aの役者の自尊心がEとかDの役者と同じように扱われるのは面白くなかったと思います。
それで、AもしくはBくらいの役者が写楽の浮世絵を嫌った可能性はあります。
C以下は金もひいき筋もない、ので写楽の浮世絵は買ってくれなかったのではないでしょうか。
おそらくこの時代までの役者絵は、一般市民や江戸に遊びに来る人がお土産に買うというより、役者がひいき筋に配るために買った可能性があります。
それ故、大判ではなく安く買える細版が主流だったのかもしれません。
歌麿の大判浮世絵は江戸市民が買いましたから、同じようなつくりをすれば役者絵も売れるのではないかと下駄屋甚兵衛は考えたか、庄六が思いつき下駄屋甚兵衛に言ったのかもしれません。

この控櫓の時代までは、A級役者は千両役者と言われ、給金が千両超える、もしくはそれに近い金額を手にしていました。
それが逆に歌舞伎の没落の一端でもありました。
アメリカのメジャーリーグにも似ていますね。
松平定信の改革は、もちろんそれを許しません。
6代豊国の本によると『瀬川菊之丞などは900両を取っていた。当時、下級武士など3両1分、江戸の華・角力でも10両なのである。幕府も興行主も役者の給金を制限した(瀬川富三郎などは、なんと400両も下げられている)』と記してあります。

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下級武士の30倍の給金を一流役者は手にしていたので、8文の細版の浮世絵くらいは摺った半分の100枚くらいは買った可能性があります。
100枚売れれば製作費が出て、残り100枚売れれば儲け、というのが役者絵の位置だったかもしれません。
それが、役者絵を大判にして江戸市民を中心に売ろうとする動きが写楽の浮世絵が出る前後の時代に出てきたのでしょう。
その理由はもちろん緊縮政策による不景気により、役者もゆとりが無くなったので販路を広げるということでしょう。
この辺は推測ばかりを書いています、写楽のことを本格的に調べるのなら最低2年はかかると思いますので、もし後に本格的に調べたら推測もかなり減ると思います。

話は変わりまして、写楽の3年前に発行された春好の大首絵と写楽の大首絵を比べ、大きく違うところがあるでしょうか?

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写楽と言えば『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』の腕がおかしいのが凄い、と評価されていますが、世界三大肖像画(実は違うが)と写楽研究者は絶対に入れるこの言葉は、肖像であって腕のデフォルメではありません。

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またここまで面白い腕、指はこの『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』だけだと思います。
ただ、手と足の指がおかしいのは、写楽第1期の大首絵では何点かありますし、手が小さいのは第一期の特徴でもあります。
これらをデフォルメとするのか? それとも素人だからデッサンが上手くできなかったかとするのかで写楽の評価が大きく変わります。
私自身は写楽は欄間師だったので役者を描くことに慣れていず、楽屋で似顔絵は描けても、舞台で見得をきるところまで描けなかったのではないかと考えます。
そして、庄六が上方にいるときに人形浄瑠璃を写生していたでしょうから、それを参考にしたのではないかと推測します。

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人形浄瑠璃の人形の手は小さく見えます。
写楽の『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』のような手の人形を探したのですが、見つけられませんでした。
ただ雰囲気は似ていると思います。
さすがに、役者にポーズまでは頼めなかったでしょう。
それ故、顔だけを写生して、後は人形浄瑠璃の人形のデッサンを利用したのではないかと思うのです。
第2期以降の全身像は今までの役者の全身像を模倣したのではないかと思うので、誰もが言う、第1期とそれ以降では同じ絵師が描いたとは思えないという理由もつくのです。
そして、6代豊国が言うには、大正後期に至るまで、日本では写楽は有名ではありませんでした。
ほとんどの写楽研究者は、写楽が世界的な肖像画を描いた絵師という思い込みもあるのではないでしょうか?
素直に見れば豊国、春好の役者絵とそれほどの大差がないように見えるのですが。
ただ、雲母摺だけは違います。
私は外国人が写楽を買ったのは大首絵で雲母摺だったからだと思います。
歌麿の大首、雲母摺は手の出ない高値になったので、写楽でもいいやと思ったのではないでしょうか?
モネが3枚も写楽を手に入れたのは、雲母摺の浮世絵だからだと思うのですが。
また写楽の第一期だけが残存数が多いのは、もしかしたら明治に入ってからの偽物が混じっているのかもしれません。
何しろモネが1890代に集めた古浮世絵は偽物の古浮世絵が出回っていて、モネは浮世絵の目利きの友人に見てもらいながら買い集めたそうです。
写楽の2期以降で、雲母摺以外の浮世絵は外国人は興味を持たなかったでしょうが、第1期の全てと雲母摺は、外国人が興味を持ったので偽物が作られた可能性は大です。
この頃の偽物の古浮世絵はまだ江戸の和紙と絵の具が手に入る時代であったし、職人もいたので、容易に偽物が作れたのでした。
おそらく現代まで時が過ぎては、それを見破れる人はいないかもしれません。
27年前に欧米の浮世絵コレクターに訪ね歩いたときに、強烈なショッキングピンクの歌麿を10枚くらいコレクションしているコレクターがいて、それは本物として通用しているそうなのです。
私では真贋は分からなかったのですが、あそこまで古浮世絵で色が残っているのだろうかと不思議には思いました。
おそらくモネの時代ならば真贋はついたと思います。
それ故、モネコレクションは学術的にも価値があるように思えます。
また、第2章に書いてありますが、明治28年(1895年)の写楽の値段は雲母摺と断りが入っています。
つまり雲母摺以外の写楽には価値がなかったのです。
バックを雲母一色にするのは歌麿だけではなく春英など他の絵師もしています。

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       上はアダチ版画

しかし、そうはいってもバックを黒雲母一色にして大首絵を描くのは歌麿の専売特許のようなものだから、歌麿は、自分を真似されたと怒ったのではないでしょうか?
そして、悪口を言いたいから、14章で書いたように歌麿は『文読み』で思いつく悪口を書いたのではないかと推測するのですが?

