何度だって戦ってやる

「いや~ちょっと前まで抜け毛ひどかったんすよ!」それは何気ない会話のはずだった。私の言葉に、美容師はこわばった表情で口を開く。「あれ、気づいてなかったですか…?ありますよ、ここに。」彼女が遠慮がちに持ち上げた髪の下には、広大な空白が広がる。円形脱毛症だ。ストレスの象徴、円形脱毛症。思い当たる節しかない。その頃私は、ひたすら忍耐の日々だったからだ。

何に耐えていたのか。セクハラ・パワハラだ。私は当時勤めていた会社で営業部長だったが、直属の上司ですらない役員から「体を使って数字取ってこい」「個人的な飲みに付き合え」「お前の部署の実績を俺の部署に寄越せ」等、ベタなセクハラ・パワハラを受けていた。セ・パ両リーグで八面六臂の大活躍、彼のことは野球おじさんとでも呼んでおこう。理由は不明だが彼は私に執着した。頻回にハラスメントを受け腹に据えかねた私は、上司に掛け合い、社長に訴え、人事に告げ口した。が、状況は何も変わらなかった。何も変わらないならば、我慢するより他ないだろう。自分も隙を見せているのかもしれない。自覚なく彼に迷惑をかけているのかもしれない。彼もきっと寂しい人なのだから、ここは堪えて受け止め続けようか。そう思った矢先、ある出来事が起こった。

その日の野球おじさんは特別機嫌が悪かったのだと思う。ちょっとした私の社内チャット返信が、彼の神経を逆撫でしたようだった。「お前の態度が気に入らない」、その理由で密室に3時間拘束され、罵詈雑言を浴びせられた。生まれて初めての恐ろしい経験に、私は号泣して帰路についた。ようやく涙も乾いた23時過ぎ、彼からの社内チャットが届く。「今日はごめん。言い過ぎた。」プッシュ通知だけを見て未読無視した。しんどい。長時間の激詰めで疲弊した私には既読を付ける気力すらなかった。5分後、今度は着信だ。しんどすぎる。もちろん無視した。例え謝罪だったとしても、もう彼とコンタクトを取りたくない。拒絶反応を起こしていた。そして翌朝5時半。チャットの通知音が私を起こす。「君に、管理職の資質は、ないね!!腹をくくって、本気で、仕事しているなら!!退職届書いて、僕に、提出しなさい。」なるほど。退職届を書くか…それほどまでにご迷惑をおかけし…

とは思いません。実務上の迷惑を一切かけておりません。自分の上司以外に進退や管理職の資質を問われる筋合いはありません。ところで昨日までの謝罪モードはどこへ消えたのでしょうか。私が無視したのがそんなに腹立たしかったのですか。私の反応を気にする前に、その読点だらけの読み辛いおじさん構文を気にかけたら如何ですか。

私は決めた。然るべき対処をしよう。さすがにこれは怒って良い。すぐ2か所に連絡した。1つは前職。もう1つは弁護士だ。まず前職には再入社したい旨を伝えた。幸運にも大変寛大な会社であり、翌月の復帰が固まった。生活の安全は確保された。次に弁護士。これは一発で決まらなかった。弁護士へのフィーは取れた慰謝料額に依存する。相場が50-100万円と低いセクハラ・パワハラはうまみがないのか、インターネットで検索しても対応可能な事務所が少ない。ようやく可能な事務所を見つけても、未払い残業代がないと分かるや無下に断られた。労務関係で唯一、効率の良い案件が未払い残業代なのであろう。それでもしつこく架電を続け、なんとか話を聞いてくれる弁護士に巡り合い、すぐさま証拠を携えて相談に行った。

弁護士は苦笑しながらページをめくる。「これは…証拠十分ですねぇ〜」「うわぁ、気持ち悪…」ご丁寧に殆どの発言を社内チャットに残していた野球おじ。恥ずかしいセクハラ・パワハラを余すことなく伝えるスライドは30枚にもわたった。万全の準備で相談に行ったことが奏功し、スムーズに方針が決まる。まずは裁判や労働審判でなく書面を送って相手と交渉しよう。内容証明は会社と野球おじ連名宛で送ろう。部下への報復禁止も盛り込もう。そうして出来上がった私の要求がこれだ。
■野球おじは2度と私に接触するな
■野球おじは今後私の部下に報復行為をするな。ハラスメントを働くな
■会社と野球おじは慰謝料を払え
■私は退職する。それまで会社は在宅勤務を許可しろ。野球おじと接触しないためだ
特に1点目と2点目だけでも絶対に叶えたかった。野球おじ名指しで会社に行状を暴露するわけであるから、逆恨みはされて当然だ。私や部下への報復禁止だけでは足りず、今後彼との接触を一切断てなければ、安心できないと思った。「弁護士を通じて接触禁止にすれば、まず破る人はいないので安心してください。」その言葉に胸をなでおろし、私は即座に委任契約を締結した。3営業日後には上記4点を記した内容証明が発送されることとなり、そのタイミングで私は勝手にリモートワークへと切り替えた。戦いの始まりだ。

実は、精神的に一番辛いのは内容証明送付後だ。事情を知った同僚からは腫れ物扱い。重要なグループチャットからは続々と強制退席。上司からの業務連絡すら人事経由に。マズローの欲求段階説で言うところの社会的欲求を満たしていたものが、ベリベリと剥がされていくのだ。追い打ちをかけるように弁護士から、期日を過ぎても相手方から返答が来ないと知らされる。自分のしたことは間違っているのではないか?会社に恨まれているだろうか?仲の良かったあの人は裏切られたと感じているのではないか?様々な思いが去来する。オフィスにいないこともあり、相手が内容証明を受け取った後の反応が全く見えない状況は、恐怖でしかなかった。私の弁護士が数度に渡りリマインドし、相手方弁護士から返答を得たのは期日を2週間も過ぎた後だった。手にした書類を眺めながら、何の気なしにその弁護士事務所の名前を検索した。口コミサイトのレビューに目が留まる。私は快哉を叫んだ。

「対応が遅いし悪い。その辺の素人の方が詳しかったです。余計に不利な条件で離婚することになりました。」それが唯一記載されていたレビューだった。当然のごとく星一つ。法曹界の定石なのか、先方からの書面は私の主張を逐一否定するものだった。少しでも自分たちの非を認めたら不利になるからであろう。しかしもはや不安は全くなかった。向こうはレビュー星一つが相方だ、私が勝つに決まっている。

お互いの弁護士が交渉開始してから結論が出るまでは迅速だった。相手方の弁護士が口コミ通りひどかったのか、私の周到な証拠集めが功を奏したのかは不明だが、望むものを全て勝ち取り無事退職にこぎつけた。腫れ物扱いしてきた人とは没交渉になったが私の人生に1mmも影響はなかった。仲が良かった人はちいさな送別会を開いてくれた。愛する部下とは今なお続く友人関係を築くことができた。加えて「嫌なことがあったらまずは証拠をとるべき、慰謝料請求できる!」という貴重な成功体験まで得られたのである。

「髪の毛がないところ、もし見つけたら教えてください!」今日も元気いっぱいオーダーする。
美容院は、強くなった私に会いに行く場所。
円形脱毛症になる程嫌なことがあるのなら、何度だって戦ってやる。

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