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ビニール傘亡国論

いまにも哭き出しそうな空。
それでも出かけなければならない時がある。

そんなとき頼りになるとっておきの相棒が我々人類にはある。
それが傘だ。

太古、
人類は4本足で這いつくばるのをやめ、二本足歩行を始めた。
フリーハンドを得た生物学人類はその両腕で雨を避ける叡智をも得る。
それが傘なのだ。

傘により降りかかる雨を避け、圧倒的パフォーマンスを獲得した人類は瞬く間に霊長類の長となった。

だが2000年代に入り、
人類躍進の原動力だったカサが、我々に災いとなって降りかかろうとしている。
2000年代に栄耀栄華を誇っているビニール傘は我々人類を滅ぼすジョーカー死神なのだ。

デフレの雨除け

ビニール傘はデフレの申し子である。
雨が降り始めると、100均でビニール傘がサッと花を咲かせる。
最近では色とりどりのラインナップとなっており、機能性だけでなく見た目にも洗練されてきた。

一昔前は100円で販売されることもあったが、さすがにここ5年は500円前後が相場となっている。
だがそれでも、依然としてビニール傘は100円ショップの売れ筋商品である。

21世紀の00年代に大躍進した100円ショップ。
それを支えたのが100円ビニール傘だったといっても過言ではあるまい。
この時期は98年に始まったデフレ不景気と完全に合致する。

つまり、
100円ショップもビニール傘もデフレ不景気の申し子だと言えるのだ。



没個性の象徴

ビニール傘ほど没個性的なモノはない。
透明ビニールに黒色の柄がついて、なんとも杓子定規なコンストラストを提示する。

海外工場による大量生産で極限までコストを抑える。
デフレ経済において手垢に塗れた手法だが、このメソッドが最大限に活用されたものが「ビニール傘」だといえよう。

公民館における傘立ての模様 著者撮影


傘立てに行けば、必ずビニール傘に会える。
さしずめ傘立てとは、ビニール傘との出会い系サイトである。

どれが誰のカサなのか、判別するのは難儀困難だ。
判別するために相当な時間コストを労し、それだけで金銭的メリットを使い果たしているという言説もある。
確かにそれも一理あると思うが、時間コストと金銭コストの変換係数に関する論考が未成熟である現時点では、この言説の是非を論じるのは時期尚早ではないか。


所有権の曖昧さ

前項で述べたように、ビニール傘は人生で最も間違えやすい商品だ。

人知れず、間違って、他人様のビニール傘を、使っていた。

これが日常茶飯事である。
いや、その過ちにすら気づかない割合が圧倒的に多い。
だから、そのことに1回気づいたらば少なくとも10回は過ちを犯している。

自信以って生きよ、生きとし生けるものすべて罪人なれば

とは太宰治の言葉だが、
20世紀に勃興隆盛しているビニール傘問題によって、
我々は明確無比なる罪人となっていたのだ。

つまり所有権の所在というものが、安価なビニール傘において曖昧模糊となっている。
経済に見識がある人であれば、
中国において人民の土地所有権などが認められないことをご存知だろう。
それを以って中国は後進国だと揶揄する向きもある。

だがどうだろうか。

我々は前述したビニール傘にまつわる諸問題によって、知らず知らず無意識下において所有権をぞんざいに扱っていた。
これは中国人民が意識化で所有権を放棄していることよりもタチが悪いのではないか。

かたや中国人民には、少なくとも悔しさがある。
もちろん中国人民には、所有権という認識が強くある。
かたや我々日本人には、ビニール傘所有権喪失に対する悔しさは微塵もない。
それどころか我々日本人には、所有権という認識がそもそも希薄極まりない。

果たして、
どちらの政治的かつ経済的リテラシーが高いのだろうか。




大和の国のインテリジェンス

長引くデフレ経済下で、
我々は所有権をいつの間にか落とし物してしまっていた。

「所有から共有へ」が政治宣伝プロパガンダされて久しく、
完全ではないが、所有権という概念が曖昧模糊になっているのは確かだ。

では、
我々は一体どうすればよいのだろうか。

著者専用ビニール傘

画像手前を刮目して欲しい。

手前で一際輝いているものが、著者が1年以上用いている愛傘だ。
無銘ではあるが、数多の死線をくぐり抜けてきた頼りになる相棒である。
彼とは取り違えでアバヨする。
そんな淡白過ぎる結末は真っ平御免である。

そこで「青い輪ゴム」だ。
「青い輪ゴム」を装着することで、著者のビニール傘は他傘とまるで異なる存在に昇華している。
「青い」ではもはや物足りない。
「蒼いヤツ」とでもいった方がいいだろう。

これで取り違える確率は極限まで0%に近接する。
つまり「蒼いヤツ」によって、
ビニール傘の所有権は完全かつ最終的に担保されているのだ。



所有権より大切なもの

「日本では所有権が保障されている」

そう念仏を唱えるのは大いに結構だ。
だが、そう言って満悦している御仁の側で、所有権違いのビニール傘が哭いている。
これが日本で常態化した光景だ。

前述したように中国では所有権が担保されていない。
それを以って中国を後進国だという向きも強い。
だが、少なくとも中国には所有権とは何かを思考するリテラシーがある。
中国には所有権をめぐるインテリジェンスがある。

翻って、
日本はどうだろうか。
日本では国民に所有権が保障されている。
ところが所有権とは何かを考えるインテリジェンスがない。

そして日本は中国に対し、
決定的とも言える経済規模の差をつけられて久しい。 

    名目所有権 所有権リテラシー
日本国民  有     無
中国人民  無     有 

この両者の対照性から見えてくるものがある。 

所有権の有無が肝要なのではない。
所有権とは何かを考える姿勢こそが近代国家にとって肝要なのだ。

所有権とは何か?
それを思案し守ろうとするインテリジェンスを所有しているかどうか?

これこそが問題なのだ。

蒼いヤツで、1年間取り違えとは無縁

所有権を守るためのインテリジェンス創意工夫こそが、その国家の栄枯盛衰を決めるのだ。

所有権とは何かをろくに考えない国民が、
身の回りの所有権すらも守る叡智を持たない国民が、
国家要衝にある島々の所有権を守れるとは到底思えない。

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