20、私の見解 (4)

役者絵とは、もともと勝川派や鳥居派が細版で出していました。

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上の春が頭につく名前は勝川派の絵師です。
ちなみに北斎も勝川派の一員の時があり、春朗という名前で役者絵を描いています。

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また、この時期の細版の役者絵は写楽の細版の役者絵と似ているということで写楽北斎説の一端にもなっています。

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この2枚の細版を比べる限りは、明らかに北斎の顔(及び全身)の方が上手いように見えます(が、実はここに写楽の神髄があるのです。後に説明)。
また、前章で写楽と春好の大首絵を並べましたが、これも写楽よりは春好の方が上手く見えます。

ここで歌川派の伝承に戻ります。
庄六(写楽)は子供のころ父の欄間師の仕事を覚え、子供時代、一生懸命修行の作画に暮れ、14歳の時に材木商の丁稚奉公をし、父が亡くなるとおなじ欄間師の叔父のところに行き人形浄瑠璃の竹本座にも通う。
26歳ごろ、江戸に下り義父の下駄屋甚兵衛から神田錦町の店を与えられ『東国屋』となずけた。
そして、この後、写楽の誕生となるのですが、このような庄六の育ちを見ると、字を覚えることができたのだろうかと考えてしまいます。
覚える機会は材木商の丁稚時代か叔父のところでしょう。
江戸時代は識字率が世界最高だとは言われていますが、それも黒船など世間が騒がしくなってから一気に増えたのです。
寺小屋などが一気に増え、識字率50%になるのは黒船以降の幕末時代です。
それまでは、商人はそろばんができればいいし、職人は己の技量を学ぶのが第一とされていたはずです。
もちろん、江戸の市民はそれなりに識字率は高かったでしょう。
しかし、庄六は上方生まれ、上方育ちです。
字を習うより技術習得を目指していたはずです。
実は、ここで何が言いたいかというと、庄六は技術は凄いものがありましたが、知的な方は職人レベルだったと思うのです。
下駄屋甚兵衛は商才がありましたが、庄六は絵を描くのは上手かったが、それ以外は大したことはなかったでしょう。
そんな庄六が浮世絵のプロデューサーを任されたら、どのように描くでしょうか?
職人がする仕事は新しいひらめきに基づく新しい仕事ではありません。
先人の仕事を模倣することこそ職人の仕事なのです。
庄六には浮世絵の師匠はいませんでした。
その庄六が役者絵を描くとなれば、先人の絵を模倣することをするでしょう。
役者絵の大首絵なら春好の大首絵を模倣しようとし、細版の役者絵なら北斎や他の絵師の模倣をしようと考えるはずです。
黒雲母摺なら歌麿です。
ここで、島田氏の『写楽 閉じた国の幻』の中の重要ポイント、写楽の浮世絵に書かれた落款の(画)という字が(一と由)ではなく、(一と田)になっている理由を私なりに推理しようとしたのですが、ネットで調べると歌麿のほとんどは画ではなく筆なのです。

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雲母摺、大首絵、みんな筆です。
やっと見つけるとそれは一と田ではなく一と由でした。

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でもこれは、復刻版かもしれないので、他にないかと調べたら一つ見つけました。
《玉屋内花紫 しらべ てりは 六玉川》1793大判錦絵

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確かに一と田の画でした。
一応島田氏の本を読みなおすと『初期の話だよ。初期には彼も画の字を使っ ていた。それが一・田式だったんだ』と書かれているので、初期の歌麿の浮世絵のことだったのでした。
ただ、もう少し調べると下記のような浮世絵も見つけました。

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歌麿だけではなく清長も(一・田)であるし、栄昌や永理は(一・甲)のようにも見えます。
そのほかにも画という字は色々な書き方があり、この時代(一・田)もありだったのかもしれません。
庄六が誰の画を参考にしたのかもわかりませんが、庄六(写楽)の字に関しては、落款のバランスの悪さはをかなりの写楽研究者が指摘しています。
それに楽という字の白が自になっているものもあります。
もちろん白の方が多いです。

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これらを検討すると、蔦屋は写楽の浮世絵作りには関わっていなかったと思えます。
つまり、今でいうのなら編集者や校正する人がいなかった、ということで、それらは写楽が全て一人でしたのではないかと思います。
もちろん、彫師は多少手伝ったかもしれません。

21、私の見解 (5)雲母摺

雲母摺の浮世絵は製作費が高くつくのだろうか?
写楽の浮世絵の定説に、新人の絵師に豪華な雲母摺はあり得ないから、名のある絵師が別名で出した、というのがあり、それが歌麿や北斎説の一つになっています。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
確かに雲母摺はぜいたく品となり、のちに幕府より禁止され、写楽の大首絵のようにバック全てを雲母摺にするというのは、私の知る限り見たことがありません。
パラパラと雲母をまくのはあります。
バックを雲母摺にするのは、バック以外の摺りを全て終わらせ、バック以外の人物の型紙を作り、その型紙を摺った浮世絵の人物に載せ(被せ)、刷毛で雲母を塗るのです。
普通の色の摺りは、版木に色を塗り、その上に和紙を載せ、バレンで伸ばしながら色を付けていく、という凸版印刷みたいなものです。
ところが雲母摺は刷毛で塗っていくのですから、スプレー印刷みたいなものですね。
ただ、版木に雲母と膠を混ぜたものを塗り、色塗りと同じようにやるやり方もあるようです。
写楽の浮世絵がどのように雲母摺をしていたかは、今の時点では研究不足です。
何しろ、特殊印刷でしたからどこでもできるというわけではなく、1ヵ所でしかしてなかったようです(この辺はちゃんと確かめ必要)。
ただ、蔦屋は歌麿で雲母摺をしているので、その伝手で庄六もできたのだと思います。
当然、普通の印刷とは違うし、1工程増える(別の職人にもっていく)わけですから、その分は割高になったでしょう。
ところが、当時雲母はそれほど高価ではなかったし、雲母の代わりに貝殻を使う場合があったので、材料代が高かった可能性は低いようです。
ヨーロッパから絵の具が輸入される前は、絵の具代もかなり高かったようなので、材料代としては同じくらいだったかもしれません。
雲母摺の高くなった分を、庄六は版木を最低限で済ますことをしました。
絵によっては歌麿の半分の版木程度しか使わなかったようです。
つまり、トータルすると、それほど割高ではなかったというか、下手すると安くあげていた可能性もあります。
絵師が、自分でプロデューサ―もするとなると、予算はなるべく抑えて、見かけ豪華と考えたでしょう。
また、第1期を大首だけにしたのも、彫代が安かったからの理由かもしれません。
今でこそ、大首の浮世絵は高値で取引されていますが、江戸時代は、大首だからと言って人気が出たり高い値段がついたわけではなかったと思います。
単純すぎて嫌われた可能性はあります。
それに外国人も初めは大首絵より全身図のほうを好んでいたようです。
何しろ、雲母摺の大首絵がヒットしたのなら、第2期も第3期も雲母摺の大首絵でいけばいいのですから。
またシリーズものを出せば、新しいのが出るたびに古いものも売れるのでロングセラーになる可能性があります。
それを簡単に取りやめるのは、思ったような売り上げが出なかったからだと推測できます。
売れなかった故、第2期は雲母摺、大首絵とは違う様式で出そうと考えたのでしょう。
そしてそれは、庄六(写楽)の考え方ではなく下駄屋甚兵衛の考え方だと思います。
下駄屋甚兵衛からすれば、市場調査もあったはずです。
どのような役者絵が売れるのか?
歌麿の雲母摺、大首絵を役者絵でやったが、思ったような売り上げが出ないので、従来の役者絵の売り方を試してみようとしたのでしょう。
大判だと売値が高いから細版や間版を出そうとするのは、商売人なら誰もが考えることです。
お客がまず見るのは料金ですから。
人気が出て、他を圧倒したら料金はそれほど重要ではなくなるかもしれませんが、役者絵は美人画と違い、これから伸びていくジャンルだったので、初めは料金が重要だったでしょう。
第2期以降の写楽のデッサンはしっかり描けています。
全身像なんかは8頭身に描かれているので、かっこよく描かれています。
この8頭身も浄瑠璃の人形と同じです。
それに比べ他の絵師の全身像は7頭身です。
おそらく写楽は、浄瑠璃の人形+従来の絵師の役者絵を参考にしたのだと思います。
もともと庄六は、技量はあるので、ちゃんとした手本があればうまく描けます。
しかし、うまく描けたからこそ第1期の絵とは違う人が描いたように見えてしまうのです。
これが、写楽は一人ではなかったという研究者が出る要因だと私は思います。
雲母摺の代わりにバックを黄つぶしにしたのも、作る料金の問題ではなく、市場調査だったでしょう。
黄つぶしとは、「地潰し」というバック全体を一色にする塗り方があり、その色が黄色ということです。

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         写楽の全身像は顔が小さいのが特徴☝

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写楽はデフォルメはするが、見たままを描くと誰もが思っていますが、全身像を8頭身で描くのはデフォルメなのでしょうか?
おそらく写楽にデフォルメの意識はなく、一生懸命自分の持っている材料(おそらく人形浄瑠璃の下絵)で描いていたのだと思います(実は、この全身図にも写楽の円が描かれているのです。後に説明します)。
細版、間版と続き、第3弾から役者のバックの絵を描きます。
バックを何も書かないより何かを描いた方が舞台の臨場感は出ます。

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第4期になると顔が大きくなり7頭身になります。

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第4期までくると他の絵師とほとんど変わらない役者絵かもしれません。
それも市場調査なのでしょう。
また、続き物を1枚ずつ見るより、続き物は続き物としてみた方がちゃんとした評価ができます。

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22、私の見解 (6)

庄六が頑張っても売り上げは思わしくありません。
発売元の蔦屋は売れ残りは全部引きとれと言ってきます。
そこで、おそらく下駄屋甚兵衛の発案だと思いますが、庄六に富籤付きで売れ残りを売ってしまえと指示が出たのだと思います。
これが庄六の案ならば、後に富籤の届け出を出さないで庄六が捕まってしまいますが、それも仕方ないとあきらめたでしょうし、再び浮世絵を描いて出したかもしれません。
おそらく庄六が裏切られた気持ちになったのと、下駄屋甚兵衛が庄六を使い捨てにしたので、以後、写楽の浮世絵は出なかったのだと思います。
そして庄六(写楽)は2階の物干しから落ちて死にます。
これは事故なのか自殺なのか?
自殺なのかという疑問が出たということは、おそらく庄六と義父、下駄屋甚兵衛の仲が悪かった、とも考えられます。
そしてその原因は写楽の出版でしょう。
庄六が病気だったから自殺をしたという説もあるので、その辺は何とも言えませんが。
ただ、写楽の浮世絵出版は10ケ月、145点の出版で終わったのは事実なのです。
つまり、義父の下駄屋甚兵衛と何かがあったということでしょう。
庄六が死んだ後に、庄六の残した東海道の下絵を3代豊国(国貞)が広重に見せ、それを基に広重が東海道シリーズを描き、広重の名声が一般に広まるとともに、浮世絵に名所というジャンルが生まれました(風景画のジャンルはあったが、広重の東海道で名所のジャンルが確立された)。
もし、写楽がそのまま下駄屋甚兵衛と組んでいれば、この東海道シリーズは、もしかしたら写楽の名前で出版していた可能性もあるのです。
北斎も東海道シリーズを広重の前に描いていましたが、それは旧来の風景画なので広重の東海道とは次元が違っていました。
それはまるで細版の役者絵から大判の役者絵に移行した時代と似ています。

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         上北斎下広重

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実際に、北斎は広重の東海道シリーズを見て、写楽登場の時と同じようなショックを受けました。
写楽が東海道を出していれば、役者絵と名所絵のさきがけの浮世絵、両方を出したことになっていました。
もしそうなれば、後の広重の活躍も制限されていたかもしれないし、『名所江戸百景』も生まれなかったかもしれないので、印象派やファン・ゴッホの活躍もだいぶ違ってしまった可能性もあります。
だから、もし、ということも良い面も悪い面もあるのでしょう。

ここで蔦屋重三郎のことを少し書きます。
蔦屋は歌麿を見出し、写楽を出版したのだから、誰もが浮世絵界一の出版社、プロデューサーとしています。
それは確かにその通りなのですが、それが飛躍して蔦屋を芸術的な人間だとか粋の良い人と思う人がかなり多いと思います。
この辺はちゃんと調べなければ分からないのですが、初めにそのように決めつけて調べるのはとても危険です。
普通に考えて、商売人は商売人です。
銭勘定で物事を考えるし、そろばんでしか考えません。
蔦屋が写楽の浮世絵にかかわっていたら、誤字などはさすがに見逃さないでしょう。
それに、雲母大判浮世絵の次に細版、間版と出し、最後に細版のバックに風景を入れるなんて言うことをするわけがありません、
見た目でいえば、どんどん時代遅れな浮世絵を出していくのですから。
何しろ、時代は役者絵が大判浮世絵に移ろうとしていた時期です。
ちゃんとした経営者なら、今更細版を出版するでしょうか?
つまり蔦屋は発売元という以外、まったく関わっていなかったのでしょう。
手数料をもらえればOKという態度であったし、写楽が捕まっても、自分は関係ないとはっきり写楽を切り捨てたでしょう。
もっとも、切り捨てたのは下駄屋甚兵衛も同じだったはずです。
お金は出したけど、責任は全て庄六になるようにしていたに違いません。
庄六は人間不信になった可能性もあります。

23、私の見解 (7)写楽研究の落とし穴

写楽研究をする人はプロもアマチュアも写楽の定説に縛られたところから始めてしまいます。
例えば写楽は三大肖像画の一人だった、などです。
何しろ世界で三大肖像画と認められているのだから写楽の絵は素晴らしいに決まっている、というところから入ります。
誰しも権威には弱いです。
その権威を意識しなくても権威がある限りそこから逃れません。
私がファン・ゴッホの研究をしたときにもそれを一番感じました。
ファン・ゴッホの絵は凄いという権威から誰もがファン・ゴッホの絵を誉めます。
一般人が良く言う感想に「私が美術館に入ったら凄い絵があり感動したのですが、後でそれがゴッホの絵だと知りました」というような話があります。
しかし、美術館に入ったという時点で、そこに飾ってある絵には権威があるのです。
もし、そのような人がたくさんいたらファン・ゴッホの絵は生前に、それなりに売れていたでしょう。
先ほどの人が骨董屋でファン・ゴッホの絵を見て(もちろんサインはなし)感動してその絵を買ったのなら、確かにその人の感動は本物でしょう。
しかし、演出された場所で見たのなら、その感動は絵だけの力ではありません。
ミシェランの三ツ星レストランと同じ基準ですね。
私が『ゴッホの愛したクレポン』でもそのようなことを書きました。
オークションで出品された絵が予想価格数万円だったのが、その絵を調査した結果、ファン・ゴッホの絵と分かったので落札は6000万円であった、というようなことを詳しく書きました。
もし、ファンゴッホという鑑定がつかなかったら、よくても数十万円で落札されてしまったでしょう。
写楽も三大肖像画と言われたのだから、その絵を貶す人はまずいません。
ところが、明治時代、写楽の浮世絵を、浮世絵商が嫌っていたというのもあるのです。
写楽を売りに来た人が1枚1銭と言ったが、自分は写楽は好きではなかったので半分の5厘なら引きとってもいいよと言ったら、相手は置いていった、みたいな話が残っているのです。
実際、写楽がヨーロッパで価値がついたのは明治28年からです。
それも雲母摺に限ってです。
世界の三大肖像画ならもっと早く誰もが注目したのではないでしょうか。
欧米の外国人は明治維新後からたくさん日本に来ました。
お雇い外国人です。
そのお雇い外国人が初めに目をつけたのは歌麿です。
次が春信です。
ベンケイさんというあだ名の外国人は歌麿ならどれでも10銭で買うと言って歌麿を買い占めます(それにより歌麿は市場から消え、偽物が作られるようになりました)。
その中にきっと雲母摺も含まれていたでしょうから、雲母摺に注目をしたのでしょう。
そしてその流れから雲母摺の浮世絵は外国人が買うようになり写楽に結び付いたのだと思います。
決して写楽の絵が凄いと思ったわけではありありません。
何しろクルトがSHARAKUを発表するまでは、雲母摺以外、写楽は唯の古浮世絵の1枚だったのです。
それ故、歌麿や北斎は欧米で人気を博し研究もされたのに写楽は何も注目されませんでした。
それが、クルトが写楽を三大肖像画(これは間違いであるが)と言ったと日本人が思い込むと、写楽は世界的なスターだという地位に日本ではなってしまい、その後はその考え方が定着してしまいます(もちろん世界では通用しません)。
本当に世界三大肖像画なの?
と誰も疑問を持たないのです。
写楽研究者は、もう写楽は全て研究つくされた、というところから始まるようです。
そしてそれは、三大肖像画、ということに疑問も持たないところから始まってしまうのです。
それだから、写楽の絵は素晴らしいと絶賛をするのです。
確かに歌川の伝承を見ても写楽と北斎は他の浮世絵師とは違っていたのでしょう。
しかし、それは技術においてだけです。
それ以外は他の絵師の方が優れているということもあるのです。
印象派が生まれた時代は、ルネッサンス以降の技術の集大成の時代だったので、技術の絵が世間に認められていました。
そこに浮世絵技法により、絵は技術ではなく個性なのだという考え方が生まれました。
その個性の絵だと言わせた絵にしたのが幕末の浮世絵であるし、広重、国芳、三代豊国の浮世絵だったのです。
写楽研究家はおそらく古浮世絵にしか浮世絵の価値を見出さない研究家が多いでしょう。
だから、役者絵にしても写楽が完成型だと思い込んでいると思っているし、写楽の時代こそが役者絵の全盛期だと勘違いをしています。
しかし、役者絵を完成させたのは豊国です。
豊国を研究しないで役者絵は語れないのです。
それに役者絵の全盛期は幕末です。
それ故、6代豊国の本にも、役者絵を研究しに歌川の家に赴いた研究家は写楽など相手にせず豊国の資料を見て回っていたのです。

また写楽研究家は、写楽の第1期は売れてベストセラーになった、としている人が多いようです。
もし、写楽の浮世絵が売れたのなら、写楽の正体なんて浮世絵関係者は誰もが知っていたでしょう。
無名の絵師が浮世絵を140枚以上出したが、売れなかったので、誰も注目しなかったのです。
ただ、北斎や豊国は写楽と関係を持ったので写楽を知っていました。
歌麿は写楽自体は知らなかったでしょうが、雲母摺、大首絵を蔦屋から出版したということで嫉妬はしました。
それが浮世絵に文読みを入れ、写楽と思われる人物の悪口を書いたのです。
例えば、私が本を出し、増刷して1万部くらい売ったとします(一応、現実的にそれはありましたが)。
しかし、私のことなど身内以外誰も知りません。
多少知名度のある知人は私を知っていますが、私のことを他の人に言うことはそれほど多くはないでしょう。
私は『ファン・ゴッホ』や『幕末の浮世絵が印象派に影響を与えた』、『クレポン』などの研究者なのですが、それらに興味を持ちそうな人に、私の知人が出会っても、私のことは言わないと思います。
言うとしたら、よほどの偶然が重なったときでしょう。
何故なら、私は有名人ではないからです。
人に自分の知り合いを言うときは、その知り合いが有名人だからというのは重要です。
有名人というだけで相手はどんな話でも食いついてきます。
無名で権威のない者の論文を人に言っても、相手は興味をほとんど示しませんからね。
だから写楽も浮世絵は出しましたが、ほとんど売れなかったので、誰の話題にもならず、豊国は写楽を尊敬してたから、歌川では話されていたでしょうが、世間では無名なので世間の人に言っても興味も持たれないので、世間までは伝わらなかったのでしょうし、もし言ったとしても、写楽が有名人ではないし、写楽が出した浮世絵を知らないので興味も持たれず、すぐに忘れてしまうでしょう。
写楽の載っている文献で一番信頼度の高いのが大田南畝の『浮世絵類考』でしょう。
蔦屋重三郎と組んで狂歌ブームを起こした狂歌師の大田南畝は、「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」と類考に書きます。
ところが6代豊国の本よると大田南畝が類考を書き終えるのが写楽出現の寛政6年なのです。
そして類考が完成したのが文政元年(1818年)なので寛政6年から24年後なのです。
つまり、大田南畝の類考は他者が書き加えたので、この写楽の説明文は大田南畝が書いたのではない、となります。
大田南畝なら写楽と同じ時期に蔦屋と付き合っていたのですから、その書いたものには信頼が寄せられます。
しかし、大田南畝でないのなら、口伝、もしくは噂を誰かが書いたのでしょう。
そして、その一番可能性があるのが、歌麿の文読みの意味を知っている人が書いたということです。
確かに写楽の似顔絵は他の絵師とは少し違うかもしれません。
しかし、それは少し違う程度です。
ただ、女形だけは特殊だろうと思います。
他の絵師の女形の絵は、美人画なのか女形なのか迷うような描き方をしていますから。
女形ではない役者の絵は、春章、春好、北斎などと写楽はそんなに変わらないように見えます。
というかその違いが分かる人はプロの絵師でしょう。

ほとんどの人は大田南畝の類考を抜粋して、役者に似せすぎて描いたから長く続かなかった、を追従して書いているだけです。
写楽の時代は鳥居派と勝川派が役者絵を描いていましたが、鳥居派を写楽は参考にはしていなかったと思います。
鳥居派は絵が柔らかい感じだからです。

おそらく勝川派、特に春章、春好、春朗(北斎)を勉強(模倣)したと思います。
だから写楽の役者絵はそれらの絵師と似ているのです。
他の絵師と似ているということは、類考で書いてあるほどのことではないと私は思うのです。
ただ、写楽の情報はなくても写楽の浮世絵はあったので、歌麿が写楽のことを「写楽は役者を美しく描かない、似せようとして描いている、それではファンや役者にとってマイナスになってもプラスにはならないんだよ。俺みたいに女性はみんな同じに美人に描かないとな」みたいなことを言ってた、うわさ話を聞いたのではと私は思ってしまうのです。
私がここで何を言いたいかと申しますと、写楽研究をするのなら、今までの定説を全て0にしたところから始めてくださいということです。
どんなに常識の定説だと思っても、それは絶対ではありません。
私はファン・ゴッホを調べているときに、何度もそういうことに出会いました。
あれだけの世界的な画家なのだから、すべて調べ上げられているだろうと勘違いしてしまいますが、そんなことはないのです。
例えば『ファン・ゴッホの書簡』のアルル編でクレポン(crepon)が25回も出てくるのに、だれ一人としてクレポンを研究する人は出ていないのです。
ファン・ゴッホの絵の制作には、ファン・ゴッホがクレポンを見たことにより一大転機になり、そこから新しいファン・ゴッホの絵が生まれていくのに、だれ一人研究しないのです。
最近では『ゴッホの耳』という本が、ファン・ゴッホの定説をいくつもひっくり返しました。
あのファン・ゴッホの研究さえ、定説は信用してはいけないのです。
そして、写楽に関しては6代豊国の口伝が無視をされています。
何故なら、6代国には権威もないし著名人でもないからです。

24、私の見解 (8)

写楽の円は3次元的だ、と6代豊国の本に書いてありますが、そのような表現を書いている写楽研究者は今のところ見つけられません。
つまり絵のプロで写楽研究者はいないということになります。
何か形容詞をずらっと並べて違いを説明している人は多いのですが(ほとんどネット情報、ネットで分かる研究者、ブログなどだけなので偉そうには書けませんが)円を3次元的だという研究者にはお目にかかれません。
しかし、この3次元的な円というものがよくわからないと思います。
6代豊国は本に(P141)『写楽の絵を見てわかることだが、そこには、人物の背中が描かれている。表の面だけではなく、背中が出ている。写楽は、役者の表情を立体的にあらわそうとしたのである。』と記してます。
そうなのかと写楽の全身図を探したが、写楽の全身図は6代豊国の言うように、背中まで描いているというより、ぐにゃぐにゃしているという感じです。
そのぐにゃぐにゃした感じが円が球ということなのでしょう。
写楽の絵は球であると見ていけば、確かにそのように、3次元に見えてきます。
前々章の北斎と写楽の全身図をもう一度見てください。

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写楽の方は確かに背中が描かれ球体のように見えます。
下の写楽の絵も球体で描かれているように見えます。

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つまりプロが見れば写楽の円が分かるということなのです。
歌川派は「北斎の捨て定規、写楽の輪」を伝えていきました。
その写楽の輪とは2期以降の細版によく表れているというのが分かります。
だから、写楽の1期の雲母摺大首絵しか認めない人はアマチュアの判断だということになるのです。
写楽は欄間師(彫刻)だからこそ、立体的に見てデッサンを描くのでしょう。
これは浮世絵師の中で写楽しかできないことでした。
とは言っても、アマチュアからすれば、私のようにぐにゃぐにゃしている絵だな、くらいしか分からなかったでしょう。
しかし、プロはこういう描き方を理想としていたのです。
おそらくこれが理解できた人はいきなり写楽の細版が好きになると思います。
絵を理解すると、いきなり絵の見方が変化するものです。
これが分からない人が写楽の2期以降の絵を非難するのです。

25、私の見解 (9)写楽が誰かをもう一度検証してみます。

役者絵というのは美人画や風景画とは違い誰もが描けるジャンルではありませんでした。
何しろ楽屋に出入りしてデッサンなどをするのですから。
信用がおけない絵師は無理でしょう。
そこで楽屋に出入りが自由な派閥が生まれます。
それが鳥居派と勝川派なのです。
鳥居派や勝川派の絵師ならば役者絵を描きたい新人に対して、先輩が楽屋にあいさつに行けば、それでOKとなるでしょう。
6代豊国の本の中に(P101)『日本の絵師の数は、慶長年間から明治に至るも、その数は、1300弱だと言われるが、そのなかで役者絵を描けたものは、わずか50余人というのである。』と記されています。
浮世絵の絵の中で役者絵だけは違うのです。
今の芸能界と同じです。
タレントの写真を撮りたいと思っても、芸能事務所にコネがあるか大手でないと無理です。
北斎は、写楽デビューの時代から役者絵を一切描かなくなった、だから写楽は北斎だ、という人もいますが、北斎は勝川派を寛政6年(1794年)に破門されるのです。
理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲ともいわれていますが不明です。
勝川派を破門になれば楽屋でデッサンなんてできません。
大手プロダクションから独立したタレントは、たとえスマップでもテレビ局が使わないのと同じです。
しかし、この寛政6年は本櫓が倒産して控櫓で歌舞伎は上演されました。
勝川派は本櫓に強かったので、北斎が控櫓で役者を描くのは問題なかったのでは、と考えられますし、6代豊国も蔦屋は北斎に頼むことができただろうと書いてありますが、やはり破門の年に北斎は役者絵を描けなかったでしょう。
それ故、北斎の名前では描けないから写楽の名前で描いたという、北斎―写楽説も出てきますが、北斎は第1期のようなデフォルメなのか稚拙なのかは分かりませんが、あのような手は描かないだろうし、控櫓といえど、北斎が楽屋でデッサンなんかしてたら破門者なので、問題になり、無理でしょう。
北斎は風景画家と思っている人が多いですが、美人画も風景画も役者絵も(破門になるまで)描いていました。
北斎の代表作と言えば富岳三十六景の『神奈川沖浦浪』だと誰もが言いますが、実は北斎の裏の代表作は春画の『波千鳥』なのです。
春画は美人画を描けなければ無理ですからね。

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      ☝北斎美人画☟北斎『波千鳥』第8編 版木

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このように考えていくと、役者絵を描けるのは勝川派か鳥居派となるのですが、実は歌川派も豊春が歌舞伎公演の絵を描いていますので役者絵を描こうと思えば描けたと思います。
実際、写楽と同じ年に歌川豊国が描いていますし。
役者絵は特別な絵師でなければ描けないと決め付けると、そこから外れる人が写楽になるのは難しいでしょう。
そして前にも書きましたが、売れている絵師がわざわざ写楽の名前で描くわけがないので、売れている絵師も写楽候補ではありません。
ウィキペディアで記されている写楽の本命、阿波の能役者斎藤十朗兵衛も歌舞伎関係ではないのでアウトでしょう。
役者が描いた、というのはあり得そうな感じですが、役者ほど役者がどのように描かれた方がよいかと知っている者はいないでしょう。
写楽のような役者絵を、役者が描くとは到底思えません。
描くなら、歌麿のように顔をカッコよく描くのではないでしょうか。
そのように考えますと写楽候補は絞られると思います。
欄間師の庄六なら、候補から外れますが、下駄屋と貸本屋の庄六なら楽屋にも出入りして、馴染みの役者も多かったでしょうから、これは可能性ありとなるわけです。

25、私の見解 (9) 終了

ここまで書くのに20日かかりました。
これまでに写楽のことを特別調べていたわけではないので、20日でここまで書けたのは、よくできた方だと思います。
ただ、6代豊国の伝承をもとにしていますので、初めから答えを決めて書いているから、早くまとめられたのです。
これが、自分で答えを出して検証して書いていくのなら何年かかるかわかりません。
私が今書いている『ゴッホの愛したクレポン』はフェイスブックなどに書き始めたのは5~6年前ですし、本格的に書き始めてからでも2年以上経っています。
書きあげたのはだいぶ前に終わっているのですが、そこから何回も直しています。
ネットに載せたのは、いくらでも修正がきくので私のような者にとってはとても助かるからです。
この『写楽の正体』も本格的に調べたら直しがいくつも出てくるでしょう。
おそらくその作業は何年もかかるはずです。
何しろ現在では、6代豊国の本以外では、島田氏の上下巻と池田満寿夫氏の『されど写楽』と『これが写楽だ』しか読んでいないのです。
池田氏が写楽の正体候補として欄間師の庄六と書いた本はアマゾンでは売っていません。
国立図書館に行かないとだめなのかも?
また池田氏の描いた本で私が読んだ本は1985年に出版しています。
6代豊国『写楽の実像』は1988年です。
それ故、この2冊は6代豊国を知らないで書いたので結論が違ってくるのは仕方ないことでしょう。
池田氏の本はNHKが取材をするので、あらゆるところに行き検証作業をしています。
有名著名人に簡単に取材できるのですからNHKをうらやましく思います。
おそらくこの時点で6代豊国が本を出版していたら6代豊国のところにも行ったでしょう。
そうなったら、おそらくNHKは困ったはずです。
池田氏が考えていた写楽の正体とは違うからです。
どう見ても6代豊国の方が正しそうと思うでしょうから、そうなったら主役が池田氏ではなく6代豊国になってしまいます。
NHKでは、有名版画家の池田満寿夫氏を主役にしたいのです。
6代豊国をこの時点では知らなかったことが功を奏して番組は大成功します。
写楽の正体はこれで間違いないとします。
検証の仕方がやや一方的に映るくらいは、番組の進行上問題なしだったでしょう。
それにしてもうらやましい限りです。
一緒に調べてくれるスタッフがいるとモチベーションも上がるでしょう。

私は、ファン・ゴッホの論文では、ほとんどの本を読んでいるはずです。
それでもネットで新しい論文を見つけると、大急ぎで自分の論文を直していました。
私は簡単に定説を信じて書いてしまうことがあり、その定説が実は違っていた、みたいな論文を見つけると、ああそうなのかと急いで直します。
『ゴッホの耳』なんてその最たるものです。
日本では2017年9月出版となっていますので、ほとんどのファン・ゴッホ研究家が出した本は間違ったことを載せてしまっています。
もちろんウィッキペディアでは詳しいところまで記していないので『ゴッホの耳』が反映されているかなと思える箇所もありますが、新しい発見に関しては確実な検証がない限りは載せていません。
そのように考えると、写楽の正体は誰々だと書いて出版した本は後で取り返しがつかない内容になっている可能性もあります。
その辺は同情します。
書籍にするならばかなりの覚悟がなければできないですね。
写楽の正体を探る本は、これから読むかわからないし、これで終わりにするかもわかりません。
何故なら、私は『ゴッホの愛したクレポン』と『幕末の浮世絵が印象派を創った』の論文がまだ終わっていないからです。
一通り終わらしてnoteには載せていますが、しょっちゅう修正を入れていますので、完全に終わりだというときはまだ時間がかかるかもしれません。
それでいくと、気持ち的に他にかまうことが難しいのです。
今回の写楽はだいぶ勉強になりました。
古浮世絵の時代ってあまり勉強していなかったので、だいぶクリアになりました。
このような論文を書くときに気をつけなければならないことは、自分の直観に最後までしがみつくことです。
自分の直観で論文を書くことは問題ないのです。
それがモチベーションになって調べよう、書こうとなりますから。
ところが、本格的に調べていくと、自分の直観が外れることがあります。
というかほとんど外れます。
その時にあくまで自分の直観が正しいと考え、その正しいと思うことの裏付けばかりを追い、冷静な判断ができなくなるのです。
新しい発見をした、と最初は思うのですが、それが自分勝手な検証になっていく可能性があるのです。
ただ、写楽に関しては、文献はほとんどなく、その文献にしても口伝だと思われるのだけなのですから、それならば歌川の口伝の方が信頼がおけると思うので、細かいところはいくつも直しが出るでしょうが、結論的なことはよほどのことが出てこない限り直さないでしょう。

追記

6代豊国が亡くなった後に息子さんが7代豊国なりました。
ウィッキペディアには『歌川博三。昭和13年、大阪市生野区林寺町に6代歌川豊国の三男として生まれる』と記されています。
一番下の参考文献には、太田一斎編 『歌川派二百年と七代目歌川豊国』 歌川豊國興隆会、2002年が出ており、他を検索すると2005年に『日本の精神文化を今に生かす! 浮世絵(Part.2)座談会 現代の日本人が失った「江戸の感性」を蘇らせる高濱 正敏, 歌川 博三, 太田 一斎』を見つけられましたが、他はありません。
7代豊国ももう亡くなってしまい、歌川の伝承も潰えてしまったのかはわかりません。
また、ここに出てくる太田 一斎とは私の友人なのですが、私が原因不明の病気を発症してから1年後くらいからはつきあいが無くなってしまいました。
病気によりほとんどの友人、知人とはつきあいが無くなり、沖縄に引っ越してからは数人程度しか友人とは付き合っていません。
実はこの太田 一斎が私に6代豊国を紹介してくれた人物なのです。
彼は、行動力があり気さくな性格だったのですが、今も歌川と関係しているのかなあ?
彼が何かしらの活動を今でもしているのならネットに出てくると思われるのですが、2005年以降は見つけられないのでどうなってしまったのでしょう?

書き終えた後に分かったことを載せておきますが、ちゃんとした文章にはなっていない可能性があります。それは資料的にまず載せている時期だからです。

下は歌麿1790年の歌麿です。
これは大英博物館所蔵の歌麿です。

歌麿38

この歌麿は写楽の「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」と手が似てはいないでしょうか?

写楽5

写楽第1期、大首絵の腕は小さく描かれているのですが「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」の腕が特に小さく、デフォルメされていると言われていますし、そのデフォルメが凄いとなっていますが、写楽の浮世絵の前に歌麿が似たような絵を発表しているのです。
つまり写楽のオリジナルではなく、あくまで写楽は先人の絵を参考にしていたということになるかもしれないのです。
また写楽は人物をそのまま似せて描いていたというのが、後世に評価されていますが、似せて描いていたのは写楽だけなのでしょうか?

豊国48

上は豊国と写楽を比べていますが、豊国も男が女形をしているように見えますけどね。
それに写楽の一世代前の春章の絵は、ほとんどが、役者の顔が似ているように見えます。

春章26

浮世絵は1度の摺り(1杯と呼びます)で200枚ほど摺り、それを初摺りと言います。
初摺りは絵師も立ち合い、色指定を絵師がします。
しかし、人気が出ると2杯、3杯と増刷しますが、それに絵師は立ち合いません。
何故なら、絵師の手間賃はとても安く(6000円くらいと言われている)後摺り迄付き合えるわけがないからです。
それ故、後摺りの色指定は版元がするのですが、初摺りとは違う色を使うことがしばしばあります。
それを異版とも言います。
有名なのでは写楽の雲母摺大首絵で、異版がたくさんあったので、写楽の第1期の浮世絵はかなり売れたという研究者が多くいます。
ただ、これはこれまで書いてきたように写楽は売れてはいません。
私自身は、写楽が現場で200枚のうち何十枚かを色を変えたのではないかと考えているし、写楽の浮世絵を全部見比べればわからないのですが、もしかしたら異版は明治に作られた偽物かもしれないと考えています。
写楽の大首絵の一つに木目の違う異版があるのでそう思ったのですが、これは詳しく調べないと結論は出せません。

下のメトロポリタン美術館、大英博物館、ハーバード大学の写楽の浮世絵を見比べると、メトロポリタンの大首は服に木目があるように思え、大英はあちこち擦ったような白い跡があるし、ハーバードは白いマス目のようなものがあります。
何千枚も摺った浮世絵なら、このような色々に摺られた浮世絵がある可能性がありますが、数百枚程度なら、ほとんどそれは初摺りなので、木目があれば全ての浮世絵に木目があるはずなのです。
有名美術館や大学所蔵の大首絵なので本物として所蔵していると思われますが、もしかしたら偽物かもしれません。
全ての写楽の浮世絵、第1期の雲母摺大首絵を赤外線機械みたいなもので木目を見つければ、それが同じ版だったかわかるはずです。
どこかの美術館主導でやってくれれば、これらの問題が解決できると思うのですがね。
ただ、解像度の良い写楽の浮世絵をネットにある程度の美術館が載せてくれれば目視でも判断がつくかもしれません。

写楽23




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